三
大家は「ひっ」と叫んで腰を抜かした。中年男は部屋へ踏み込み、老婆の身体をゆすって呼びかけた。反応はなく、彼は老婆の首元にしばらく指をあて、脈を診てから恵に向かって静かに言った。
「前田さん、救急車を頼める?」
恵は頷き一一九をダイヤルした。男は硬直した老婆の身体を引っくり返し、仰向けにして心臓マッサージを始めた。救急隊に電話を掛け終えた恵も、何か手伝えることは無いかと部屋へ踏み込み、老婆の顔を覗き込んだ。彼女はぽかりと口を開け、目を見開いていた。その瞳は乾いて微かに皺が寄っているように見える。床に接していた鼻や頬は、長時間圧迫されたせいでぺたりと平たくなっていた。
また、胃が捻じれるような感覚があった。俊彦の遺体を前にしたときと、そっくり同じものだ。こんなところで吐いたりしたら迷惑千万だと、彼女は急いで部屋を出て青ざめる大家の横に並んだ。
間もなく救急車が到着し、救急隊員がやって来る。彼らは老婆を担架に乗せ階段を降りて行った。老婆の身体には、頭から爪先まですっぽりと毛布が掛けられていた。誰も「大丈夫かな?」とは聞かなかった。大丈夫でないことが明らかだったからだ。大家はぶつぶつこぼしながら帰り、一〇一号室の男も恵に二言、三言声を掛けてから自室へ戻って行った。恵がその場で呆けたように立っていると、彼女の部屋の扉が開き、幸子が顔を覗かせた。
「なんの騒ぎ?」
幸子は恵の姿を見て首を傾げた。事情を話すと、彼女は大きなため息をついた。
「こう言う事って、重なるのよね」
「嫌な事言わないでよ」
恵は抗議した。
「でも、本当よ。それより、どこへ行くつもりだったの?」
幸子はたずねた。朝食を買いに行くと答えると、彼女は紀州梅のお握りとしじみのカップみそ汁をリクエストした。恵は了解してコンビニへ向かい、頼まれたものと自分の朝食を買い物かごに放り込んだ。そして、ちょっと考えてから昼食用の弁当や惣菜も追加する。レジをすませて自宅へ戻ると、幸子はリビングでビールの缶を手にテレビを見ていた。
「あ、いいなあ」
レジ袋をテーブルに置いて、恵は言った。
「あなたも飲めば?」
幸子は缶を掲げてにやりと笑った。
「あとで、キミを家まで送らなきゃいけないんだよ。飲んだら運転できないじゃないか」
「電車で帰るわ。駅、近いんでしょ?」
幸子はレジ袋をあさりながら言った。コンビニ惣菜のパックを見付けると、それを開けてさっそく割り箸を割る。買ってきたお握りはそっちのけで、肴をつまむつもりらしい。
「一時間に一本の、鈍行しか止まらない無人駅だけどね。あと、電車じゃなくて大抵は汽車だよ」
その駅を通る路線には非電化区間があるのだ。
「どっちだっていいわ」
幸子は興味なさそうに言った。
恵は冷蔵庫を開けた。ビールの本数は心もとなかったが、ワインがまるまる一本残っていた。彼女は缶を一本手に取ってテーブルに着いた。
「そう言えば、またあの子がいたよ」
恵は思い出して言った。
「あの子?」
幸子は訝しげにたずねた。
「白ワンピの美少女」
「ああ、柴田君がいれあげてた彼女ね」
「おばあさんの部屋の前に立ってたんだ。なんだか、誰かや何かが死ぬと必ず現れてる気がする」
「まさか、柴田君の時も?」
幸子はぎょっとして言った。
「それっぽい子は見かけたよ」恵は頷いた。「ここからシバちの家まで相当距離あるから、同じ子のわけがないって思ったけど、この時期にタンクトップなんて着てる子がそうそういるわけないし」
「なんだか、死神みたいな子ね」
