一
「ねえ、シバち。死体って誰が片付けてるのかな?」
ロースカツ定食をぺろりと平らげた前田恵は、かつては同じ大学の一つ下で、今は同僚の柴田俊彦に何気ない調子で聞いた。俊彦は向かいの席にいる恵をまじまじと見つめ、口に運びかけていたカキフライを白飯の上にぽたりと落とした。
「先輩、誰か殺したんですか?」
「なんでそうなる」
恵は眉間に皺を寄せた。
「いや、よくあるじゃないですか。殺人を犯したはずなのに死体がなくなって、そこに謎の共犯者の影がちらつくミステリー小説」
「バカ言うな。大体、私が殺すほど誰かを恨んでるように見える?」
俊彦はカキフライを改めて口に放り込み、しばらくもぐもぐやってからごくりと飲み込んで、ようやく言った。
「見えないですねえ。先輩ってこらえ性ないし、人を殺すほど恨みをため込むより先に、かんしゃく起こしそう……あっ!」
恵は素早く箸を伸ばして俊彦の皿からカキフライを一つ奪い去り、情け容赦なく口に放り込んだ。
「ちょっと、先輩。カキフライ定食のカキフライは四つしかないんですよ。あんた、どんだけ人でなしなんですか」
「シバちの四つしかないカキフライを、二つ食べても心が痛まないくらいかな?」
俊彦は慌てて残りのカキフライを口に詰め込んだ。
「それで話は戻るけど、道端で車に轢かれたりして死んだ動物の死体って、一日も経たないうちに消えて無くなってるよね。あれって、誰が片付けてるのかな?」
「ああ言うのは」俊彦はカキフライを飲み下した。「道路の管理者や、市の清掃センターがやってくれてるらしいですよ。と言うか、ご飯時にする話題じゃないですよね?」
「やあ、ごめん」
恵は、あははと笑って言った。反省はしていなかった。なんと言っても彼女はまだ、この話題を話し尽くしていないのだ。
「なんだって急に、そんなこと気になったんですか?」
わざわざ俊彦の方から振ってくれた。恵は俊彦の、そんなところが好きだった。もちろん、恋愛感情的な「好き」ではないが。恵はひとつ頷いて「昨日のことなんだけど」と話し出した。
部屋の扉を開け、恵は一瞬怯んだ。朝の空気は思った以上に冷たかった。慌ててマフラーを巻き直しアパートの階段を駆け降りると、一〇一号室の前にスーツを着た中年の男の姿があった。カバンを脇に抱え、扉の鍵穴に鍵を突っ込んでがちゃがちゃやっているところを見ると、恵と同じくこれから出勤なのだろう。
「おはようございます。今日は冷えますね」
恵が声を掛けると、男は「おはよう」とにこやかな笑顔で応じてきた。「今日は寒の入りだからね。あったかくした方がいいよ」
「駐車場まで走るから大丈夫です」
恵は胸を張って言った。
「おじさんも駅まで走ろうかな。お正月休みにちょっと食べすぎちゃったし」
男はおなかの辺りを気にして言った。
「霜を踏んで転んだりしないでくださいね」
「うん、気を付けるよ。それじゃあ、いってらっしゃい」
「はい、いってきます」
手を振る男に見送られ、恵は彼に言ったとおりアパートにほど近い月極駐車場を目指して走った。その出入り口の前にたどり着いて、彼女は小さく息をのんだ。そこには目を閉じたヒヨドリが一羽、うっすらと霜を帯びてアスファルトの地面に転がっていたのだ。おそらく不意に訪れた寒気を持て余し、凍えて死んでしまったのだろう。
恵の吐いたため息が白く煙った。憐れみより先に、「面倒だなあ」と言う思いが頭をよぎった。こんな所に転がっていられては、車を出すことも出来ない。踏み付けでもしたら、ひどく不愉快な気分になることは目に見えている。
ひとまず恵は自分の車まで行って、そのエンジンを掛けた。暖房の風向きを窓に向け、風量と温度を最大に設定する。窓に張った霜を融かすには、そうするしか無かった。それから助手席に放り出してあったテレビ情報誌を手にとって、再び凍り付いたヒヨドリのそばへ戻った。屈み込んで眺めつつ、温めたら案外、元気に動き出すんじゃないかしらと、つまらないことを考える。
「そんなわけないか」
