二
「ねえ、柴田君が亡くなったって聞いたんだけど」
翌朝、出社した恵に幸子が青い顔でそう告げた。
「は?」
恵は耳を疑った。俊彦の席を見れば、そこは空っぽだった。
「何も知らないの?」
幸子は怪訝そうにたずねた。恵は慌てて携帯を取り出し、SNSのアプリを立ち上げた。昨日は楽しかった。また泊まりに行ってもいいかと問う俊彦のメッセージに、昨夜送った返信が未読のままだった。
「彼のお母さんから課長に電話があったらしいの。課長も詳しいことは何も言ってなかったけど、七時から彼の自宅でお通夜だって言ってたわ」
「課長は?」
そのデスクは、同じく空っぽだった。
「部長のところよ。柴田君が抱えてた業務をなんとかしなきゃって、慌てて出て行ったわ」
恵の頭の中は疑問符が渦巻いていた。亡くなった? シバちが? 何で? どうして? お昼は誰と行けばいいの? お通夜って喪服で行くんだっけ?
「ちょっと、大丈夫?」
富子はぎょっとした様子で恵の肩を掴み、軽く揺すった。
「うん、大丈夫」
「だったら、トイレに行ってメイクを直して来なさい」
「え?」
「いいから、早く行く」
幸子に厳しい声で命じられ、恵はふらふらとオフィスを出てトイレへ向かった。鏡を見ると涙でメイクが崩れ、ひどい有様だった。恵はバッグから取り出したシートで顔を拭い、どうにか見られる程度にメイクし直した。オフィスに戻ると幸子が値踏みするように眺めてから彼女を席に着かせ、言った。
「何とか踏ん張って今日の仕事をやっつけなさい。終わったらお通夜に行きましょう」
恵は頷き、パソコンの電源を入れた。もちろん、仕事など手につくはずもなく、タイプした数字の半分以上がバックスペースで消える有様だった。時間はのろのろ過ぎて、ようやく終業時刻になると、彼女は幸子に引きずられるように駐車場へやって来て、二人で恵の車に乗り込んだ。ただし、運転席には幸子が座った。恵も自分がハンドルを握れる状態でないことを悟っていたから、素直に助手席に座って流れる町の灯を眺めていた。不思議と悲しさは感じなかった。俊彦が死んだと言う実感すらないのに、何を悲しめと言うのか。ただ、頭の中のどこかにぽっかりと穴が開いて、代わりに灰色のどろどろした何かを押し込められたような感覚があった。いっそ頭蓋を開けて水洗いしたい気分だった。
俊彦の家にたどり着くと、式が始まる時間まではずいぶん余裕があった。他の弔問客の姿は無く、先に遺族へ挨拶をすませてしまおうと言う幸子の提案で、彼女たちは入り口にいた受付の男性に、その旨を告げた。
男性は二人を家の中に通し、長い廊下を通って奥まった先にある部屋の前で足を止めた。彼は型板ガラスがはまった引き戸を開け、「柴田さん」と呼ばわった。すぐに喪服姿の年配の女性が、線香の香りと一緒に現れた。恵は、俊彦が母親と二人で実家住まいだったことを思い出した。
「この度は突然のことで、お慰めの言葉もございません」
恵がお悔みの言葉を告げると、母親は深々と頭を下げた。それから、少し怪訝そうな目を向けてくる。
「私、シバち……俊彦君の同僚の、前田です。彼とは大学時代から仲良くさせてもらってました」
すると、母親は目を丸くして言った。
「ひょっとして、メグちゃん先輩?」
「は?」
「俊彦が、男前で楽しい先輩がいるって、よく話してくれたんです。それで、家ではメグちゃん先輩なんて呼んでおりまして」
おかしなあだ名で呼ばれていたことを知った恵は「あの野郎、今度会ったらタダじゃおかないぞ」と考え、それが永遠に叶わないことに気付き、ひどく妙な気分になった。
母親が幸子に目を向けた。
「俊彦君の同僚で、私の友人です」
恵は紹介した。
「田中です」
幸子はお悔みを述べて頭を下げた。
「あの子、こんな美人さんと一緒に働いてたのね。もしご迷惑でなければ、俊彦に会ってやってくださいませ」
「はい、ぜひお願いします」
恵は頭を下げた。母親は二人を部屋に通した。そこは仏間で、部屋の真ん中には俊彦の遺体が安置されていた。部屋には線香番をする年配の男もいて、彼は恵たちを見ると座ったまま頭を下げた。線香をあげ、恵と幸子が遺体の側へ座ると、母親は息子の顔から白布を外した。俊彦の顔は生前とまったく変わりなかったから、恵は遺体を前にしてもなおさら、それがたちの悪い冗談にしか思えなかった。
「シバち」と、恵は遺体に呼びかけた。「急にこんなことになって、ほんとに驚いたよ。今日は私、お昼ごはんを食べ損ねたんだ。いっつも君が、ごはんに誘って来てたからさ。お昼だってぜんぜん気付かなかった」
何も応えない遺体に代わって、母親が口を開いた。
「交通事故だったんです」
恵は顔を上げ、母親の顔を見た。
「昨日の夜、駅から家へ帰る途中、横断歩道を渡ってるときに車に跳ねられて、大した怪我も無いように見えたんですが、お医者様の話では頭を強く打っていたとか……」
