Episode.97 人間の善悪
扉の奥にはミーナが今まで見たことが無いほど巨大な広間が開けていた。
その中央に陣取っている卵型の陰は、確かにミーナ達の身体に比べると四人ともが悠々と上に乗れる程巨大なものだったが、それでも部屋の大きさを無駄遣いしていると思しき場景となっていた。
だが、部屋に足を踏み入れた瞬間にこの広さが必要不可欠のものであると否が応にも思い知らされる。
封印されていた『ネメシスの脳髄』が纏うどす黒い邪気は、質、量共に筆舌に尽くし難く、同じ空間に居るだけで息が詰まりそうになる。
過去最大の負の想念、世界規模の怨念。
全ての臓腑を失い、大幅に弱体化しているとはいえ、その危険性は痛い程伝わってくる。
多くの者、大多数の人間が当てられただけで激しい希死念慮、破壊願望に取り憑かれ、自滅的な選択をしたのも頷ける漆黒の靄がミーナ達を圧殺しようとしていた。
「これが……人類を……旧文明を滅ぼした力……‼」
ミーナは心が折れそうになる寸前で懸命に堪え続けていた。
他の三人も概ね同じ心境だろう。
『皆、敗けるな! 大丈夫じゃ、お前達なら必ず勝てる‼』
妖刀が四人を鼓舞するも、漆黒の闇の中で全貌を掴めない『ネメシスの脳髄』は、それでも圧倒的な存在感でミーナ達の畏怖を集めていた。
『私はネメシス。お前達は何故解らない?』
それはまるで世界中の怨嗟の声を集めた様な、この世に存在する汎ゆる人間の声を一纏めにした様な多重音声だった。
これ程の深部に在って尚、地の底から沸き上がって来る様な恨み辛みに満ちた声。
それでいて、怒りの神を僭称するに足る威厳に満ちた声がミーナ達に問い掛けてきた。
否、それは問い掛けというよりは批難である。
『人間という生き物が如何に愚かで、醜く、救いようが無い、滅ぶべき存在であるか……。私はただありのままをお前達に突き付けているだけだ。お前達は私が旧文明を滅ぼし、人類を根絶やしにしようとしていると言うが、そうではない。お前達に求めているのは自らの血塗られた所業、罪深き歴史の必然として、自らのけじめを付ける事だ。良心的なものは皆私に従った。無恥なる者、無識なる者だけが尚も真実から目を背け、己を誤魔化し、開き直り、この期に及んで尚自分達だけは助かろうとしているのだ。』
無数の人型、或いは獣型の黒い靄がミーナ達にぶつけられた。
瞬間、ミーナは走馬灯の様な人類史の映像を脳裏に焼き付けられた。
恐らくは何万時間分もあるであろう映像が、彼女の記憶に植え付けられてしまったのだ。
それは人類の所業の中でも特に残虐で醜悪な物を厳選した、正視に耐えないものだった。
四人は立っていることが出来ず、その場に膝を突いた。
ネメシスの圧倒的な怨念によって、戦う前から完全に気圧されてしまっていた。
『人類の歩み、歴史。それは単に、他者を蹂躙し、食い物にしてきた歴史だ。己が利益や快楽の為に強者が弱者を虐げ、多数派が少数派を抑圧し、死骸で詰み上げた山を無神経に笑い辱めながら昇り詰めてきた悍ましき道程の果てに立っているのがお前達なのだ。若し僅かでも良心と呼べるものがあるならば、生まれ来た事に懺悔をし己が命を絶ち、尚も先を歩まんとする愚かな同胞を連れて逝き、全ての未来を閉ざすべきではないか。』
一方的なネメシスの糾弾に、フリヒトとエリは床に肘を、ミーナとシャチは妖刀と戦斧をそれぞれ突いていた。
ただ、それでも下を向くことはせず、どうにか前方の敵影に全員が視線を集めていた。
そんな四人に止めを刺す様に、ネメシスは語気と圧を強めて言い放つ。
『人類が生み出すのはいつも苦しみだけだ‼ お前達は何故解らない‼』
凄まじい突風の様な漆黒の圧がミーナ達に襲い掛かる。
戦う前から、唯怨嗟の声をぶつけられているだけで四人は既に全ての気力を振り絞って対抗しなければならなかった。
目の前に居るのがこれまでの壊物とは次元の違う、最大最強の敵であると痛烈に叩きつけられている。
だが、四人の誰一人として折れてはいなかった。
『私はネメシス……。お前達は何故解らない……?』
