Episode.25 大いなる犠牲
それは一瞬の出来事だった。
ミーナはうっかりダーク・リッチが他者の死体に入り込めることを忘れてしまっていたのだ。
あと少し彼の行動が遅ければ、死体に潜んだ敵から放たれた『破滅の青白光』が辺りを包み込み、ミーナだけでなく守備兵達にも多数の被害が及ぶ大惨事となっていただろう。
一体の壊物の死体を、クニヒトが抑え込んでいる。
敵の致命的な攻撃を受けたのは彼一人だけだった。
彼一人だけが、全部まとめて『破滅の青白光』を受け切ってしまったのだ。
「貴様……! う、動けん……! ならば貴様の死体を乗っ取ってくれる! 早く死ね! 直ぐ死ね!」
だが、クニヒトの体は動かない。
彼は辛うじて絶命を免れていた。
「はぁ……はぁ……。」
「くっ……こいつめ何という生命力だ……! しかも我が入り込むのを拒むとは……! ならば仕方が無い……! こうなったら今この死体から吸収した生命エネルギーだけで……!」
死体から消えそうなほど弱った様子のダーク・リッチが姿を現した。
「今回は退く……だが今回だけだ……! 孰れ必ず、この遺跡に眠る力は頂く……! その時まで我は力を蓄える……! 貴様等も……束の間の平和を……噛み締めておくが良い……!」
そう捨て台詞を残し、ダーク・リッチはその場から忽然と姿を晦ました。
クニヒトはその後も暫く壊物の死体を抑え込んでいたが、徐に呼吸を乱しながら立ち上がった。
『く、クニヒト様……!』
妖刀はその姿に愕然とした様子だった。
金属を身に着けていた胴部は辛うじて被害を抑えられたものの、首や腕などの装備の隙間からは痛々しい火傷の痕が覗いている。
顔はどうにか判別できる程度に無事だったものの、呼吸器官をやられたのかかなり苦しそうだ。
そんな状態で彼は、将軍クニヒトは信じられない大声を張り上げた。
「ミーナよ、四方や約束を忘れてはいまいな‼」
疲労困憊だったミーナは意識を失いかけていたが、クニヒトのこの一声で遅れて事態に気が付いた。
そして、見るからに息も絶え絶えの、死にかけの状態で刀を拾って構えたクニヒトに驚愕を禁じ得なかった。
「そんな……一体何を……?」
「今日の終わりに一勝負、本気の試し合いをすると言った筈だな!」
そうは言っても、クニヒトの状態は明らかに勝負どころの話ではない。
一刻も早く治療を受けなければ命に係わる。
いや、おそらく治療を受けても助からないのだろう。
クニヒトは鬼の様な形相で震えながら立っているのが精一杯という趣だ。
刀を構える所作も、普段の彼からは考えられないほどぎこちないものだった。
「何を言っているの……? それどころじゃないでしょう……?」
「ミーナよ、私に勝ちたいのではなかったのか……?」
クニヒトの声からは先程まで辛うじて残っていた活力も失われている。
「勝ちたいけど……こんな……。」
「ならば剣を構えよ……。打ち込んで来い……。これ以上はもう私も……剣でしか語れぬ……。」
ミーナは泣きながら首を振る。
そんな彼女の背中を押したのは妖刀だった。
『ミーナよ、数日師事を受けただけとはいえ、お前さんはクニヒト様の弟子じゃ。師匠の最期の願いを無下にすることは、況してや稽古を断る事は許されん。』
妖刀の言葉で、ミーナは漸くクニヒトの意図を理解した。
これは儀式なのだ。
弟子である自分が、師匠である彼の手を離れ、一人前になる為の儀式。
もう長くないと悟った師匠が、息ある内に行わなければならない卒業試験である。
ミーナは泣く泣く刀を構えた。
それを見たクニヒトは小さく微笑む。
「行きます!」
クニヒトは応えない。
最早応える力も無い。
ミーナは一刀の下にクニヒトを送る覚悟を決めた。
涙を振り切るように彼女はクニヒトに向かって行った。
師を斬ることは出来ない。
刀は返し、峰でクニヒトを、しかし今の自分に繰り出せる最速の剣を振るう。
クニヒトは微動だに出来ず、首元にミーナの一撃を受けた。
「見事だミーナ……。完敗である……。」
クニヒトは最期に残った命の全部を振り絞るように掠れた声でミーナに賛辞を贈った。
ミーナは構えを解かずに次の一撃を放つ為に振り返る。
クニヒトの教え、戦いの心構えを忘れてはいなかった。
「ありがとうございました。」
礼を言う弟子に、師は何処までも穏やかな微笑みを向け、静かに仰向けに倒れた。
**
その後、クニヒトの訃報は瞬く間に『古の都』全土へと広がり、動揺を呼んだ。
この大規模集落を治める『帝』である兄、リヒトに伝わったのも早かった。
彼にダーク・リッチの襲撃とミーナを始めとした守備兵の奮戦による撃退、そしてクニヒトの死という一連の事態を伝えたのは、唯一彼の傍で雑務の補助に仕える事を許されているアリスという女性だった。