母親は話し終えると、ため息をもらした。その息が白く煙るのを見て、恵は今さらながら、この部屋が外気とさほど変わらない温度であることに気付いた。恵はもう一度、俊彦の顔を見た。不意に胃が捻じれるような感覚に襲われ、彼女は思わず身じろぎした。それは軽い吐き気に似ていたから、おそらく生まれて初めて人間の遺体を見て、気味悪く思ってしまったのだろうと彼女は思った。俊彦に、少し申し訳なく思っていると母親が白布を戻し、頭を下げて言った。
「お式まで少し時間がありますから、居間の方でお茶でもいかがですか。もしよろしければ、メグちゃん先輩に俊彦のことを、いろいろ聞かせて欲しいのですけれど」
「ええ、もちろんです」
恵が答えると母親は、ほとんどそれとわからない笑みを浮かべた。彼女は線香番の男に目を向けた。
「任せていい、兄さん?」
「よかよ」と、男は言った。「明日もあるっちゃけん、休めるうちに休んで来んね」
「ありがとう。じゃあ、ちょっと行ってきますね」
母親の案内で居間へ通され恵たちは、温かいお茶と茶菓子の引き換えに、俊彦の思い出話をたっぷり語った。そして弔問客が集まってくると、母親は何度も礼を言って仏間へ引き上げた。通夜が始まってしばらくすると、幸子が「そろそろ出ましょう」と耳打ちしてきた。挨拶はすませたから長居は無用だし、むしろ迷惑になるのだと言う。実際、俊彦の母親は、いとまの挨拶を告げる隙も無さそうにしていたから、二人は遠くから頭を下げただけで俊彦の家を出た。
車へ戻る途中、恵は視界の端に白いものを見てそちらを向いた。街灯の下を歩く白いワンピースの少女の後姿があった。ぎょっとして見つめていると、彼女は灯りの下を出て、その向こうの闇の中に消えた。「恵?」
幸子が呼びかけた。恵が振り向くと、彼女は怪訝そうに見つめてきた。
「なんでもない」
恵は首を振った。ここから恵の家までは三〇キロ以上は離れているのだ。あれが、彼女であるはずが無かった。車に戻ると幸子は当然のように運転席に座り、恵が助手席に着くのを待って口を開いた。
「今日は、あなたの家に泊まるわ。ちょっと飲みたいでしょう? 付き合うわよ」
「うん、ありがとう」
一人になりたくなかったので、恵は心の底からそう言った。しかし、ふと心配になって彼女はたずねた。
「でも、着替えとかどうするの?」
「明日は土曜日だし、パンツは一日くらい替えなくても臭ったりしないわ」
「シバちのお葬式もあるんだよ?」
「お葬式には部長が出るらしいから、私たちは出しゃばらない方がいいわ。その代わり、落ち着いたらお線香をあげに来ましょう」
それから二人は黙って車を走らせ、コンビニで酒を買い込み、恵の部屋でそれを飲んだ。最初のうちは俊彦の思い出話を交わしていた二人だが、そのうち他愛のない雑談になって、気が付くと恵は床に寝転がっていた。窓の外はすっかり明るく、時計は九時を少し回っていた。少しばかり頭痛がした。恵は冷蔵庫から二リットルのスポーツ飲料を取り出して、ボトルごと飲みながら昨夜のことを思い出そうとした。幸子の胸に顔をうずめて泣いていたような気がする。幸子はずっと「よしよし」と言いながら、背中を叩いてくれていた。少し気恥ずかしかったが、今の気分は晴れやかだった。ちゃっかり恵のベッドを占領して眠る友人に、彼女は「ありがとう」と言った。幸子は寝返りを打って、むにゃむにゃと寝言を言った。
恵は軽い空腹を覚え、コンビニで朝食でも買おうと夜着を脱いで服に着替えた。部屋を出ると、あの少女がいた。二○一号室の前に立ち、じっとその扉を見つめている。その部屋では確か、おばあさんが一人暮らしをしていたはずだ。
「おはよう。どうかしたの?」
恵が声を掛けると、少女は無言でドアポストを指さした。そこには、四つ折りにした新聞が二つ並んで差し込まれていた。恵はぎょっとして扉に駆け寄り、チャイムを鳴らした。反応が無い。今度は扉を拳で何度か叩き「おばあちゃん」と呼びかけた。やはり応答はなく、彼女は急いで階段を降り、一○一号室の扉を叩いた。扉が少し開き、隙間から中年の男が怪訝そうに顔を覗かせた。ヒヨドリの死体を見つけた朝、挨拶を交わした男だ。
「おはよう。どうかしたの?」
男はのんびりとたずねた。恵が事情を話すと、彼はぎょっとするなり部屋に引っ込んだ。扉の向こうでばたばた音がして、男はつっかけを履いて部屋を飛び出し階段へ向かった。恵もすぐに後を追い掛け、二人は二〇一号室の前に立った。白いワンピースの少女は、いつの間にか姿を消していた。男は扉を叩いて呼びかけるが、やはり返事はなく、彼は不安そうな表情を恵に向けてきた。
「昨日から、おばあちゃんの姿を見ていないんだ。前田さんは?」
恵は首を振った。男は少し考えてから口を開いた。
「大家さんに連絡して開けてもらおう」
「私、携帯持ってます」
恵はアドレス帳を開き、大家の番号に電話した。事情を話すと、大家は合鍵を持ってすぐに向かうと言った。その間にも、一○一号室の男はドアを叩きながら、中に呼びかけ続けた。十分ほど経って、大家が階段を駆け上ってきた。彼は鍵穴に合鍵を突っ込んで錠を外し、ドアを開けた。その途端、室内からうっすらと異臭が流れ出した。たじろぐ三人の目に飛び込んできたのは、玄関に頭を向けリビングでうつ伏せに倒れる老婆の姿だった。




