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第1話   ボーイ・ミーツ・ガール

亜麻色の髪の乙女が完全に行き詰ったので、暴れん坊ターニャのキャラを使って学園ストーリーを書いてみました。

読んで頂けたら嬉しく思います。



爽やかな初夏の風がカーテンを揺らしていた。

窓の外の新緑が目に美しかった。

「ふぅ」

そんな光景を見ながら明はため息をついていた。

彼の机の上には数枚の書類があった。

彼の名は草壁明(くさかべあきら)

大樹寺(だいじゅじ)高等学校の2年A組に所属している。

彼の通う大樹寺高校は愛知県内では、名古屋市、豊田市、豊橋市に次ぐ地方都市、岡崎市にある。

岡崎市は江戸幕府を開いた徳川家康の生誕地であり、大樹寺は徳川家並びに家康の先祖である松平家の菩提寺(ぼだいじ)である。

その内部には江戸幕府歴代将軍の等身大の位牌が安置されてある。

その大樹寺の元境内であった敷地に大樹寺高校は建てられていた。

元境内というのは大樹寺が江戸時代に焼失してしまったからである。

時の幕府はとりあえず仮本堂を造ったが結局、大樹寺が再建される事はなかった。

現在、大樹寺と呼ばれているのはあくまで仮本堂であり徳川家の菩提寺にしては規模が小さいのはその為である。

大樹寺高校の南端には総門と呼ばれる門があり、大樹寺の山門から総門を通して家康の産まれた岡崎城を見る事が出来る。

大樹寺高校、通称、大高(だいこう)は公立高校でありながら愛知県内でもトップクラスの進学校だった。

事実、昨年度は東京大学、名古屋大学への現役合格者は愛知県トップだった。

明はその大高でも極めて成績優秀な生徒だった。

その弊害と言うべきなのか彼は2年生であるにも関わらず生徒会長を押し付けられてしまっていた。

3年生は受験勉強で忙しく誰もやりたがらなかったし、明は教師達からの信頼も厚かったので押しに弱い彼は断る事ができなかった。

その結果として、これから目の前にある書類の処理をしなければならない。

「はぁ」

明が二度目のため息をついた時、彼はバーンと背中を叩かれた。

「おーっす!」

振り返ると亜麻色の髪に蒼い瞳の少女がニコニコと笑っていた。

この少女が全ての元凶、草薙(くさなぎ)ターニャである。

彼女はロシア人の父親と日本人の母親の間に産まれたハーフであり、現在は父親と二人暮しをしている。

母親はターニャが3歳の時に亡くなった。

彼女は顔立ちこそ日本人の母親の面影を残しているが、後は完全にロシア人の父親の血を受け継いでいる。

陶磁器のように透き通るような白い肌、本人は亜麻色と呼んでいる茶褐色の髪をツインテールにしてその髪はいつも美しく輝いている。

そして見る者を引きずり込むような深い湖のような蒼い瞳。

おまけに亡くなった母親が美人だったせいか日本人形のような整った顔立ち。

そう、ターニャは完璧とも言える美少女だった。

見た目は。

「なーに、朝っぱらからため息ついてんだよ」

そう言って自分の席に鞄を放り投げた。

「…お前なぁ」

明は机の上の書類をピラピラと彼女に振った。

「ん?なんだそれ?」

「お前の後始末だよ」

「なーんだ」

ターニャはケラケラと笑った。

「いつものようにチャチャッと片づけてくれよ」

「お前なぁ」

明は三度目のため息をついた。

「これが何度目だと思ってるんだ。少しは自重しろよ」

「だって、しょーがないだろ」

ターニャは両手を頭の後ろで組んでぶーたれた。

亜麻色の髪が揺れた。

「ウチの生徒が危ない目にあってたんだぞ。黙って見てられるかよ!」

ターニャは大高の空手同好会の代表を努めている。

ロシア人の父親から教わったシステマというロシアの格闘技と日本の空手を組合せたもので、彼女はかなり強い。

いや、恐ろしく強い。

