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クリスマスソング

 須賀ハツミが復帰したのは、病状公表の約一年後の冬だった。秋口から本格的に彼女はまた歌を歌い出した。ほとんど誰も足を止めない、街の公園のベンチでアコギを鳴らして弾き語り、子供たちが口ずさむ音に調子を合わせて即興でも歌を歌った。落ち葉の歌、秋の雨の歌、雪虫と冬の歌。双葉と過ごしたクリスマスの歌。子供たちの誰かが誕生日だというので、ハッピーバースデーと歌った。彼女は目の前の子供たちがいつか自分に聴かせた歌を振り返るかどうか考えて歌った。子供たちが帰り道で一緒になって歌う歌を。

 「お礼に歌を歌ってあげるね」子供たちの内の女の子がそう言った。そうして女の子やそれに続いた他の子供たちも、習ったばかりの覚えたばかりの歌を歌い始めた。不思議とキーは揃っていて、寒空の中でも綺麗に響いた。彼女と子供たちはお互いのソングスを交換してそれぞれの帰り道を歩いていった。

 そしていつかその歌を思い出すとき、それは彼らの中でしか、ちらちらと心拍する記憶の音楽になるはずの歌だった。誰かが上手く眠れないときに思い出すおやすみの歌。彼らが高校生ぐらいになって昔こんなことがあったんだと物語るときに歌う歌である。

 またその数日後には、彼女はバンドのメンバーたちと来年の活動復帰に向けた準備を進めていった。本当は今年の初めに歌うはずだった歌をみんなで演奏し、あの春に見据えていた自分たちのいない地点に向けて歌った。彼女のレスポールはそのソングラインへ向けて歩き出す最初の一歩だった。そのメロディは寒空に響いた。街の音に溶け込んでいき、いつか消えてしまうメロディを。偶然聴いた誰かが口ずさむメロディを。それは彼女が手にした新しいメロディだった。そしてまだ雪が積もったばかりで誰も踏み入れていないずっしりと重くて硬い雪の道の中への一歩だった。

 その途中の道で、彼女の聴力は何度か落ちていったが、あらかじめ準備していたおかげでその度に持ち直していった。全国ツアーはまだ難しいが、一つのライブを歌い切る体力も徐々に戻っていき、その年の最後の日までには正式に復帰する準備は整っていた。須賀ハツミの中には、新しいメロディが根付いていた。そうして携えられた新しい歌は彼女の口から自然に溢れ出ていった。

 クリスマスライブの後、彼女の部屋に双葉が再び訪れた。二人でクリスマスパーティの準備をした。ローストチキン、ポテトオニオンスープ、にんじんとブロッコリーのグラタン、ミートボールとトマトのパスタ。シャンパンとおいしいコーヒー。クリスマスケーキにはレスポール風のギターのチョコレートが飾り付けられていた。メッセージは音符と音階で、彼女の歌のフレーズがデコレーションされていた。

 「この歌の続き、聴かせてよ」双葉は、クリスマスライブで途中から参加したため、最初のこの歌を聞き損ねていた。

 「いいよ。歌うよ」須賀ハツミは、ケーキにデコレーションされたフレーズをギターで弾き語った。即興でアレンジを加えて披露されたその歌を聴いた双葉は泣きじゃくった。それは今でも自身で口に出来ない傷跡を思い出すためのソングラインだったからだ。それは須賀ハツミの胸を抉ったナイフで切りつけたような傷跡から生まれたソングラインでもあった。二人が歩んできた道は別々でも、途中で交差し、一つの渓流地点を作り出していた。その溜まりのような広がった道を、今、二人は後にしようとしていた。彼女たちは自分たちが損なわれたときを改めて脳裏に焼き付けながらその歌を、今度は一緒に歌った。

 そのメロディは、後にレスポールのソングラインという曲になった。その歌を歌った後、二人でもう一度乾杯した。それから双葉がクリスマスの定番曲をメドレーで歌い、ハツミがギターでメロディを繋げていった。それは他の誰も聴くことのない、二人の思い出にしか残らないクリスマスストーリーの歌だった。ある種、秘密のソングラインがその夜を締め括った。

 それから二人はクリスマスプレゼントを交換しあった。双葉からは好きなブランドの化粧品のセットが須賀ハツミに贈られた。須賀ハツミからは双葉に好きなブランドの香水を贈った。そして二人はクリスマスソングを一つずつ交換しあった。須賀ハツミが歌ったクリスマスソングは定番の曲だったが、双葉がどんなクリスマスソングを歌ったのかは私にすら教えなかった。はじめは私をからかうための彼女の冗談だと思ったが、どうやら本気で明かさないつもりらしい。

 「いくらあなたでも話せない話があるんだ」

 「親友にしか明かせない秘密ってやつかい?」

 「あなたも親しい友達だけど、これだけはね。後の話は全部、本当の話だよ。それは誓ってもいい」須賀ハツミは頭を悩ませる私に一杯奢り、この続きを話した。

 「まあでも、ヒントをあげるよ。あなたが好きな物語の中にそれはあるんだ。それだって本当だよ」私は自分が好きな物語について思い返した。しかし恥ずかしいことに、私は彼女の話に繋がるような出来事を何一つ思いつけなかった。

 それ以降、私はその話に突っ込んだりはしなかった。何ヶ月か経った後で、あくまで想像で、思いつくストーリーはいくらかあった。だが、それは野暮ってものである。だから私はその夜がどうだったかと聞かれると必ずこう答える。

 それは須賀ハツミが病気を患って以来、一番歌を歌った日になった。

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