「そりゃそうでしょ……!」
ミーナは妖刀を杖代わりに、足元も覚束ないながらもどうにか立ち上がった。
「だって、私達が生きるべきか死ぬべきか、貴方なんかに勝手に決められたくないもの!」
両足に力を入れ、ミーナは床を踏み締める感触を確かめた。
そんな彼女に対し、尚もネメシスは言葉の刃を向ける。
『私が、ではない。人類を滅ぶべきだと執拗に唱え続けたのは他ならぬ人類自身だ。皮肉な事に、人類自身が何物よりも人類を憎み、この種を次代に残すべきではないと呪い続けたのだ。』
「そういう人も居た、ってことでしょ? 私、それは解る気がする。だって私、人間が自分勝手で愚かで残酷だって事、沢山沢山見てきたもの……。人間が多くの間違いを犯して来た事、別に貴方に教えられる迄も無く知っているよ。」
苦笑を浮かべるミーナにシャチ達三人の視線が集まった。
彼女の過去を知っているのは彼女自身だけだった。
ミーナは一つ一つ、思い出す様に述べていく。
「大切に守り育ててきた筈の私を、将来への不安から子供を産むための道具にしようと企んでしまった人達も居た。我が身可愛さに、守るべき仲間を壊物に売り渡そうとした人も居た。」
ミーナの視線が背後の仲間達に向けられた。
「已むを得ず、血を分けた兄弟と殺し合いを演じてしまった人も居る。人類を愛し、存続を願う余り、強い意志で文明を蘇らせようとした反面、多数の犠牲を強い、一族を騙し続けてしまった人も居た。壊物の強さに絶望し、家畜として人類を生き永らえさせるしかないと考えてしまった人も居る。」
シャチ、フリヒト、エリは目を閉じ、各々の中の何かに想いを馳せて立ち上がった。
そしてミーナの方へ視線を向けると、目線で合図を送り彼女の視線を再び前方の『ネメシスの脳髄』へと促した。
仲間達三人の意思を加え、ミーナは更に続ける。
「負い目を感じていたお兄さんに対して心を開けず、互いに協力し合う道を百年以上も鎖し続けてしまった人も居る。自分への劣等感から、人間である事すらやめて壊物に身を堕としてしまった人も居た。」
そしてミーナは妖刀を鞘から抜き、柄を強く握り締めた。
「生きていた頃、自分で背負った役割を自分で果たせず、未練から何百年もこの世を去れなかった人も居る!」
『ミーナ……。』
妖刀の切っ先が前方の影へと向けられた。
「多くの残酷な悍ましい所業を行った国々も、そんな歴史を呪った世界も、人間の歩みが過ちに満ちたものだなんて事は百も承知だ‼ けれども間違いに気付き己を省みて悔いた人、やり直せた人も沢山見てきたんだ‼」
ミーナの、いや彼女だけではなくシャチも、フリヒトも、エリもそれぞれの双眸に強い意志を宿していた。
最早四人はネメシスの怨念に対して一切揺るがない。
ネメシスは怒りと口惜しさを滲ませて彼女を詰る。
『人間の愚かさを解った上で……人間が滅ぶべきだという事が解らぬとほざくのか……‼』
「確かに人間は愚かだから、何度も何度も間違いを繰り返す。でもそれは良くも悪くも足搔くからだ! 正しい道を進もうが、道を踏み外そうが、より良い地平を目指して違う場所へ歩もうとする‼ 仮令世界が壊れていく最中でも! その意思を絶やさない事こそ人間の行くべき未来なんだ‼」
『黙れ‼』
再び黒い靄の塊が四人に向かって飛んできた。
しかしミーナ達はそれぞれの武器で靄を一薙ぎして攻撃を防ぎ、更にミーナの雷光とシャチの旋風が『ネメシスの脳髄』の纏っていた闇をも振り払った。
『ぬおおおおっっ⁉』
漆黒のヴェールに包まれていた『ネメシスの脳髄』がミーナ達の前にその全貌を表そうとしていた。
『ぐううううっっ……よくも……! だがあくまで解らぬというのなら、解らせるまで……‼』
巨大な卵のシルエットを包んでいた霧が晴れていく。
『私はネメシス! 愚かで悪辣なる人類という種に対する世界の怒り! 人類自身が己を呪った怨念の全てだ‼ 私はネメシス! 今ここに、人類を根絶やしにしてやろう‼』
愈々、ミーナ達は嘗てリヒトから託された全ての元凶と対峙する。