特筆すべきはそのスピードで、そのしなやかな身体から繰り出される技は一瞬にして相手を葬りさる。

本格的に全国大会に出場すればオリンピック代表候補になれると明は思っている。

その事をターニャに訊ねた事があるが彼女の答えは一言だった。

「やだ、めんどくさい」

また彼女の思考回路は極めて単純である為、しょっちゅう問題を起こしていた。

ターニャのモットーは、

「悪はブチのめす!」である。

大高の生徒は秀才であるが故、どちらかと言えばひ弱で他校の生徒に絡まれる事も多かった。

その度にターニャの出撃となるのである。

最も彼女なりに手加減はしているので、相手に大きなケガを負わせる事もなかったが。

それでも稀にターニャが本気を出さざるを得ない相手もいるので、それが事件となり生徒会長である明がそれを処理する為に奔走するのである。

幸いな事に大高の校長は各方面に顔の効く人物らしく明の要請を受けるとしかるべき所に手を打ってくれた。

明も校長もターニャに悪意が無い事はよくわかっていたからである。

そして、どうやらターニャは校長のお気に入りのようだった。

いや、変な意味ではなく。

ターニャが問題を起こす度に校長室を訪れる明に恰幅(かっぷく)のいい身体を揺すって豪快に笑いながら言った。

「いやぁ、あの()は良い娘だ。かなり見所がある。そのうちに日本のため、いや世界のために何かやらかすんじゃないか」

カッカッカッと笑いながら続けた。

「その点、君も成績は優秀だが自分を枠の中に入れてしまおうとしているな?そんなこっちゃ大物にはなれんぞ」

いや、大物って。

僕は普通の人生を送りたいんです。

明は心の中で反論した。

「ふむ」

校長は珍しく真面目な顔で明を見た。

「しかし、君達は良いコンビだ。君達は二人で一つなのかも知れん」

「二人で一つですか?」

明が聞き返した。

「うむ。君とターニャ君、どちらが欠けてもダメだ。ターニャ君には君が必要だし、君にはターニャ君が必要なんだ」

「はぁ」

そんな事は今まで考えた事もなかった。

困惑している明に校長は追い討ちをかけた。

「まぁ、そのうち君にもわかるだろう。ところで君達は正式に付き合っておるのかね?」

「は?い、いえ付き合ってるなんてそんな…」

しどろもどろになる明を見て校長は、また豪快に笑った。

「しっかりと捕まえておけよ?あんな娘はめったにおめにかかれる娘じゃないからな」




明はそんな校長の話を思い出しながら、新しく校長に提出する書類の記入を始めた。

「なあ」

そんな明にターニャが声をかけて来た。

「なんだよ…!」

振り返った明の目の前にターニャの顔のどアップがあった。

透き通るような蒼い瞳。

明はその瞳に引きずり込まれるような感覚に襲われ思わず立ち上がった。

「うわっ!」

そんな明をターニャはポカンとした顔で見ていた。

「何やってんだ?お前」

「し、至近距離で顔を近づけるなぁ!」

「はぁ?見慣れたツラじゃんか。なんで今になってビビってんだよ?」

ターニャはわけがわからないと言った顔をしている。

はぁはぁと明は息を整えた。

落ち着け、落ち着け俺。

「…なんか用なのか」

「それがさー。今日も親父のヤツいないんだよ。一人で飯食ってもつまんないだろ?アタシん家で夕飯食わないか?このターニャ様手作りの絶品ロシア料理を食わしてやるぜ」

そう言ってターニャはニカッと笑った。

「…自分で言うなよ」

「なんだよ。この間だってアタシの作った料理みんな食べちまったくせに」

確かにターニャの作る料理は美味しい。

この粗暴の固まりのような少女は以外と小器用で、彼女の作った料理の美味しさは何度か彼女のマンションでご馳走になった明はよく知っている。

「それにしても君の親父さんはまた、どこかに行ってるのか?」

「そうなんだよなぁ。ここ一週間くらい帰って来ないんだよ」

一週間!

