ウルガと・・・
ウルガの意識は、はっきりしていた。
それが正気かどうかというのは別の話だ。
結界が砕け、咄嗟に己の放った力を引き戻した。
結界の中に溜まりに溜まった混ざり合った力は、分離することなく周囲に放たれた。
これはもう仕方がない。
それを止めるだけの力は、既に無かったのだから。
ひび割れた穴から飛び込んできた‘何か’から、己に訴える声が聞こえた。
それは、荒れ狂う炎と雷が舞う竜巻や、風と混ざり合った、噴き出す高温の熱風などの隙間から、必死に手を伸ばしていた。
結界を割った際に存在自体が希薄となり、透ける体を必死に保って、それでも必死に、ウルガに手を伸ばしていた。
あまりの様子に、割れた結界から流れ込む力を使ってその存在を保護し、引き寄せた。
――――タスケテ。ゼムヲ、タスケテ。
顔の形も、もう分からないほどに黒く染まったその精霊に、その気配に覚えがある。
ゼムが、ずっと胸に持ち続けていた黒い精霊石の気配だ。
浄化させてやろうかと言った事もある。ゼムは首を横に振ったが。
ただ、あまりにも大切にするものだから、少し力を貸してやった。
これ以上、怨霊化が進まないように。
ただ、安らかに眠れるように。
長期間かければ存在を戻せるかもしれないと、可能性の話をして、精霊石を聖なる力で封印した。
こいつは眠っている筈だった、と思う。
厳重に、繊細に施した封印を、自力で解くほどの、自分の存在が壊れることも厭わない何かが、こいつにふりかかったのだと思ったら、消滅間近の黒い精霊に、問いかけていた。
『―――俺に、入るか?』
怨霊化した精霊を取り込むなど、常時では考えない。
自分がどんな存在に変容するか分からないからだ。
ただ、それでも。ただ、なんとなく。自分なら大丈夫だ、という自惚れがあったのも事実で。
このまま消滅させるには、ゼムに対する思い入れが、思いの外あったという事なのだろうか。
真っ黒な顔が、ふわりと笑った気がした。
まるで、それでいい、と言っているように。
――――ゼムヲ、タスケテ。
それだけ言って、溶けるようにウルガの力の一部になった。
ウルガにとって予想外だったのは、その意志の強さだった。
最初に、自分を囲む炎が、黒く変質した。
そして、自分の視界を占領したのは、血色の赤。
これは、おそらく取り込んだ精霊が最後に見た景色の色。
ゼムが血を流したのだろうか。
彼がどういう状況かは分からないが、取り込んだ精霊は、それに恐ろしいまでの恐怖を感じていたということは分かった。心が凍る、という言葉の通り、この精霊は恐怖以外の感情を感じなかったようだ。
ウルガの心臓が、ひんやりと冷たくなった感覚があった。
取り込んだはずの存在が、己の中の何かを書き換えていく。
自分の中の何かが封じられて、力を、存在を、暴走させていく。
『ウルガ!おんし何をした!!』
自分の正面に、宿敵が姿を現した。
そう、これは自分にとっての敵だが、この精霊にとっての‘それ’は、どうやら違うらしい。
『・・・』
かろうじて保たせた正気で、無言で宿敵を突き飛ばす。
宿敵は、壊れた結界から遠くへ、あっさりと飛ばされていった。
そのことに、少しホッとするのは「ウルガ」の意識だ。
お前ではない、お前ではないのだ。
コレが求めているのは、ゼムの無事。
ゼムとの絆を失う事への恐怖。
すさまじい速度で馴染んでいく、かつて精霊だった『怨霊』の力。
正気が狂気に染め上がる。
だが、まあいい。
―――これは己の望みだ、とウルガは思った。
自分が望むもの。それは主との明確な絆。
誰かの唯一に、なりたかった思い。
そして、これだけの執着と恐怖を、抱きたかったという自分の渇望。
―――よかろう。力を貸してやろう。
あくまで主導権は渡すまい。だが、この精霊の最後の願いは叶えてやろう。
これは、自分の希望でもあるのだから。
標的は、ゼムを傷つける、人間。
そう、人間だ。
そこに精霊は含まれない。
だから、宿敵の逃亡を快く思ったのだろう。
今はまず、目の前の‘人間’の敵を消す。
いずれは、ゼムを苦しめた‘人間’全てを。
消す。
一致した目的は、手段を選ばなかった。
結界が壊れ、自然の力は周囲に溢れる。
ウルガはためらわず、それを吸った。
己の力が徐々に肥大していく。
自分を包む炎が、大きく広がっていく。
それでも、まだ足りない。
一瞬で、あの人間たちを消し去るには、まだ足りない。
ウルガは結界の大きさの火の玉になった。
それでも、まだ足りないと、火の玉は空に浮かび上がり、貪欲に周囲の力を吸い続けた。
※ ※ ※
『これは、まずいの』
『何を落ち着いておられるのか!』
『あれは、消せるか!?』
『風の精霊では、消せぬよ!せいぜい守るしか無かろう!』
『しかし、守れたとして・・・』
『うむ、全ては、無理じゃ・・・』
火の玉以外の脅威は、精霊達によって収められた。
共に居た人々は、精霊達の力で、強制的に野営地に飛ばされていった。
前線部隊も、諜報部隊も、サージャ達も、もれなく乱暴なチェジアに吹っ飛ばされた。
その後だ。
ジルージャの下に、戦場に居る精霊が、全て揃った。
火の玉は、ただでさえ大きいと思われた火の玉は、今は空から落ちてきた隕石のようだ。
大地は干からび始めている。
