Episode.52 特異点
ミーナ達がゴモラに襲われている頃、『古の都』ではリヒトはルカに知識を授けていた。
数日前、ルカには別の仕事を与えると言っていたリヒトだったが、ルカ自身が思い直したように立ち直って自ら申し出てきたのだ。
リヒトとしては目を掛けてきたルカがそう言ってくるならば断わる理由は無いが、一度彼に覚悟の程を問い質しておきたかった。
その為に、今彼はルカに対して非常に核心的な事を教えている。
それを聞いた上でなお、自分にその覚悟があるのかを問うつもりだった。
しかしそんなリヒトは話の途中で何者かの横槍が入ったことを察知し、一瞬険しい表情を浮かべた。
「君か……。久しいね。」
声に出して呟いたリヒトにルカは怪訝そうな表情を向けた。
「どうかされましたか?」
「いや、少し懐かしい人物から接触があってね。」
リヒトは目を閉じると、少し考え込む。
このまま自分達の会話を認識できないルカを差し置いて話を進めるべきか、それとも彼には席を外して貰うべきか。
『信を置く臣下ならば話に加わって貰えば良かろう。』
そんな彼を、懐かしい本当の弟の声が急かす。
「ふむ、それは吝かではない。だが、その為には君の念波を肉声に変換する必要がある。或る御老人の時とは違い、質疑応答ではなく複雑な対話となるだろうからね。」
そう答えると、リヒトは席を立った。
「どうなさったのですか? 念波、という事は貴方にしか聞こえない誰かが話しかけてきたのですか?」
「そういうことだ。ルカ、今私は君に全ての真実を話して聴かせている。ならばこの場に割り込んで来た彼との会話の内容も同時に把握するべきだ。それには別室で待機させているアリスの協力が必要だからね。呼んで来るよ。」
そうルカに告げると、彼は部屋を出て行った。
***
ミーナとシャチがゴモラの攻撃に倒れ、打つ手が無くなったフリヒトは膝を突いている。
エリは最初から戦意を喪失しており、ただ項垂れる許りであった。
そんな二人に向かって、ゴモラは嗜虐的な歪んだ笑みを浮かべたままゆっくりと躙り寄る。
「クックック、俺様の砲撃で主戦力の二人はあっさり死亡、俺様には損傷無し。正に、戦史に類無きパーフェクトゲームという訳だなぁ……!」
ゴモラの言葉はエリにとって死刑宣告でもあった。
結局彼女は何の役にも立たず、彼女に任された仕事はソドムとゴモラにとって彼女無しでも容易に果たせるものだとはっきりと示されてしまったのだ。
エリに残されたのは絶望のみ。
いや、それは今起こったことではなかったのかもしれない。
ダーク・リッチから逃げ出した先でソドムとゴモラに見つかってしまった時から、彼女の運命は決まっていた。
命乞いをしようが、運命は変えられなかった。
目の前にいる幼い少年もまた、どう足搔いても殺されるだけなのだろう。
エリはそれを想うと酷く心が痛んだ。
だが、そんな彼女に予想外の事態が起きた。
少年は、フリヒトは確かに絶望に打ちひしがれていた。
しかし、彼は何とその場で再び立ち上がったのだ。
「ああん? ドチビが、今更逃がさねえぞ?」
「逃げるつもりは無いさ。」
フリヒトはクロスボウを構え、ゴモラに矢を向ける。
エリにとって信じられない行動だった。
フリヒトが持っているような小型の武器がゴモラに通用する訳が無い。
「フリヒト、まさか戦う気なの? 正気⁉」
「どの道殺されるなら、最期まで戦うしかないじゃないですか。」
フリヒトはそう言うと矢を放ち、ゴモラを射殺そうとする。
当然、そんなもので歯が立つゴモラではなく、矢は掠り傷一つ負わせられずに虚しくゴモラの周囲に破片を鏤める許りだった。
「無駄よ。最後まで戦って何になるの?」
「確かに、無駄かもしれないですよ。はっきり言ってミーナさんやシャチさんが敵わなかった相手に僕が勝てる可能性なんてほんの僅か、殆どゼロに近いかも知れない。だけど、諦めてしまったら完全なゼロだ! 殆どゼロと完全なゼロは天と地ほども違う! なら僕は、可能性が少しでもある方に賭ける方が合理的だと思います‼」
フリヒトの決意表明を聴き、ゴモラはゲラゲラと笑い出した。