それでは、さすがのターニャも心細いだろう。

「君の親父さんは一体、何をしてるんだ?」

「それがアタシにもよくわからないんだよなー」

おい、おい。

「表向きは貿易商って事になってるけど」

明もターニャの父親とは何度か会った事はある。

ロシア人としては小柄な方だがターニャと同じ蒼い瞳で、とても温和な人と言った感じだった。

それでもターニャに教えたシステマという格闘技は主に軍の特種部隊が用いるもので、民間人が簡単に習得出来るものでは無い。

「ま、生活費は充分に振り込まれてるしアタシは気楽にやってるけどな」

そう言うターニャの横顔がちょっと寂しげに見えたので明は迷わず答えた。

「わかった。今日は君の絶品料理をご馳走になるよ」

「やった!」

ターニャは手を叩いて喜んだ。

「学校が終わったら直接アタシん家に行こうぜ。今日の教科書とノートを持って来てくれよ?」

「いいけど。なんで?」

「いいから、いいから」

ターニャはひらひらと手を振った。

「おはよう!ターニャ」

「ねぇねぇ、ターニャ。昨日さぁ」

「ターニャぁ。俺さぁ」

いつもより早い時間に登校していた二人のクラスに続々とクラスメイト達がやって来た。

そして、皆は真っ先にターニャに話しかけた。

気さくで明るく誰とでも仲良くなれるターニャはクラスの、いや学校中の人気者だった。

アイドルと言っても良いかも知れない。

ターニャが大高に入学した時はその容姿の為、交際を申し込む男共が殺到した。

そして彼らは一人残らず玉砕した。

入学したターニャの暴れっぷりを見ると、彼女に交際を申し込む男はいなくなった。

また、明の存在を知る事により二人は付き合っていると皆は認識していった。

しかし、当の二人にそんな意識はなかった。

明にとってターニャはかけがえのない守るべき存在だった。

自分の全てをなげうってでも、この亜麻色の髪の可憐な少女を守ってみせる。

これは明の決意でもあった。

確かにターニャと初めて会った時には淡い恋心のようなものを感じた。

しかし、今では守るという使命感の方が強かった。

そこには恋愛感情は存在しない。

明はそう思おうとしていた。

ターニャにとって明は真の親友だった。

自分の心の奥底まで全て話せる相手。

それが明だった。

友達は数えきれないほどいるターニャだったが、明だけは特別な存在だった。

彼女の中で明は、必要欠くべからざるものだった。

しかし、こちらにも恋愛感情は存在しない。

そもそも、ターニャは恋愛感情というものを持った事がなかった。

初恋さえ、した事がなかった。

仲の良い友人達で集まると必ず恋話になるが、そうなるとターニャはただ聞いているだけになった。

彼女には恋愛というものが理解できなかったからである。

ターニャの精神年齢は、こと恋愛に関してはまるっきりの子供だった。

「あーあ、もうすぐ期末テストかぁ。気が重いぜ」

皆の輪の中でターニャは大げさにため息をついた。

「良いじゃん。あんたには優秀な家庭教師様が付いてるんだから」

そう言って級友の一人、杏子(きょうこ)がにたにたと笑った。

彼女は学内でバンドを組んで、そのボーカルをしている。

性格は姉御肌(あねごはだ)でなかなかの美人である。

そして、胸がデカイ。

「でもアイツ、勉強の事になるとめちゃくちゃキビシイんだぜー」

書類の記入を終えた明はターニャのセリフを聞いて苦笑した。

ターニャが夕食に誘った理由がわかった。

要するに今度の期末テストのヤマを教えて欲しいのだろう。

明もそろそろターニャに期末テストに向けた特訓を始めようと思っていたのでちょうど良かった。

ターニャの成績はお世辞にも良いとは言えなかった。

色々な事に首を突っ込みゴタゴタを起こしていたし、学校外ではしょっちゅう乱闘騒ぎを起こしていたから勉強などしているヒマは無いのだろう。

そもそも、そんな彼女が県下有数の進学校である大高に入学できた事自体が奇跡的な事だった。

中学三年の進路指導の時、ターニャが大高に行きたいと言ったら担任の教師はひっくり返った。

彼女の学力では、ニュートリノに質量を見いだす事よりはるかに難しい事だったからである。

ターニャは徳川家康に心酔していた。

明と出会い、この岡崎で産まれた日本の歴史上でも(たぐ)(まれ)なる人物の事を何度か聞かされると、根が単純なターニャはその人物像に強く惹かれていった。

弱小国の三河に産まれ、常に織田家と今川家の勢力争いに巻き込まれ、幼少時には今川家に人質として差し出された。

そんな状況下にありながら最終的には江戸幕府を開き200年もの長きの間、戦いの無い世の中を築いた。

これは世界史の中でも極めて稀な事である。

世間一般的には家康の評判は悪い。

