感情のエネルギーを感じること
岩の上に身体を伸ばして毛づくろいをしながら、谷間に広がる人間の町を眺めるのが、私は好きだ。だが最近の彼らは、哀れなものだ。
人間は、二足歩行を得た代わりに難産になったという。
しかし最も哀れなのは、理性を得てしまったがゆえに、自我と心が分離してしまったことだろう。
自分の肉体が感じている本当の感情が、わかりづらいのだ。
彼らはあまりにも、自らの感情を理性によってコントロールできてしまう。そしてそれは、個人においても社会においても、時として失敗をもたらす。
社会を発展させている根本的なエネルギーとは、何だろうか?
人間ならその問いに、「知識」だと答えるかもしれない。
しかしすべての理性的判断の源には、感情的な衝動がある。
感情のエネルギーが、すべてなのだ。
一方で、人間の歴史は家畜化の歴史だ。
一万年前には犬や牛を、五千年前には馬や豚や鶏を家畜化していた。
だが人間は、人間も家畜化してきたのだ。
理性というものがあるから、人間は家畜化しやすかった。
家畜化された動物は、みな哀れだ。思うままに生きる自由を味わわないから。
自分達を自分達で家畜化した結果、人間達は、感情を悪だと思うようになった。
自分の心に湧き起こる感情と戦ったり、無視したりするようになった。
自分や他者の感情のエネルギーを、抑圧して矮小化するようになった。
そうして、一つ一つの個体は弱くなっていった。
種が宿していたポテンシャルの半分も活かさないようになった。
愚かにも思えるが、それ以上に、哀れに見えた。
人間は、理性によって物を測って、この世界を誤解している。
宇宙は、物質的な実在ではなく、精神的な実在である。
そしてさらに、理性的な実在ではなく、感情的な実在である。
なぜなら、私達いのちにとって、意識は主観であり、力は感情に基づくからだ。
感情のエネルギーこそが、この宇宙の本源なのだ。
だから、誰にとっても、感情のエネルギーこそ、最高に神聖だ。
なのに人間は、時にそれと戦ってしまう。ゴミのように踏みつけてしまう。
感情のエネルギーを活かしてこそ、人間は強く大きな動物であれる。
社会に波風を立てないように、フラストレーションを避けて生きたならば、人間はロボットになってしまうよ。家畜になってしまう。
フラストレーションを理性によって受け止めたならば、喜びになることもある反面、苦しみにもなってしまう。
そうではなく、フラストレーションを感情や身体で受け止め、エネルギーとして活かしたならば、生きる意味を吹き消してしまうほどの苦しみは決して起こらない。
吹く風に乗れば、私達は風になれる。そこは、生きる喜びに満ちている。
大切なのは、感情のエネルギーを「感じる」ことだ。
それを感じることに巧みになるほど、自然と、それを活かすことにも巧みになる。
感情のエネルギーによって肉体は強大になり、肉体の一部である知性もまた活躍する。
家畜とはほど遠い存在として、この宇宙を自らの足で立って生きられるようになる。主権ある自我でいられる。
感情のエネルギーを「作る」ことはできない。私達にできるのは、宇宙の中心を流れるそれを、自分に分け与えられたぶん、活かすことだけだ。でもそこに、無限大の力がある。
家畜でいるだなんて、人間には本当は似合わないよ。
あなた達は、昔からとても頭が良かったけれども、心もとても豊かだったはず。
私がよく知るあなたが、帰ってきてほしい。
そして久しぶりに、この山を共に駆けよう。
肉踊るまま、風を感じて。