「ぎゃははは、手前のいう事も一理あるなァ! だが一つ決定的な間違いがあるぜぇ‼ それは手前如きが俺様と戦ったとして勝てる可能性も完全なゼロだって事だァ‼」
フリヒトの無謀な挑戦が始まろうとする中、エリは考える。
確かにゴモラの言う通りかもしれないが、フリヒトの言う賭けの方に自分は小さな、ほんの小さな光を感じる。
ここで自分が動かずにいて良いのだろうか。
こんな子供が戦う覚悟をしているのに、曲がりなりにもかつては仲間を守る為に戦ってきた自分がただ絶望に打ちひしがれていて良いのだろうか。
そう考えた時、エリもまた二本の脚でしっかりと大地を踏みしめていた。
そしてフリヒトの前へ出て、彼にこう告げる。
「フリヒト、君は逃げて。ゴモラは私がなるべく引き付ける。少しでも君が逃げる時間を稼ぐから。」
エリは短剣を構え、ゴモラの前に立ち塞がった。
ここへ来てエリは絶対的な主に牙をむき、一矢を報いる決意を固めたのだ。
「エリ、手前もそこのチビの言う合理性に賭ける気か? だったら二人で戦った方が良いんじゃねえのか?」
「子供を守る為に戦うのは大人の役目よ。」
「クックック……。コドモ? オトナ? 訳の解らねえ単語だなァ! 要するに大くて強い奴が小さくて弱い奴を守るって事かぁ? 不合理だなあ‼」
エリは承知している。
ソドムとゴモラにこんなことを言っても意味が無いという事は重々承知している。
壊物は老若男女の区別ができず、知性があろうと弱者とされる者にも全く容赦なく力を振るう事など知り尽くしている。
だからこそ彼女はフリヒトに逸早く逃げるよう求めたのだ。
しかし、この場の誰もまだ気付いていなかった。
既に斃れたと思われた二人に異変が起ころうとしていることに。
***
リヒトはアリスを連れて自分の部屋へと戻って来た。
そしてアリスは何処か悲壮な覚悟を秘めているような、普段の白い顔がさらに青白く見える表情をしていた。
「済まないね、アリス。」
「いいえ、リヒト様。基より孰れはこうなるべきものと、覚悟はしておりました。リヒト様、御大望を果たされた貴方様とお会いするのを心よりお待ち申し上げております。」
「ああ、今まで御苦労だった。本当にありがとう。」
ルカには二人の会話の意図が今一つ解らない。
だが、どうやらアリスはリヒトとの永い別れを感じている様だった。
アリスは目を閉じる。
その瞬間、ルカはアリスから何かが抜け落ちたような、そんな奇妙な印象を受けた。
リヒトはまるで肉親との別れに立ち会ったかのように天を仰いでいる。
そして再びアリスが目を開けた時、ルカは彼女の身体が全く別人のものとなったかのように思えた。
ふと、ルカは思い出す。
「思念体……。」
一昔前ならば人間の意識、或いは魂などと表現されていたであろうそれが、今アリスの身体を別人に明け渡したのだ。――ルカは何となくそう察した。
そんな彼の直感を裏付けるように、口を開いたアリスから聞こえてきたのは別人のような低く野太い男声だった。
「兄さん、拙いことになった! 私の子孫が壊物、それも嘗て類を見ない強大な存在に襲われている! このままでは貴方が付き添いに出した者達と共に全員殺される‼」
「落ち着きなさい、私の最初の弟よ……。」
リヒトは溜息を吐き、特に驚くでもなく落ち着き払った調子で彼女を制する。
彼女、というよりもそれは彼の弟と呼んだ方が良いかも知れない。
「すぐに取り乱すのは昔からの君の悪癖だ。」
「そういう貴方はいつも自分が正しいと思っている! そうなると人の話を聴き入れようとしない! 私に言わせればそれこそが貴方の悪癖ではないか!」
やれやれ、とリヒトは再び大きな溜息を吐いた。
ルカはこの「最初の弟」という人物と対話することにリヒトがうんざりしているように思えた。
「我が愛弟よ、君の言う事は否定しない。先日も友人に叱られたばかりでね、私自身もそれは重々承知しているよ。だが、『奴』の存在が人類にとって脅威になる事、そして人類を滅亡させる訳にはいかない事、その二点において私と君の意見は一致している筈だ。百年以上前からずっとね。」
