あのつむじ風の音
須賀ハツミがその病名を診断されたとき、まさにそれは死の宣告に等しかった。
治療中、彼女の耳は何度か復調のきざしを見せても、完治を意味する状態にはならなかった。だから彼女の耳の中では、特に体調が思わしくないときに、あのつむじ風の音が聴こえてくる。ヒュー、ピュー、ヒューと。そしてまだ彼女の歩く道は、春先になっても雪解けの気配すら見せない。
彼女が発症した突発性難聴には、主に二種類あった。外傷性とストレス性だ。彼女が罹った突発性難聴は、ストレスが原因で発生したものだった。とはいえ、須賀ハツミ自身に原因があったわけではなかった。その原因は、彼女に大いに思い当たるところがあった。ちょうど一年程前から、彼女へのSNSによる執拗なストーカーが自分につきまとっていたからだ。
須賀ハツミへのナイフで胸を抉るような心ないコメント、中傷や暴言を含んだリプライ、DMによる男性器の画像添付などセクシャルな内容の誹謗が、感染症のように彼女の音楽活動や生活の中に広がっていった。
彼女は当然それらの相手をしなかった。事務所のコンプライアンス研修でも、上記のような投稿には一切反応しないのが、適切な対応だった。それが最もメンタルを疲弊せずに済むし、炎上しないためにも無視を推奨された。しかしそれを良しとしない彼らはみな執拗で、狂っていた。それらを排除しても、そう簡単に病原菌が死滅あるいは、感染を妨げられるわけではなかった。そして不運な出来事が起こった。須賀ハツミは、ファンを装った人間の隠された本性に触れていってしまった。それまで感動的なほどなメッセージをくれた自身のファンが、須賀に彼氏がいるという報道を見て、その感情を全く別の形でむき出しにした。その元ファンだった男性は、思いつく限りの酷い言葉を浴びせた。その酷い言葉が空気感染し、彼女の生活の中で入り込み、彼女自身を温床の苗床に変えていった。たちまちウイルスが身体中に広がった。道が閉ざされ始めたのは、彼女が俯き始めたのはおそらくこの頃だったと思う。
自分には生きている価値もない。もし歌が聴こえなくなってしまったら、それは現実になるのだ。そしてその症状は悪化していった。須賀ハツミはその日に限って自分の歌がみんなに届いていないのではないかと感じてしまった日だった。あんなに大好きだったクリスマスソングをこれまでよりは楽しく歌えていない自分に気がついてしまったのだ。こんなことってあるのだろうか、彼女は本気で悩んだ。
その二つの出来事は重なり合い、より強固な菌となって彼女の中で広がっていった。こうなるともう止めるのは、自分では難しくなっていった。そして彼女はストレス性突発性難聴を発症した。
「出来る限りの治療は、全部やってみましょう」主治医の田中先生は、そう言った。ストレスが原因なのだから、SNSを辞めればいいとも話してくれた。でもそうすると、周りからたくさんの人たちが一気に消えてしまったようにさえ、感じた。そこから知り合い、レコーディングに参加してくれたミュージシャンや、プライベートで遊ぶアイドルの女の子たち、とりわけ熱心に、あるいはほんの一瞬だけでも自分の歌を聴いてくれる人たち、そのほとんどの人たちが、自分の歩む道からは見えなくなっていった。でもまたいつかどこかで会えると信じていた。確信はないが、レスポールのソングラインがその道に繋がっているだろう。彼女はその幻想の道がたしかな道標となるように、歌を一つ一つ残そうと決めた。