幸子はぽつりと呟いた。
「怖い事言わないでよ」
恵はぞっとして、思わず自分の肩を抱いた。
「別に怖いことなんてないでしょ」幸子は言って、ビールの缶をぐいとあおった。「死神は誰かを殺すんじゃなくて、死んだ人の魂を迎えに来るだけなんだから。クサい汁も出さないし、無害なものだわ」
「クサい?」
恵はきょとんとした。
「シデムシって知ってるかしら。コウチュウ目って言うカブトムシの仲間なんだけど、死体に集まったり、見た目がまっ黒だったりで、死神に似てるの。でも、危険を感じると肉が腐ったようなとんでもなくクサい汁を出すから、死神よりも嫌なヤツよ」
「詳しいね?」
恵が聞くと、幸子はぎゅっと顔をしかめた。
「小さい頃に、そいつの幼虫を捕まえたことがあるんだけど、トラウマになるくらいイヤな臭いだったわ」
「なんだって、そんなことしたの?」
「アニメ映画で見た虫好きの姫さまに憧れてて、それに出てくる虫に似てたからよ」
恵も、その映画のことはよく知っていた。幸子が言うそれは巨大な芋虫かダンゴムシと言った風体で、そのミニチュア版とでも言うような幼虫を捕まえようとした子供の幸子の頭の中には、きっとランラン言う歌声が響いていたに違いない。
「幼女の幸子か。いっぺん見てみたいな」
今でこれだけ美人なのだから、きっと小さい頃も相当可愛かったに違いない。
「あなたもロリコンなの?」
幸子は疑いの眼差しを向けてきた。
「まさか」
恵は慌てて否定した。
二人が酒盛りを始めてしばらくすると、玄関のチャイムが鳴った。恵が出るとスーツの男がいて、彼は酔っ払い女を訝しげにうかがいながら警察手帳を見せ、二〇一号室の現場検証を行う旨を告げた。変死体が見付かると、事件性の有無を調べるために必ずやることらしい。刑事は遺体発見時の様子をおざなりに訊ねてから、そそくさと立ち去った。
「人が死ぬって、大変な事なんだね」
恵はぽつりと呟いた。
「今さら、何を言ってるのよ」
幸子はそう言って冷蔵庫を開けた。途端に彼女は眉をひそめた。
「ねえ、もうビールがないわよ?」
「ワインがあるよ」
恵は指摘した。
「私はビールを飲みたいの」
幸子はバッグから財布を引っ張り出すと、中から五千円札を出して恵に手渡した。
「何時まで飲むつもりだ」
「終電まで」
幸子はきっぱりと言った。
「そこの駅の最終は十時半だよ?」
「うそ。そんなに早いの?」
「本当に、何時まで飲むつもりだったんだ」
恵は苦笑しながら金を受け取り、再び家を出た。
二〇一号室の前にはブルーシートが敷かれ、そこには革靴がいくつか並んでいた。扉は開け放たれ、玄関のたたきにはシャワーキャップのようなものを被った二人の刑事が、手帳とペンを手に立っている。彼らは恵を見ると丁寧に頭を下げ、ブルーシートは踏んでも構わないと告げた。初めて現場検証なるものを見た恵は会釈を返し、あたふたとその場を立ち去った。コンビニで買い物を終え、戻ってきたころには刑事たちも姿を消していた。二〇一号室の扉は閉ざされ、ドアポストがガムテープで塞がれていることを除けば、特に変ったところはなかった。
二〇一号室のおばあさんとは、恵もこれまで言葉を交わしたことが何度かあった。とても感じの良い人で、そんな彼女が誰にも看取られることなく、独りぼっちで死んでしまう寂しさを思えば、まったく気の毒と言うほかない。しかし、凍り付いたヒヨドリを見た時と同じく「面倒だなあ」と言う思いもあった。そして部屋へ戻ると、それすらあっさりと消えた。