ぽつりと独り言ちてから、広げたテレビ情報誌で死体をすくい上げようとするが、これは思いのほか難行だった。死体はかちこちに凍っている上に重いから、バランスを崩せばあらぬ方へ転がって行く。悪戦苦闘を続けていると、恵の視界に白いサンダル履きの小さな足が入ってきた。すぐに子供の手が伸びてきて、ヒヨドリの死体をためらいもなく持ち上げ、恵が持つテレビ情報誌の上に置く。
「ありがとう」
顔を上げて礼を言うと、少女と目が合った。恵の前にしゃがみ込んだ少女は笑顔で小さく頷く。何だろう、と恵は違和感を覚えた。見たところ少女は七、八歳くらい。黒髪を肩の辺りでぱっつり切り揃え、子猫のような丸い目は大きく黒々と輝いている。可愛らしいと言うことを除けば、ごく普通の女の子だ。今は冬休みのはずだから、ランドセルを背負っていないのも頷ける。瞬き三つほどの間を置いて、恵はようやく違和感の正体に気付く。丈の短いタンクトップの真っ白いワンピースや、同じく真っ白い丸ツバの帽子は、どう見ても盛夏のいでたちである。真冬の朝の凍り付くような空気の中で、寒くないのだろうか。しかし、それよりも恵には、別の心配事があった。
「キミ、帰ったらちゃんと手を洗うんだよ」
恵が言うと、少女は首を傾げた。
「この鳥が凍えて死んだんじゃ無くて、病気で死んだんだとしたらすごく危ないんだ。鳥インフルエンザとかね」
少女は神妙に頷いた。さて、と腰を上げ、恵は周囲を見回した。邪魔っ気な死体を取り上げたはいいが、どこへ片付けたものだろう。まさか持ち帰るわけにも行かないし、それならば駐車場の隅にでも置いておこうか。あれこれ思案していると、同じく立ち上がった少女が不思議そうな眼差しを向けてくる。恵が事情を話せば、少女は道を挟んで向こう側にある、地面がむき出しになったガードレールの下を黙って指さした。なるほど、アスファルトに覆われていない場所ならば、土へも返りやすいだろうと納得し、恵は道をわたってテレビ情報誌からヒヨドリの死体を指された場所に滑り落とした。少女はヒヨドリの死体を眺めて満足そうに頷いてから、恵に満面の笑みを向けた。恵も笑みを返し、少女に背を向けると、すっかり霜の消えた車に乗り込んだ。駐車場を出ると、ルームミラーの中で少女が手を振っていた。見えはしないとわかっていたが、恵はミラーに向かって手を振り返し、職場へ向かって車を走らせた。
「でも、仕事が終わって帰ってみると、ヒヨドリの死体が無くなってたんだ。それで、道端の動物の死体は誰が片付けてるのか、ちょっと気になったってわけ」
お冷やのグラスを両手に抱えて、恵は言った。
「野良猫が咥えて持って行ったんですよ」
俊彦は一言で片づけると、ソースで真っ黒になった千切りキャベツを頬張った。
「死体を片付けるのは、清掃センターだけじゃないんだね」
恵は、その可能性を全く考えていなかった。
「他にはカラスとか」俊彦はカキフライ定食をすっかり片付け、お冷やを飲み干した。「僕は鳥の死体なんかより、夏服の美少女の方が気になるなあ」
緩んだ顔で言う俊彦を見て、恵は眉をひそめた。
「シバち、あんたロリコンだったの?」
俊彦はその問いに答えなかった。
「その子、先輩のアパートの近所の子ですよね。今度、部屋に泊めてください。僕も、夏服の美少女に会ってみたい」
「ここの払いと、今夜の晩飯をおごれ。そうしたら考えてやる」
恵が言うと、俊彦はテーブルの上の伝票を躊躇なく手に取った。
「お任せください」
見上げたロリ根性だと恵は感心した。
「また、柴田君と一緒にお昼?」
定食屋から職場のデスクへ戻った恵を、同僚で友人の田中幸子は、そんな言葉で迎えた。彼女は恵より二つほど年上で、女の恵でもぞくぞくするような美人だった。彼女の机の上には、可愛らしいお弁当の包みが置いてあり、手には微かに湯気を立てる湯呑があった。
「それだけ仲がいいのに付き合ってないなんて、ちょっとおかしくない?」
今はまだ昼休み中で、周囲のデスクはほとんど空っぽだったから、その手の話題も取り上げやすいのは理解できる。とは言え、俊彦も同じオフィスにいるわけだから、少しは控えてほしいものだ。気になって、恵は少し離れた俊彦のデスクに目を向けた。話題の主は、ヘッドフォンを掛けてパソコンの画面に見入っている。多分、動画サイトでも眺めているのだろう。