ずる賢い、腹黒い、タヌキジジイ。

そんな事は無い、とターニャは思っている。

今の自分の状況を冷静に分析し、世の時勢を着実に把握する。

決して無茶はせず、来るべき時に備え打てる手は着実に打つ。

そんな自分とは正反対の家康の生きざまにターニャは憧れた。

だから、徳川家の菩提寺である大樹寺の元境内にあり常に家康の産まれた岡崎城を見る事の出来る大高に自分の学力など考えもせずに行きたいと思ったのである。

それに加えて、ターニャ自身も気づいていなかったが明と同じ高校に行きたいという思いが強くあった。

それから、明のターニャへの猛特訓が始まった。

明もターニャと同じ学校で高校生活を送りたいと思っていたからだ。

断わっておくが、ターニャは決して頭が悪いわけでは無い。

自分が関心が無いものには全く興味を示さないだけである。

それが今は大高合格という確固たる目標ができた。

それからの彼女の集中力はすさまじかった。

明の教える事を乾いたスポンジが水を吸収するように頭に叩きこんでいった。

ターニャの成績はぐんぐんと伸び、それは担任教師はもちろん教えている明もびっくりする程だった。

こうして二人は晴れて大高に合格したのである。

「でも、あんたは良いわよねぇ。あの明君にマンツーマンで勉強教えてもらえるんだから」

杏子は今度はしみじみと言った。

「そうだよー」

他の女子生徒も同調した。

「そうなのか?」

ターニャは聞き返した。

「そうだよ。あんたは知らないだろうけど明君って女子の間じゃかなり人気あるんだよ」

「へぇー」

「マジメだし優しいし頭良いし。イケメンだし」

「明がイケメン?マジかよ」

ターニャは今まで明の外見なんて考えた事もなかった。

しかし、言われてみれば確かにイケメンと言えるのかも知れない。

「ま、あんたがいるからね。誰もあんたには勝てないから明君には告白とかしないんだよ」

そう言って杏子はため息をついた。

他の女子もうつむいてしまった。

「お前ら、本当は恋人どうしなんだろ?」

今度は男子生徒が訊ねてきた。

イマサというあだ名で杏子のバンドのリードギタリスト。

バンドの曲は全て彼の作詞作曲である。

背がひょろ高く丸ぶちのメガネをかけて髪をいつも尖らせている。

ひょうひょうとして、掴みどころの無い男だ。

「あー、それ聞き飽きたー」

ターニャは机の上に転がった。

キーンコーンカーンコーン

ターニャにはちょうど良いタイミングでチャイムが鳴った。

皆は急いで自分の席に戻った。

ガラガラと教室の扉が開いて出席簿を持った若い男性が入って来た。

明達の担任教師の草下了(くさかりょう)である。

スラリとした長身で正真正銘のイケメンである。

大学を卒業して2年目の彼は教師と言うより良き兄貴分と言った感じだ。

どんな生徒にも親身を持って接して、男女を問わず生徒には人気があった。

ターニャが問題を起こした際に校長の指令を受けて警察や市役所や他の学校に(おもむ)くのは彼の役目だった。

「それじゃあHRを始めるぞー。おっ」

了はターニャの顔を見ると笑いながら言った。

「草薙、またやらかしたな?」

「へへ」

ターニャは頭をかいた。

「ホドホドにしとけよ。お前の顔に傷でもついたら学校中の男共が泣くぞ?」

教室がドッと笑いに包まれた。

明も笑っていた。

ターニャだけはちょっと恥ずかしそうだった。




放課後。

ターニャは総門の前で明を待っていた。

小柄な彼女が両手で鞄を持っていると中学生か、もっと幼く見えた。

夕陽の中で亜麻色の髪を輝かせて佇む美しい少女。

それは、さながら一枚の絵画のようだった。

「先輩、あの子留学生かなんかですかね?めっちゃ可愛いんですけど」

グラウンドを走っていた運動部の一年生が前を走っていた男子生徒に話しかけた。

「バカ!あいつは我が大高の破壊神、草薙ターニャだ」

「は、破壊神?」

「あぁ。各運動部に勝負を持ちかけて部費をぶんどっていきゃあがった」

先輩と呼ばれた男子生徒は苦々しげに吐き捨てた。

「は、はぁ」

「確かに見た目は良い。ものすごく良い。しかし、その正体は破壊神だ。お前らも気安く近寄るんじゃないぞ。ゴタゴタに巻き込まれてエライ目にあうぞ」

「うぃーっす」

そう言いながらも一年生部員達はターニャに見とれていた。

男子生徒の言った事は、おおむね正解だった。

大高に入学したターニャは「ここの運動部の実力を(はか)る」と言って各運動部に殴り込みをかけた。

彼女は「道場破りー」と名乗って運動部を回り、ある条件を出して勝負を持ちかけた。

条件は一つ。

ターニャが負けたらその運動部に入る、勝ったら部費の5分の1を貰う。