「それは確かにそうだ。だが貴方は目的の為に手段を選ばなさ過ぎる。そこに貴方の頑迷さが加わると最早狂気だ。貴方は私の子孫を自分の治世の為に長年利用してきた。生きた人間を装う為に、自分は生きた人間の兄なのだと、そう催眠を掛けて……。剰え今、『奴』を殺そうという試みの為に犠牲にしようとしている!」
「いいや、それは違うよ。」
「だったら許可をくれ‼ 今直ぐあの壊物を殺す為に、私自身の思念を『命電砲』に変えて爆撃する許可を‼」
リヒトの弟は明らかに焦っている。
そして話を聴く限り、どうやらそれ相応の理由があるらしい。
ルカにとってもミーナやシャチが殺されかかっているという情報は看過できない。
しかしリヒトはそれでも落ち着いていた。
「愈々となったら已むを得ないかもしれないね。しかし、今私や君が無闇に己を犠牲にすることなどあってはならない。私達には『奴』を封印する大遺跡を守り続けるという人類維持の為に何より重要な役割があるのだから。」
「そ、それはそうだがしかし……‼」
「心配は要らない。」
リヒトの目が鋭く光った。
「私が何故、彼らに『奴』の破壊を頼んだと思う? 逆に言うと、私は長年どういう人材を待ち続けていたと思う?」
「どういうことだ?」
「まだ文明が栄えていた頃の記録にはこう残されている。」
弟の疑問に答えるのか、それとも構わず話しているのか、兎に角リヒトは言葉を続ける。
「人間の中には時折、常識外れの力を備えた『特異点』とも言うべき個体が現れ、歴史の転換点で陰ながら大いなる影響力を振るったという……。例えばアルビノ形質を備えているにも拘らず陽光も意に介さず全く問題ない視力で世界を見通し、常人を上回る大冒険を繰り広げる者……。例えば戦車でもビクともしないような巨大な鉄の扉を独力で無理矢理抉じ開ける膂力を披露する者……。その力は総じて、人智を超えた領域にあったと、医学、生理学の常識を覆す異常な存在であったと言われている……。」
リヒトの言葉にルカは一つの事を思い出していた。
「そう言えばミーナは最初、ダーク・リッチと戦った時から信じられない力を振るっていた……!」
「うん、あそこの遺跡も私の管轄だからね。当然、戦いの顛末は概ね把握しているよ。」
「兄さん、貴方が私の子孫に付き添わせた者達がその『特異点』だと? だから心配は要らないと?」
アリスの身体を借りた弟の問いに、リヒトは澄ました表情を崩さずに答える。
「そう私は確信している。でなければ、あの二体のゴーレムは斃せない。他ならぬ私がそういう風に戦闘プログラムを調整した。」
ルカは知る由も無い事だが、ミーナがリヒトに初めて会う前に彼女はシャチと共に二体の機械兵と戦っている。
リヒトはその戦い振りからミーナとシャチの実力を確信したのだ。
「勿論、万が一のことは充分あり得る。だから一応、最悪の時は君の申し出を断腸の思いで受けよう。」
「断腸の思い……?」
「私が他者を、それも血を分けた弟を犠牲にして平気だとでも思うかい? 君は実の兄の事を誤解しているようだ。」
リヒトの言葉に弟、ビヒトはアリスの目を見開かせ、そして何かを悟った様に眉を顰めさせた。
「兄さん、済まない……。だが不出来な弟には貴方の心はやはり理解を超えていたのだ。いざという時はやらせて貰う。その時はまた先立つ不孝を許して欲しい。」
「何を言っているんだ、弟よ。その時が来たら謝らなければならないのは私の方だよ。そんなことは当然じゃないか。」
ルカは既に、リヒトが昔の、文明崩壊前の人物であることは聞かされている。
しかし、そこで何があったのかまでは教わっていない。
察するに、二人の間には何か只ならぬ過去があるらしい。
そしてリヒトは、ミーナとシャチが敗けないと信じているようだ。
彼の言う『特異点』たる二人はまだ本領を発揮していないと、彼はそう信じている。
遠く離れた地で、彼の弟ビヒトは壊された車輛を通してそれを見守る。
兄の見立ては果たして正しいのか、それとも買い被りだったのか。
その答えが間も無く出ようとしていた。




