サージャとギルス2
ギルスお坊ちゃんの番
ギルスは珍しく焦っていた。
いつも鷹揚で、飄々とした彼が、本当に珍しく焦っていた。
原因は、護衛対象と離れた事。
護衛としてはあるまじき事。
だが、サージャは走り出してしまった。
ああなると、彼女は止まらない。
「行って!必ず迎えに行きますから!」
背中に、そう声を掛けるのが精一杯だった。
相対する相手は、生易しい『敵』ではない。
声を掛ける一瞬の隙にすら、手にする斧を叩き込んできた。
「手元がお留守だぜぇ!ギルス坊っちゃんよお!!」
「くっ!」
重量のある戦斧は、剣の刃で受けると剣が負ける。叩き折られるからだ。
ギルスは咄嗟に、より頑丈な持ち手を使って戦斧を止めた。左手と右手の僅かな間に戦斧の先端を挟み、餅つきのように、柄部分を斧の側面に叩き込み、弾く。
神業のような繊細な技術。これがギルスの売りだった。
距離を開けて、お互いに構え直す。
「アンタに言われても、嫌味にしか聞こえねえな。キルギス」
「ハン!嫌味で言ってんだよ!ギルス坊っちゃん!」
しかし、坊っちゃんと言われるのは十何年ぶりだか。
自分の『敵』は、名をキルギスと言う。
カーリアスの右腕で、力においては最も信頼される相手だ。海の猛者で、イルカーシュ女王国の海軍のトップ。
そして、ギルスにとってもサージャにとっても、因縁浅からぬ相手だった。
ギルスは元、海軍トップの息子である。
当時の海軍は、グラーニ海軍と言った。
ギルスが五歳の時までその海軍は実在し、ギルスも五歳までは遊び場の代わりに船の上を走り回っていた。
あの頃は、確かに坊っちゃんって呼ばれてたなぁ。
懐かしい。
「俺はなぁ、お前のその綺麗な顔が大っ嫌いだよ。お前の親父も、お前も!俺が欲しい物を全部持ってやがって!」
「知るか!親父の事なんざほとんど覚えてねえよ!」
「お前の母親はな!俺が最初に惚れたんだ!お前の親父は横からかっさらって行きやがった!今度こそ、今度こそ渡さねえぞ!サージャは俺の女にするんだ!」
「お前にだけは、ぜってえ渡さねえ!!」
剣と戦斧が打ち合う。
叫びながら、一合、二合打ち合った。
ギルスが横なぎに剣を振るうと、キルギスは後ろに一歩飛びずさる。長い戦斧の間合いになる。
大上段から斧が振り下ろされる。
大きすぎる動作だ。だが、隙だらけだと舐めて懐に飛び込めば、棍棒のような腕の一撃を食らう。
ギルスは冷静に、右へ半歩、体を動かして、振り切った際の篭手を狙う。
伸び切った腕を引き戻すには一拍必要だ。戦斧が重すぎて。その一拍を狙う。
剣はキルギスの手首を捉えたが、位置を僅かにずらした金属の篭手に弾かれた。
「くそったれがっ!」
焦ってギルスはそのまま胴を狙う。先程は避けられた横凪の一撃は、僅かに腹の皮一枚を切る。
キルギスは、体を捻ってギルスの剣を躱すと、遠心力を付けて斧を振り回す。お返しとばかりに、横凪の一撃を見舞う。
ギルスは次の一手を諦めて、大きく後ろに飛んで避けた。
調子が狂う。
原因は分かっていた。
相手が悪い。
キルギスは、グラーニ海軍を乗っ取った張本人だ。
ギルスの父を殺し、ギルスの母が正式に籍を入れていなかったのをいい事に、母とギルスを海軍から追い出した。
母は苦労で早くに死に、追い出された事実を知った頃には、もうギルスの戻る場所は無かった。
西の地のスラムで、ボロ雑巾の様に死にかけていた。そんな時、カーリアスが現れてギルスを拾った。
そして、サージャに出会った。
今回は敵だが、カーリアスには感謝している。思惑が無かったとは思わないが。
けれど、サージャに会えた。
それだけで、ギルスの人生は大きく変わった。
だが、キルギスには恨みしかない。
キルギスが乗っ取ったグラーニ海軍は、キルギスの家名に名を替えていた。
ダクト海軍。今はそう呼ばれている。
追い出された時、必ず迎えに来ると、キルギスは母を船から下ろした。
そのまま放置だ。
母はいつか来ると信じて、迎えを待っていた。病に蝕まれるまで、そう時間はかからなかった。
母の薬を手に入れる為、出来る仕事は何でもやった。
仕事をこなすうちに、噂を聞いた。
グラーニ海軍が、ダクト海軍に名を変えた、と。
裏切られたと思ったギルスは、裏切られた思いをそのまま病床の母に伝えてしまった。
母はただ泣いて、ゴメンね、と謝り続けた。
その日から、母は日に日に衰えていった。
母の死に様はよく覚えている。
―――ゴメンね、お母さん馬鹿で。
こけた頬で、最後にギルスにそう言った。
母が死んで、彷徨ったギルスは、港に辿り着く。
偶然そこでキルギスを見つけた。
片手に持った錆びた包丁で、キルギスに斬りかかった。
当たり前だが、キルギスまで届く事は無かった。護衛らしきゴロツキに足蹴にされて道端に転がされ、踏み付けられた。
あの時の憎しみが、まだ自分の中に燻っている。
あの時手の届かなかった相手が、今目の前にいる。
殺しても良いのだ。
沸き立つ感情が、無い訳ではない。
ただ、それをしてしまうと、自分は負ける。
感情で勝てる相手ではない。
だけれど、勝てない相手でもない。
剣を斜に構える。
キルギスを睨み、その体全体を視界に収める。
一挙一頭足を見逃さない為に。
あれから十年以上経つ。
ギルスは大きくなった。
心も体も、強さも。
キルギスは、ギルスより力で勝り、素早さで負ける。
大丈夫。行けるはずだ。サージャが待っている。
―――俺は、必ず迎えに行く。
ギルスは鋭くキルギスを睨みつけ、地を蹴った。
こんな裏設定がくすぶっていました。