リヒトは最初こそ驚いたように瞠目し、暫し天を仰いだものの、すぐに落ち着きを取り戻して当時の状況を確認すると、こう言った。
「ミーナと、それから守備の任に当たっていた者全員に秘薬を配りなさい。壊物の将が放った攻撃は直後こそ平気に見えても後からどう影響が出るかわからないからね。弟とのお別れは家族だけで簡単に執り行おう。偲ぶ声も多いと思うけれどもあまり大々的にやる余裕は無い。何より、弟が守ってくれたこの集落を発展させることこそが弔いだと思うし、急務だろうから……。」
アリスはリヒトに一礼すると、木の箱を受け取ってその場を足早に去って行った。
「クニヒト……今までよく私や人類文明再興に尽くしてくれた……。君の献身、決して無駄にはしない……。よく希望を遺してくれたね……。感謝してもし切れないよ……。」
リヒトの言葉通り、クニヒトの葬儀は翌日に兄である彼と死者の家族だけでひっそりと執り行われた。
***
ダーク・リッチの襲撃から二日後、ミーナはリヒトに呼び出された。
弟をむざむざ死なせてしまった事を責められるのかと少し不安に思っていたミーナだったが、リヒトの落ち着いた様子からすぐに杞憂であると察した。
最初に『古の都』で彼と対面した時と同様、長机を介してミーナとリヒトは向き合った。
「君にお礼を言っておかなければならないね。君が居なければ壊物の将は撃退出来なかったと聞く。来たばかりだというのによく戦ってくれた。ありがとう。」
「そんな……。」
ミーナはリヒトの謝辞を素直に受け止めることが出来なかった。
クニヒトはミーナにとって束の間とはいえ家族の温もりを思い出させてくれた。
この数日間、彼は師である以上に父親だった。
「弟の事を君が気に病む事は無いよ。」
「でも……。」
慰めの言葉にも、ついつい拒んでしまう。
それだけ彼女に空いた穴は大きかった。
ダーク・リッチの襲撃は自分が招いたことだという思いも彼女に自責の念を与えていた。
しかし、そんな彼女にリヒトは意外な事を言い出した。
「ミーナ、私はね、クニヒトはまだ生きているのだと思うよ。」
「え?」
ミーナにはリヒトの意図が理解できないでいた。
そんな彼女に、彼はいつもの何処までも柔らかで、聞く者を陶酔させるような声で優しく語り掛ける。
「人の死とは何か、君は考えた事があるかい? これはあくまで私の持論だけれど、人の死とは個人の命ではなくその人の生きた証が喪われることだと思うんだ。」
ミーナにとってそれは、初めて接する考え方だった。
彼女の中で何かが晴れていくような気がした。
「生きた証……?」
「そう。弟が命を張って君や守備兵達、引いてはこの『古の都』を守ったのならば、君も守備兵達も『古の都』も、そしてこの私も、皆これから生きていけるのは彼がいたからだ。あの時あの瞬間より、私達は皆彼の命あっての賜物となった。つまり弟は君や彼ら、そして『古の都』が続く限り生き続けることが出来る。そして君が人類を再興させてくれたら、その時は人類の種としての寿命がそのまま弟の寿命になるんだよ。勿論、それは君についても同じことだ。それが、『人の生』だと私は思う。」
ミーナは考える。
クニヒトは何故、最期に自分と勝負をするという約束を果たすことに拘ったのだろう。
それは、自分の生きた証がミーナの中に残っていることを確かめたかったからではないか。
だとすると……。――ミーナは一つの決意をした。
「リヒトさん、お願いがあります。」
「うん、言って御覧?」
「クニヒトさんの、師匠の道場をこれからも使わせて欲しいんです。私、師匠の教えを忘れないようにこれからも剣の練習をしたい。」
「それはとても良い心がけだね。弟も喜ぶと思う。」
リヒトが快諾してくれたことで、ミーナは漸く前へ進む決心がついた。
「ミーナ、シャチが戻ってきたらまたお話しようと言ったね。その時に、私の方からも改めて頼みたいことがあるんだ。その時、君はもっと強くなっている必要があると思う。だから、是非励みなさい。」
「はい! ありがとうございます!」
ミーナは完全に立ち直った。
妖刀もそんな彼女を見て安堵したようだ。
『リヒト様、流石と言わざるを得ませんな……。儂は感無量で御座います……。ミーナ、リヒト様が仰ったことを決して忘れるでないぞ?』
ダーク・リッチの襲撃は一先ず退けられた。
大き過ぎる犠牲を払うことになったが、ミーナはそれ以上の物を去っていった人から受け取った。
明日からまた、彼女は道場で一人基本の稽古を反復する。
そして、シャチが帰って来た時に彼女の運命はまた一つ新しく動き出すのである。




