ねえ、ヤるの? それとも… (5)
事件はテスト最終日の最後のコマで起きた。
うちの学校では、どの教科のときにどのクラスで誰が試験監督をやるのかというのは、完全なるランダムとなっている。今まで、どのコマにもあの女教師が試験監督として現れたりはしなかったのに、一番最後の監督官があろうことかあいつだった。
何となく嫌な予感がしたものの、俺は目の前の問題用紙から顔を上げることはしなかった。しかし、あと少しで終了時間というところで、藤村が俺の席から2、3歩前に進んだ辺りで立ち止まった。その気配に釣られて顔を上げてみると、彼女が腰の片側に手を当てた。そして、腰へと視線を落とすかのように、一瞬勢い良く下を向いた。もう片方の手も腰に当てて困惑気味にもぞもぞと身体を動かすと、藤村はゆっくりとこちらを向いて俺を睨んだ。
俺は当惑して眉根を寄せた。するとそこでチャイムが鳴り、答案用紙の回収が始まった。まだ数問ほど確認が済んでいないことを思い出して必死に問題と回答に視線をさまよわせていると、後ろのヤツに肩を叩かれた。タイムアップにがっかりしつつ後ろのヤツから用紙を受け取るべく振り向くと、視界に鏑木の姿が入り込んだ。何となくこっちを見ている気がしたが、とりあえず先に前のヤツに用紙を回す。そしてもう一度鏑木のほうへと首を振ると、やつは大変満足したとでも言いたげな爽やかさといやらしさに満ちたスケベな笑みを浮かべていた。――お前か! お前が藤村に何かしたのか! テスト中に何やってんだよ、お前!
――それにしても。あの女豹、俺のことを睨んだのはどうしてだ? 紐パンの紐が解けるだなんて、自然現象だろ、普通。
俺は前へと向き直りつつ、首を傾げて机の上に視線を落とした。すると、突然藤村から名前を呼ばれ、俺はびっくりして顔を上げた。
「望月君、ちょっと聞きたいことがあるから、この後すぐ私のところへ来なさい。みんなは、そのまま掃除を始めて、ホームルームの準備しなさいね」
俺はその言葉に思わず戦慄を覚えた。そして、クラス中がざわざわと不穏な空気を立て始めた。――ちょっと待て。このタイミングで呼び出しって、まるでカンニングを疑われているみたいだろ。むしろ、本当にカンニングだったら、周りに影響出ないようにこっそりと呼び出すのが普通だろ。この女、わざとだな……!
終礼の声が、とても遠くから聞こえるかのようだった。俺はクラスメイト逹から疑惑の眼差しを向けられながら呆然と立ち尽くしていた。不敵な笑みを浮かべた藤村がドアのところに立っていて、俺がそっちに視線をやると「来なさい」とでも言うかのように顎をクイッとしゃくり上げた。俺は泣く泣く藤村に付き従った。
**********
箒やちりとりを手に騒がしく動きまわる生徒達の間を縫って、藤村の後ろをとぼとぼと歩く。少しずつ人気がなくなって、英語の教科準備室目前のところまでやってくると完全に人がいなくなった。絶望の淵に立たされて踏み出す一歩が重くてたまらない俺とは対照的に藤村の足取りは軽く、形がよく張りもいいプリッとしたおしりを嬉しそうに左右に揺らしていた。
準備室に着くと、藤村は鼻歌交じりに準備室の鍵を取り出した。すると、俺の背後からとてつもなく不機嫌そうな声があがった。
「先生、うちの和馬がどうかしましたかあ?」
――従姉妹様だ。不機嫌極まりないという体で斜に構た舞菜の手には、柄の長いT字の箒が握られていた。俺は何やら物々しい雰囲気を醸し出す舞菜に気圧されて、窓のほうへと後ずさった。すると、藤村は小さく舌打ちをしたあとで、形ばかりの笑顔を浮かべて舞菜と向かい合った。
「あら、望月さん。まだ掃除は終わってないはずでしょう? 早く持ち場に戻りなさい」
「先生、質問に答えてくださいよ。うちの和馬が、何かしたんですか」
舞菜は無表情を崩さず、ブラシ部分で床をトントンと叩いていた。それが癇に障ったのか、藤村は愛想笑いを強張らせて語気を強めた。
「あなたには関係ないでしょう。さ、早く教室に戻りなさい」
「ところで、先生。前々から思ってたんですけど」
言いながら、舞菜はゆっくりと数歩、藤村のほうへと歩み出た。その際、彼女は箒の柄をスッと引き上げ、ブラシに近いところで柄を持ち直した。そのまま、柄をゆったりと傾けて、もう片方の手を柄の先端辺りに添えた。ぴたりと足を止めると、舞菜は鼻をフンと鳴らした。
「たしかにうちの学校って内履きは何履いてもいいことになってますけど、だからってハイヒールはどうなんですか? 馬鹿な男でも引っ掛けたいの? おばさん」
「毎回毎回邪魔してくれて……。あなたって、ホント、癪に障るわね……!」
形ばかりの笑顔を完全に崩しきった藤村が、鬼のような形相でこれみよがしに舌打ちをした。
「それはこっちの台詞なんだよ、おばさん!」
言うが早いか、舞菜は一気に藤村との間合いを詰めた。藤村はとっさに内太ももに手を伸ばしたが、舞菜の持つ箒の柄によってその手を弾き飛ばされた。痛みに顔を歪める藤村の腹に、舞菜はすかさず柄の先端をあてがった。そして、まるでビリヤードで球を打つかのように勢い良くドウと腹を突いた。
よろけながら下方へ下がり、げほげほとむせ返りつつも、藤村は内太ももへと再び手を伸ばした。それを再度弾くと、舞菜は柄をくるりと回転させてブラシ部分を藤村に向けた。そのままブラシ部分で胸を突き、さらにそれを上方に突き上げて顎下を強く打ち払った。
よろよろと後退していく藤村の肩や腹に、舞菜は容赦なく突きを入れ続けた。ひと突き入るたびに、攻撃に耐える限界が近づいてきているのか、藤村の足がおぼつかなくなっていった。それを見逃すことなく、舞菜は箒をブンと一振りして藤村の足を払った。
勢い良く足をすくい上げられた藤村は、その体躯を床に打ちつけた。しかし、何とか受け身がとれていたようで、その勢いで起き上がろうとした。だがそこに舞菜が間髪入れずに数発突きを入れたものだから、結局藤村は床に背中を完全につけることとなった。
舞菜は箒を片手に藤村に馬乗りになった。もがきながらも必死に舞菜から顔を背ける藤村の頬に、舞菜は平手をひとつ入れた。そしてそのまま藤村の顎を掴んで自分へと顔を向かせると、冷たい、無機質のような声でゆっくりと言った。
「目を閉じるんじゃないよ、おばさん。そう、そのまま私の目を見つめて……」
まるで瞬時に洗脳でもされたとでもいうかのように、藤村が微動だにしなくなった。舞菜は目を覗きこむように藤村の顔に自身の顔を寄せた。
――何かが、ざわざわと巻き起こるのを肌で感じ、風が吹いていないにもかかわらず舞菜の髪がふわりと逆立つのを俺は目撃した。そして、今までがとても目まぐるしい展開だっただけに、この静寂がとても不気味だと俺は思った。
しばらくして、舞菜がすっくと立ち上がった。彼女は彫刻のように固まっている藤村の傍らに立つと、箒をくるりと一回転させて柄の先端を勢い良く床に突きつけた。パキリという異音がしたかと思うと、藤村がスウっと消えて居なくなった。