「うーん。シバちは、なんでかそう言う対象に見れないんだよね」
俊彦から部屋に泊まりたいと言われて真っ先に思い付いたのは、攻略中のRPGのレベル上げを手伝わせることだった。つまり、恵にとっての俊彦は弟の類なのだ。
「顔もセンスも良くて、仕事もできるのに?」
「でも、ロリコンらしいよ」
「はあ?」
幸子はきょとんとした。恵は定食屋での顛末を話して聞かせた。
「あきれた。それで、ほいほいお泊りの約束したわけ?」
「いやあ、面目ない」
恵は頭を掻いた。しかし正直なところ、何がまずかったのか、よくわかっていなかった。
「けど、柴田君がロリコンだったなんてねえ。どんな人間でも、何かしら欠点があるってことかしら」束の間考えて、幸子は何やら難しい表情を浮かべた。「演技かも知れないわね」
「演技?」
きょとんとして聞き返す恵に、幸子はお茶を一口すすってから答えた。
「ロリコンだから興味ありませんなんてフリして、あなたの油断を誘ってるんじゃないかってことよ」
恵は思い返してみるが、俊彦は今までそんな素振りを見せたことはなかった。そもそも、彼女を女として見ているのかも怪しい。
「まあ、せいぜい気を付けることね。その時になって、穿き古しの擦り切れたパンツでしたなんて、お話にならないでしょ?」
「そんな貧乏ったらしいパンツ、普段だって穿いてないよ」
恵は口を尖らせ抗議した。
翌朝の空は曇っていて、車の窓は凍っていなかった。恵が運転席に座ると、沈んだ顔の俊彦が助手席に乗り込んできた。特大のため息を吐きながらシートベルトを締め、未練がましく窓の外に視線を向ける。
昨晩、恵は約束通り俊彦に夕食をおごらせ、彼を自分の部屋に泊めた。幸子が心配したような事態は起こらなかった。恵は俊彦を部屋へ上げる前に、念のため新品のパンツに履き替えたし、そもそもパンツを見られるような状況にはならなかったからだ。二人でやったことと言えば、俊彦がコンビニで買い込んできたビールとおつまみで、晩酌をしながらバラエティ番組を見たり、RPGで遊んだりしただけだった。まったくもって、大人の男女の関係はない。もちろん、世間はそう見てくれないだろうから、近所と同僚の目を誤魔化すために出勤時間を早め、俊彦は適当な場所に降ろして別々に出社する手はずにしてある。
「夏服の美少女……」
国道に出てしばらくすると、俊彦はしょんぼり呟いた。お目当ての彼女に会えなくて、相当気落ちしているようだ。恵が苦笑して何か声を掛けようとした時、前を行く車が不意に進路を変えた。一瞬センターラインを割って元の車線に戻る不自然な動きに、恵は思わずぎょっとする。次の瞬間、彼女はそのわけを知り、同じくハンドルを切って路面の左端に転がる動物の死体を避けた。
「タヌキかな?」
脳裏に焼き付いた死体の姿を反芻し、恵は呟いた。猫にしては大きく、犬にしては丸っこかった。
「朝から縁起悪いですね」と、俊彦。
「そうだね」
ふとルームミラーを覗けば、死体のそばにあの少女が立っていた。
「シバち、後ろ見て。あの子がいる」
俊彦は助手席の上で身体を捻り、後ろを見た。
「先輩。バック、バック!」
「無茶言うな」
ルームミラーの中で、少女は次第に小さくなり、消えた。
「やっぱり、夏服の美少女はいたんだ」
俊彦が呟いた。
「ラピュタか」
恵は前を見たままツッコんだ。
「今日はいい一日になりそうだなあ」
満面の笑みを浮かべる俊彦をちらりと見て、恵は確信した。こいつ、やっぱり真正のロリコンに違いない。見目がよいだけに、まったく残念なやつだ。幸子の言を借りれば、どんな人間でも何かしら欠点はあると言う事か。
恵は駅に俊彦を降ろすと、自分は会社近くに契約した月極駐車場へと向かった。そうして二人で示し合わせた通り別々に出社し、いつもの定食屋で一緒に昼食を摂って、別々に帰宅した。恵にとって、その日はごく当たり前の一日だった。俊彦にとってはどうだったのだろう。本当に「いい一日」だったのか。恵が、それを知る機会は永遠に来なかった。