春先の少女に投げて
大学の授業が終わり、気怠いバイトの前に近所の公園で黄昏れるのが、近頃の私の日常である。
五月終盤。例年なら桜から新緑に移り変わる時期なのだが、今年は春の陽気な気温に紛れて桜はまだその身を咲かせていた。
「さくらーさくらー、のーやーまーもーさーとーもー.........」
桜の木々に挟まれたベンチに背をつけて、青い空を仰ぐ。
誰もいない公園で、昔音楽の授業で教わった懐かしい唄を口ずさむ私はヤバいやつだろうか。いや、誰もいないからセーフでしょ。
なんて思っていると、そんなことなかった。
思った以上に近くで、キャッチボールをしている坊主の少年が二人いた。部活の予行練習だろうか。
そして、私の顔も陽気な春の気温に紛れて、一気に暑くなる。
「ふん、私の歌声と君達のキャッチボール。気合いに勝っているのはどっちか、見ものだね」
なんて、恥ずかしさを誤魔化そうと必死な私なんか知らずに、彼らはグローブから音を鳴らしてはフルスイングする。
それでも、この満開の下で一生懸命になる姿は歳なんて関係なく様になるものだ。
「ふふーん」
私はポケットからスマホを取り出して、練習に打ち込む二人を中心に桜木をぱしゃり。
もちろん、盗撮にならないように桜木にピントを合わせてるからセーフ!
こんな感じで、風と一緒に散る花びらと同じように、私の黄昏のひとときも刻々と過ぎていく。寂しい。バイト行きたくない。でも貧乏学生は稼がなくちゃいけない。
だから最後に彼らに聞こえないように、小さな声で唄った。
「さーくーらー、さーくーらー.........」
「何やってるの、お姉さん」
私は隣から聞こえてきた声に、ぴたりと歌を中断する。
ゆっくりと右を向くと、可愛らしい少女が立っていた。キャッチボールをする少年と同い年くらいだろうか。黒色のボブヘアが綺麗に整っている。
私は、知らずうちにスマホで彼女を撮ろうとしていた右手を抑える。危ない。盗撮は良くない。
「お姉さん、危ない人?」
愚直な質問に思わずのけぞってしまった。
盗撮していた事に気づかれたのだろうか。いや、してないけど。
「ち、違うけど.........?」
否定するも、上ずる私の声はまるで犯罪者のようだった。
「さっきもその歌唄ってたけど、流行ってるの?」
こてんと首を傾げる少女。なるほど。彼女の言い分から察するに、恐らく私の歌を不審に思っていたらしい。
私は陽気な気温に反して流れた冷や汗を拭うために額をさすった。どうやら盗撮犯としめ逮捕はされないらしい。よかったよかった。
「さくらのうた、君も小学生の時に歌わなかった?」
「うーん.........」
私の質問に、今度は反対方向に首を傾げる少女。目を細めているあたり、習っていないのだろう。
今の小学生て何を学校で歌うんだろうか。民謡? それともlemonとか?
「お姉さんはその歌好きなの?」
ぺたっと軽い体をベンチに乗せて、私の隣に座る少女はまるで希少な生物でも見る目を私に向けた。
仕方がなく、その気になって答える。
「好きとかではないけど、歌うと楽しい気分になるよ。春って感じがする。君も唄ってみたら分かるよ」
「あたし歌詞知らないから歌えない」
「あ、そう.........」
少女の純粋そのものの答えに私は絶句する。この子達はきっと、天国と地獄に歌詞でもつけて勝手に唄っているんだろう。
私の返答がつまらなかったのか、少女はまた立ち上がってすたすたと対角線上へと走っていて、別のベンチへ座ってしまった。
たまたま目に止まったキャッチボールをしている少年達はまだ熱気に溢れていた。私の歌声よりよっぽど。
時間も忘れて、二人のキャッチボールを見て数十分経ってから、ここまでらしくキャッチボールをしていた少年の一人が少し相方になにやら話してから手を振って公園を去っていった。気のせいだろうか。取り残された方の少年の顔が微妙に赤い気がする。それもそうか。暑い運動をした後のスポーツ選手が冷めるまでには時間がかかるものだ。
あの少女はまだ体を揺すりながら、ベンチに座って桜木を眺めていた。すごい幸せそうな顔をしていたので、そんなに桜が好きなのかと思ったが、私の鈍い感は当たるはずがなかった。
「すみませーん、お歌のお姉さん。そのボール取ってくれませんか?」
「ん、え?」
私が首を傾げたのは、足元にボールが転がってきたせいではない。駆け寄ってくる少年が呼んだ私の名前に、元来不明なあだ名がついていたからだ。
見過ごすわけにもいかず、仕方がなく優しいお歌のお姉さんは足元にある砂で汚れたボールをとってやることにした。
ボールをとりに私のもとへ近寄ってきた彼の顔は相変わらず赤かった。まるで誰かに告したい気持ちを抑えるような、うん? 抑えるような?
「へぇ、なるほど」
「? 何がですか?」
察しがついた私は思わず彼を見つめ破顔する。
「少年よ。お歌のお姉さんを舐めるではないぞ」
「.........はぁ」
訳が分からないとでも言いたげな少年の困ったような表情に私は、あだ名をつけられた仕返しをしてやることにした。というのは建前で、本当は少年を熱から覚ます気がなかったのだ。
「おーい、そこの少女!」
私は歌声より大きな声で、まだベンチに座っていた少女に手を振る。
少年の方もちらっと伺うと、まぁベタな顔をしていたもんだ。
私はベンチから立ち上がって全力でピッチングのポーズを取り、ボールを青空へと投げた。
私の声が届いたようで、少女も降ってくるボールに目を向けて上手くキャッチしてくれた。
まぁ、キャッチして欲しいのは私の投げたボールじゃないんだけどね。
得意げな表情をして少年をみると、少年は対照的に罰の悪そうな顔をしていた。
腕時計をみる。
盗撮犯で、優しいお歌のお姉さんでもある私はバイトに遅刻をしてしまったようだ。
「若いねぇ」
私は踊るような気持ちを抑えつつ、さくらの歌を唄いながら公園を後にした。