いつか自分が歌を歌うための新しいメロディの萌芽
その次の日の朝も、須賀ハツミは左耳の治療法を探した。昨夜からほとんど一睡も出来ていないのだが、それも全てこの難聴のせいだった。最初に鳴っていたヒュー、ピュー、ヒューというつむじ風のような音に他の煩わしい音も重なった。中耳炎を患ったときみたく動くとその分の音が空洞で揺れるときもあれば、真空状態で綿で擦られているような音、またそこからゆるくミキサーでもかけるような音がしていた。
彼女の脳内では、一日中ほとんど止まらない耳鳴りがしていた。頭が変になってしまいそうで、そうならないよう彼女は留まろうとした。聴こえている方の耳、自身の右耳の聴力を頼りに周囲の音を聴き取っていた。ただし両耳で聴力に差がある以上、それを保つだけでもとても苦労した。右耳と左耳で、それぞれ全く異なる音が自分の頭の中で散らばっていくのだ。だからどこまでが正常の聴力で、どこからが異常な聴力なのか判断かしづらかったし、本当は正確に音を聴き取っていても、その自信はなく、常に不安がつきまとっていた。難聴を発症してからその境目がどんどん曖昧になっていき、本当はきちんと聴けている音も、幻聴じゃないかと彼女は錯覚するほどだった。それでもそれらの音階はわかった。大抵、レ、ミ#、ファ、のどれかだった。それらの音階の歪みが彼女の中で生まれていった。それはもしかしたら若い夢見人たちのための甘酸っぱい挫折の歌かもしれなかったが、そのメロディはちぎれたユメのメロディに変わっていった。そんな瞬間が何度も何度も彼女の元を訪れた。いつか自分が歌を歌うための新しいメロディの萌芽が摘まれていった。彼女のソングラインに根付いた春の歌はまだ遠く、静かに広がりつつある冬の霧の中に包まれていた。
ただそれも須賀ハツミにとって今では受け入れつつある現象の一つとなった。診断を受けてから、このショックにいつまでも揺れていてはいけないと感じ出したからだ。彼女はその長き冬を受け入れる準備をした。それがストレスであるのは変わりないが、ショックは和らぎつつあった。かつては音楽が必要と言えないくらい落ち込んでいたのだ。
とはいえ、いくつか試した投薬治療がそのショックを和らげる手助けには上手く当てはまらないケースだったし、その時点では、劇的な回復が彼女に訪れもしなかった。それは彼女が大好きだった歌も遠ざけ、ギターの練習だっておろそかになるくらいの日々に繋がっていた。先の二人でクリスマスソングを歌ったのを除けば、ほとんど歌や楽器に触れたりしなかったぐらいなのだから。
しかし彼女には出演しなければいけないライブが控えていた。世界には大勢のミュージシャンがいて、ほとんど誰もがクリスマスライブや年末のラジオ番組での生歌を披露し、街のレストランやイベント会場で弾き語り、ライブを開く。彼女もまたそうしたオファーをいくつか受けていたし、歌を引き受けた時点で彼女自身は、今年も歌うつもりでいた。一つ一つの会場に思い入れもあるし、初めての会場にしてもファンからの待ち遠しかったとよく聞いていた。
だからこそ彼女は、本当は休んだ方がいいのだろうと思っていたが、もしここで今やっている音楽を放っておけば、もっとずっと絶望していたかもしれない。ただ何とか今この精神状態で歌える歌はほとんどないかもしれない。しかし彼女は歌った。歌うと決めたのだ。もちろん休むのがずっと賢明な選択だったに違いない。だが、須賀ハツミは自分がずっと家にいて薬を飲んでもストレスが軽減はされないし、治癒も捗らないとわかっていた。それよりかは少しでも時間を推し進めたかった。とにかく一日を一歩ずつ先に進めること、誰よりも丁寧に進むことだけは、心がけた。
「部屋にいてもすぐ治るわけじゃないから」だから彼女は歌ったのだ。いつもより不安定な歌声が今でも記録メディアに残っている。しかし私はその歌をときおり聴き込み、彼女のレスポールが奏でる音に耳を傾ける。心の恐怖でしか語り得ない優しさや温もりがそこでは繰り広げられていた。私は彼女の向かい側にいた。須賀ハツミは、そのときにはすでにレスポールのソングラインを歩き始めていたのだ。