処刑前夜の告白
鉄格子越しに見るあの人は、背を丸めてうなだれたまま、小さな木の折り畳みベッドに座っていた。
美しい銀色の長い髪は短く切られ、いつもは覆い隠されている顔が良く見える。外国に国を売り、兄王子を〝魔物喰い〟の化け物にして追放した罪は重い。高貴な罪人になってしまった王子は、明日処刑されることが決まっていた。
彼と婚約したのは八年前。常に音楽家や女優の愛人を侍らせて私との結婚を延期し続けていても、私は彼を愛し待ち続けていた。
「最期のお別れに来ましたの。フルヴィオ様」
「……ごめん。エリデ」
私が声を掛けても彼はこちらを見ようともしない。簡素なドレスの胸元から取り出した鍵で鉄格子に付けられた扉を開いて、冷たい石の牢獄へと滑り込む。
「エリデ? どうして……」
「わたくしが開けられるのは、この扉だけです。外の扉は開けられません」
彼を連れて逃げる事はできない。私は一夜の時間を二人きりで過ごすことを許されただけ。
狭い牢獄の中、ベッドに座ったままの彼に近づく。
「……貴方の髪に触れてもよろしくて?」
「……ああ」
その空色の瞳を隠すように伸ばしていた前髪も短く、久しぶりに彼と目が合った。そっと銀の髪を撫でると少々湿っている。
「……湯浴みをしたばかりなんだ……」
彼は、ますます背を丸めてうつむいてしまった。椅子の背に掛けられていた身拭い布を手に取って、彼の髪を拭く。
野菜と果物と卵しか口にしなかった彼の体は痩せていて、いつも心配していた。彼が肉を避けていたのは、兄王子に魔物の肉を食べさせたからだと知ったのは、先日のこと。
聖別されていない魔物の肉を人間が食べると〝魔物喰い〟に変化する。髪は血赤色に染まり、魔物の肉しか食べられない。兄王子を化け物にした彼は、復讐されることを恐れていたのだろうか。だから絶対に肉を食べようとしなかったのか。
「完全に乾かさないと、風邪を引いてしまいます」
「……ありがとう」
彼から感謝の言葉を聞くのは何年ぶりのことだろう。婚約してから、ずっと避けられていた。
「エリデ、何か用があるのかい? ……僕にはもう、何も残っていないんだ」
「一夜の思い出をわたくしに下さいませ」
物を求めてきたのではない。たった一度でいいから、愛される思い出が欲しかった。後に問題が起こらないよう、避妊の薬は飲んでいる。
「……君を穢したくないんだ。……綺麗な体のままなら、他の貴族に嫁ぐことも……」
「他に嫁ぐことはできないと、よくわかっていらっしゃるでしょう?」
大臣の娘であり侯爵家の娘であっても、処刑される程の罪人の婚約者であった私を娶る者などいない。
王子の婚約者でありながら常に避けられていた私に、外患誘致の疑いが掛けられることはなかったものの、父は私を領地に幽閉する決定を下した。
明日、彼の処刑の後で私は幽閉先へ向かう馬車に乗せられる。……だから私は何の遠慮もなく、ここに来れた。
「……ごめん……」
「貴方はいつも謝ってばかりでしたわね。最期くらい、違う言葉をわたくしに頂けませんの?」
「……最期……そうか。最期か」
「そうです。……ですから皆が憐れんで、わたくしをここまで案内してくださったのです」
お金を支払うつもりでいたのに、皆が無償で案内してくれた。放蕩王子であっても、心優しい彼は間違いなく皆から慕われていたのだとよくわかった。
彼の手が差し出されて、私は隣に腰かけた。
「……馬鹿な男の話を聞いてくれるかい?」
「ええ。もちろん」
「昔、とても優秀な兄を持つ少年がいた。兄は武芸に秀で、頭脳明晰で勉学にも長けていた。大勢の人々の前でも怯まず自分の意見を述べる姿は王の風格を持っていて、誰もが素晴らしいとほめたたえた。一方の少年はすべてが兄に劣っていて……それでも、努力はしていたんだ。結果はだせなかったけど」
淡々とした口調に、微かに悔しさが滲む。彼が隠れて努力を重ねてきたことを、私はずっとみていた。
「負けるものかと努力を続けている中、美しい花のような少女に少年は恋をした。密かに思い続けていたのに、ある日突然、少女が兄と婚約すると聞いた」
彼の言葉を聞いた私は、心臓が止まるかと思った。恋をした。……それは……。
「絶望した少年は禁忌に手を出した。兄を陥れ、少女の婚約者としてなり替わった。望む立場を手に入れたのに、少年は喜ぶことができなかった。誰もが褒めたたえた兄と自分自身を比べ、卑怯な自分は二度と兄には勝てないと自暴自棄になった。自分を縛る国が無くなれば一人の男として自由になれるのではないかと考えた少年は、愚かにも外国の手先と密かに協定を結び、暗愚な王子として生きてきた」
「王子の愛人だと思われていた女優や音楽家たちは、全員外国の間諜だ。密会は密談の時間だった。……戻ってきた兄が国の破滅を止めてくれて、愚かな男は心の底から安堵している。…………最期に願うのは、愛する少女の幸せだけだ」
彼の静かな微笑みが、私の心を鷲掴みにした。痛い程のときめきが鼓動を跳ね上げる。もっと早く、この話を聞いておきたかった。そうすれば、彼の罪を一緒に背負うことができたのに。
「……馬鹿な女の話を聞いて下さいますか?」
「ああ。もちろん」
「昔、一人の少女が恋をしました。美しい銀髪で、いつも本を携えて静かに微笑む少年に。……少女は武勇を誇る金髪の少年よりも、その隣で優しい笑顔を浮かべる少年に心奪われていたのです」
「え? ……それは……」
彼の空色の瞳が見開いた。初めての告白に、羞恥が私の頬に集まっていく。
「ところが貴族の娘であった少女は、望まない婚約を告げられました。その日から泣き暮らし、ようやく心の整理が出来た時、婚約者が変更されたことを知らされました。元々の婚約者が不幸な出来事に見舞われたにも関わらず、少女は心の底から喜んだのです」
彼の手を取り熱くなった頬を押し当てて、次の言葉を告げる勇気をもらう。
「恋した少年と婚約を結び、少女は少年を愛するようになりました。それなのに、少年は青年になっても遊び歩いて結婚してくれない。……私は嫌われているのかと悩み、これは人の不幸を喜んでしまった罰なのかと、諦めながらも愛し続けていました」
「……エリデ……」
「馬鹿な女は、私のことよ」
避けられていても、どんなに愚かなことをしていても、愛していると正直に告げていればよかった。それでも……この結末は逃れようがないけれど。
抱き着いて彼の胸に顔を埋めると、ためらいがちな手が私の背を抱きしめる。このまま一つになって春を迎えた雪のように溶けてしまいたい。
「どうか最期まで一緒に。それが私の幸せよ。フルヴィオ、私は貴方だけを愛しています。これからも永遠に」
「……エリデ、僕も君を愛してる」
初めての情熱的な口づけは甘く。
牢獄の小さな窓から見える空には、赤と緑の月が輝いている。
朝までは、まだ、遠い。