火の玉の直下は、ひびが無数に走る荒野へと姿を変えてしまった。
すさまじい速度で火の玉は成長し、あっという間に野営地をまるまる覆うサイズになってしまった。
ゆらり、と火の玉が動いた。
『・・・まずいの』
それは恐怖という感情の水を、一滴一滴布に染み込ませるように、本当にゆっくりと進む。
ジルージャを中心に、チェジア、アルジア、スージア、リンジアは己を風の化身に変える。
『接触するだけで、我々は蒸発するはずじゃ。触れずに、まずは、その威力を削ぐ』
『応よ』
『人の事は万事大丈夫であろうな?』
『ジルージャ。そなたは残れ』
チェジアが、ジルージャに言った。
『一応、何故と聞いても良いかの?』
『分かり切ったことを聞くでない。お主には使命があろう。サージャ様をお守りせよ』
そのチェジアの言葉を、ジルージャは鼻で笑う。
『チェジア、イージアに伝達を頼めるか』
『お主、阿呆か』
『お主こそ、阿呆か。お主たちを見捨てるなど、サージャは望まぬ。それに、あれと拮抗出来るのは、私の力だけじゃ』
『・・・』
事実、だった。
結界が砕けた直後、サージャ達と会った時のジルージャは、まだその力を十全に回復していなかった。
だが、今他の精霊達の力を借りて、決戦前の状態―――つまり、全力の状態まで回復している。
だとしたら、この中で最も力を持つのは、他ならぬジルージャ自身だ。
『ではの。後は頼んだぞ』
『待て、阿呆』
風になり、飛び出そうとしていたジルージャを止めたのは、小さな竜巻と共に現れたイージアだった。
『お主・・・!!!フィージア様はどうした!!!』
焦るジルージャに、フィージアは溜息をひとつ落として、両手を組み、ふんぞり返った。
『その、我が主殿からの伝言だ。無茶をするな。水の力がじきに着く、とな』
『・・・水?』
『そうだ。西の、変わり種だ』
それで、合点がいくのはチェジア一人だ。
『姉様。間に合いましたか』
『ああ。不在の間、すまなかったな』
チェジアがイージアに寄り添えば、イージアは軽く頷いて見せる。
『西のを呼びに行ったのか?』
ジルージャが問えば、イージアはもう一度頷いた。
『主殿の指示でな。開戦直前に飛ばされた。ひどく気をもんだぞ』
『それは・・・済まん事をしたな。だが、助かった』
『そうだろうな。まさかこんなことになって居ようとは思わなかったぞ』
『面目ない。押さえきれてはいたのだが、最後の最後に不測の事態じゃ』
『何があった・・・?』
ジルージャは軽く目を伏せた。
正直、ジルージャには状況がよくわかっていない。
あの黒い怨霊が何だったのかもわかっていないのだ。
怨霊の声は、ジルージャには聞こえなかったのだ。
『お姉様、私からまず、お話が。おそらくウルガと同化したであろう怨霊についてです』
そう言って、チェジアが怨霊について説明する。
ゼムが持っていた黒い精霊石から飛び出した事、おそらくゼムの血で恐慌状態に陥った事、ウルガに助けを求めて結界に突っ込んだ事、結界が弾けて周囲に被害が出た事、それは既に収まった事。
追加でジルージャから、ウルガと怨霊が同化した事が伝えられた。
『それで、火の玉か。ゼムとやらの境遇がわからんから、あの火の玉が何を目指すのかは分からんが・・・このコースだと、狙われているのは兵士か、あるいは背後の町、神殿・・・ゆっくりであるのが助かるな』
『まあ、そうじゃの。そういえば、私はウルガに弾き飛ばされたんじゃ』
イージアの言葉に追加の情報を与えるジルージャ。
『助けた・・・と言う事はあるかの?ウルガが完全に支配されるとは思わん。あいつの理性が残っているのであれば、サージャ様だけは助けようとするかもしれんな。一応、身柄の確保が目的なのであって、死なれては困るのであろうからな』
『うむ・・・私の消滅を望むのも、サージャの一番になりたいという理由だしの・・・では、私はウルガに助けられたのかの・・・』
渋々と、ジルージャが頷けば、イージアは頭上の火の玉を見上げて言った。
『いや?どうだろうか。ほれ、火の玉は我々精霊を狙ってはこないみたいだぞ?通り過ぎようとしておる』
『そもそもの狙いが、違うと言う事かの』
『おそらく、な。そうだろう。見逃されたんだろうな』
『・・・なるほど、な』
ジルージャが、肩を落とす。
しかし、直後に顔を上げ、にぃ、っと黒い笑みを浮かべ火の玉を見た。
『無視されて、納得する私と思うたか。それ相応に思い知らせてくれようか』
そのまま飛び出そうとするジルージャの頭を、イージアが掴む。
体格的に、イージアの方がジルージャより大きいので、手を伸ばしたところに頭があった、という感じである。
『おい。今は、足止めだ』
『ぐぬぬ・・・わかっておる!』
『だったら先走るな。まず、結界を張るぞ。なに、六重にも張れば少しは威力も削げようし、時間も稼げようよ』
一人一枚の結界を言い渡されて、各々の精霊は頷くのだった。
一人だけ、ぷらーんと吊り下げられたまま、首をかしげる。
『・・・ん?六重?』
グリンと器用にイージアに顔を向ければ、イージアはにっこり微笑んだ。
『最後の一枚は、我が張るに決まっているだろう?』
『フィージア様は!?』
『もちろん、承諾は頂いておるわ』
満面の笑みで、イージアは返した。




