16-B -硝子のティアドロップ-
ギィ…ギィ…。腰掛けているロッキングチェアが揺れと共に鈍く低い音を奏でていた。首から下げた両手で包み込めないほどの大きさのガラス玉は膝の上に置かれている。
私はこの椅子に座っている間…糸の切れた操り人形のように動かなかった。何も考えたくなかった。何もしたくなかった。最後に家を出たのは二日前。最後のお金で買いに行った食料。この食料が無くなれば私は…ようやく死ねる。
私は生きていてはならない。ならなかった。
どうして死ぬことを望んでいるのに、どうして眠るの? どうして安息を求めているの? どうして何かを食べるの?
どれかを失えば、私は死ねる。けれど眠りは自動的に私を夢へと誘う。家から出て自ら命を断つ勇気は持っていない。けど食料はこれで最後…これが無くなれば、もう生きる道は無い。私は生きていてはならない。ならなかった。
自由は死を意味する。
誰にも縛られず、たった一人で生きる。けど…それは私にできることではなかった。私は逃げて来た。ずっと、ずっと逃げて来た。自分の出生に、宿命に、未来に、運命に…。そこから逃げた先は死を待つだけという自由の時間。
――私は…何のために生まれたの?
隣の部屋から、玄関の方から声が聞こえる。誰かが家へ入って来た。
私の中で何か走る。ピリピリとした痛みのような感覚。数日前にも感じた身体の異変。もしかしたら、この違和感の元凶が私を探しているのかも知れない。また…私を傷付けるつもりかも知れない。
『出て行って!』
私は心の中で叫んだ。私の前は真っ暗闇。私は目に包帯をしている。何も見たくない。何も話したくない。誰とも関わりたくない。
この部屋に来ないで。出て行って…出て行って…出て行って…出て行って…出て行って…。
私の願いは届かずに虚しく、ギィ…と音を鳴らしながら部屋の扉が開いていった。
奈樹「あっ…ごめんなさい。空家と思ってお邪魔してしまいました」
奈樹は薄暗い部屋に居る女性に謝りながら、中へ入った。ギシっと床が鳴る。
女性「来ないで…」
奈樹「あ…その…別に何か悪いことをしようと思って入ったわけでは…」
水色の髪と大きな白いリボン。透けそうな白い肌。第一印象はドレスを纏ったビスクドール。その人形のような女性はポツリと呟いた。ゆっくりと前後に揺れるロッキングチェアに座り、膝に置いたガラス玉に手を添えている。
女性「貴方も…」
奈樹「えっ…?」
女性「貴方も…私を傷付けるの…?」
奈樹「…!」
奈樹はその言葉に驚いた…。
『貴方も…私を傷付けるの…?』
それは自分がノスタルジアへ降り立った時に、蒼輝達に言った言葉と同じだった。
奈樹「私は貴方を傷付けたりしない…」
蒼輝「奈樹…誰かいるのか?」
半開きの扉から部屋へ一歩踏み込んでいる奈樹の後ろから、蒼輝が声を掛けてくる。
奈樹「ここは…私に任せて…」
奈樹は少し振り返って蒼輝の目を見る。目で強く訴え掛け部屋の中へ入ると、蒼輝は黙って扉を閉めた。
奈樹「こんにちは…突然家に上がり込んでしまってごめんなさい。私は金雀児 奈樹」
少しだけ女性の自己紹介を待ったが、返事をしなかった。奈樹は優しい口調で女性へ言った。
奈樹「…貴方は…私と似ている」
女性「…どういう…こと…?」
奈樹「私も怯えていた…。目に見える物が怖くて…自分に関わる人が傷付けてくるんじゃないかって思っていた…」
女性「……」
女性は黙っていた。誰も信じられない…といった意志が伝わってきた。
奈樹「まずは…私と打ち解けましょう? 貴方の名前…教えてほしい」
女性はしばらく沈黙していたが、恐る恐る唇を開いた。
女性「さら…さ…。…颯紗…」
奈樹「颯紗…それが貴方の名前…よろしくね、颯紗」
颯紗の手は震えていた。その手は硝子のように繊細で綺麗な肌。スカートから見える細い足も、身体も、唇も、怯えているのか震えていた。
奈樹「怯えなくていい…颯紗。これから私が颯紗の友達だから…」
颯紗「…やめて…そんなの…。私に…関わらないで…! 私はここで死を待つだけ…誰にも関わらず…一人で死ぬ…それが私の運命…」
奈樹の声に強く拒絶し、颯紗は俯いた。
颯紗「私は独り…。いらない…誰も…いらない…」
奈樹「…だったら…どうして名前を教えてくれたの…?」
颯紗は黙り込んだ。しばらく二人の間に沈黙が流れる。奈樹は颯紗の座るロッキングチェアの前にしゃがむ。
颯紗「…わからない。…何故か…貴方を…知っている気がしたから…」
奈樹は幼さが残る小さな手で、颯紗の硝子細工のような脆く崩れてしまいそうな白く細い手にそっと触れた。
奈樹「私…以前、颯紗を見たときに運命的なものを感じた」
颯紗「…以前…?」
奈樹「二日前…私は初めて花の都ゼラニウムへ来た。その時に人混みの中で…すれ違っていたのよ」
颯紗「…!」
奈樹は二日前に、一人の女性とすれ違った時に不思議な感覚に見舞われたことを話した。颯紗はビクッと反応した。颯紗も二日前に奈樹とすれ違った時に、奈樹と同じことを感じていたのだ。しかし何も言わずに黙っている。
奈樹「…私も…ついこの前まで今の颯紗のように怯えてた」
奈樹は優しく、諭すように、ゆっくりと語り始めた。
奈樹「私は自分の生まれ持った運命が嫌いだった。幸せと思う頃もあった…。けど、それはほんの僅かな時間で…その分、本当に辛い別れを経験した…。その後は全てが絶望に見えた…私の手は血で塗れた…望みもしない戦いも…虐殺もした…」
語りながら奈樹の声は震えた。本当なら思い出したくない、誰にも語りたくないこと。しかし奈樹は続けた。心へと訴えかけた。自身の全てを曝け出さなければ、颯紗の心には響かないと感じていたからだった。
奈樹「その後…私は力を大幅に失った。それをいいことに、私を傷付けてくる人が大勢いた…どうしてこんな苦しい思いをしなければならないんだろうって何度も感じた…。
けど…私はその場から逃げ出すことができた。そして私は今の仲間に救われた…」
奈樹は感じていた。颯紗は自分と似ている。自分が皆に救われたように、今度は自分が颯紗を救いたかった。自分がされたように、笑顔を与えたかった。
奈樹「私も怯えていた。けど…変わることができた。私が今住んでいる島…ノスタルジアで仲間と一緒にいることで…沢山の勇気と笑顔を貰った」
颯紗「………」
奈樹「私が…颯紗を守る。だからここで死ぬなんて言わないで…颯紗も一緒にノスタルジアに…来ない? きっと…幸せになれる」
颯紗「……」
颯紗は俯いた。包帯越しに目元が水分で滲み、そこから溢れ、流れてくる大量の涙。顔を伏せたまま肩を震わせ嗚咽していた。よほど辛いことを経験していたのか、孤独で押しつぶされそうになっていたのか。奈樹は颯紗が落ち着くまで、ギュッと手を握っていた…。