ターニャは小柄でいかにも非力そうに見えたし、なにより超絶美少女だったから各運動部は喜んで勝負を受けた。

そして、ことごとく敗れ去って行った。

大高は進学校であったから、その運動部のレベルは決して高くはない。

それでも毎日練習をしているスペシャリストだ。

その中でもエースと呼ばれる人々をターニャは全て打ち負かした。

陸上部との100m走対決では、大高始まって以来のタイムを叩き出した。

もう少しでオリンピック出場タイムに迫るほどだった。

陸上部の顧問に泣きつかれて入部を懇願されたが、部費を受けとると立ち去った。

野球部との対決では、推定飛距離180mのホームランをかっ飛ばした。

そのホームランボールにはターニャのサインが入れられ、今も校長室に陳列してある。

圧巻だったのは柔道部との対決だった。

相手の柔道部主将は100㎏を超す巨漢で大高では初めてのインターハイ3位になった男だった。

ターニャと比べるとその体格差は大人と子供、いや象とアリだった。

体育館には大勢のギャラリーが詰めかけていた。

明もその中にいた。

皆は誰も勝負の行方など考えていなかった。

ターニャが負けるに決まっているからである。

皆はターニャの身の安全を心配していた。

「こらー、手加減しろよ!」

「ターニャちゃんにケガでもさせたら、承知しねぇからなぁ!」

体育館の中はそんなヤジで満ちていた。

畳の上にあがった主将は静かに言った。

「どんな状況でも勝負は勝負。かわいそうだが本気でいくぞ」

「へっ、そう来なくちゃな」

ターニャは不敵に笑った。

体育館の中はいつしか静まり返っていた。

明は祈るような気持ちでターニャを見つめた。

「始めっ!」

審判の声と共にターニャの姿が消えた。

「なっ!」

主将が叫んだ次の瞬間、彼の身体は背中から畳に叩きつけられていた。

「一本!草薙選手の勝ち!」

体育館は静まり返ったままだった。

皆は何が起こったのかわからなかった。

しかし、しばらくすると地鳴りのような大歓声が沸き起こった。

「やったー!」

「マジかよ?勝っちゃったよ!」

「何が起きたんだ!?」

皆が騒然としている中で明はしっかりと見ていた。

ターニャが猛スピードで主将に突っ込み、慌てた主将が少しバランスを崩した一瞬のスキに大外刈りをかけたのだ。

畳の上で主将は座り込んでいた。

「俺もまだまだ修行が足らん」

「そんなこたぁねぇよ」

ターニャが声をかけた。

「あんたはいつも無差別級で闘ってるから面食らっただけさ。それにあんたがバランスを崩さなかったらアタシに勝ち目はなかった。アタシにとっちゃ一か八かの賭けだったんだぜ」

そう言うとターニャは主将に手を伸ばした。

「あんたは強いよ。一瞬の出来事だったのにちゃんと受け身が取れてた。頑張ればオリンピックだって夢じゃないぜ」

「ふっ」

主将は苦笑を浮かべてターニャの手を取った。

「お前とはもう一度闘ってみたいな」

「よしてくれ!」

ターニャは肩をすくめた。

「一か八かの賭けだって言ったろ?もう、この手は通用しない。そしたらアタシに勝ち目なんて無いじゃんか」

そうだろうか?

主将は思った。

この少女ならまた別の手を考えて自分を倒してしまうのではないか?

しかし、それは口には出さなかった。

二人は握手をしたまま笑いあった。

こうして全ての運動部を制覇しその後の他校生徒との乱闘騒ぎが重なるに連れ、ターニャは一部の生徒達から破壊神として恐れられた。

この学校に自分が入る運動部は無いと判断したターニャは、空手同好会を立ち上げた。

顧問には新任教師だった了がなってくれたし、面倒な事務手続きは明にやらせた。

ターニャの呼びかけで同好会にもかかわらず、50人ほどの生徒が入会した。

その殆んどが男子生徒だった。

彼らの目的は華麗な舞いのようなターニャの模範演技を見たり、彼女に直接指導してもらう事だった。

しかし、飽き性で気まぐれなターニャは一月ほど経つと週に1、2回しか顔を出さなくなり、後は副代表にさせられた明に丸投げした。

おかげで明はターニャの指示通り、各会員達に適した練習メニューを作り月に一回渡すハメになった。

「さよなら。ターニャ」

「ターニャ。また明日ー」

「ターニャぁ。明日まで会えないなんて俺は寂しいぜぇぇ」

総門の前で立っているターニャに様々な生徒が声をかけて行った。

それに彼女は手を振って応えていた。

杏子とイマサらのバンドメンバーも通りかかった。

「何?明君待ち?」

「うん。お前らも帰るのか?」

「ふっ、ふーん」

杏子は得意げな顔をした。

康生(こうせい)通りでライヴハウスを安く借りれたのよ。今夜はみっちりやるわよ」

康生通りとは岡崎一の繁華街だ。

最も今ではだいぶ(さび)れてしまっているが。

「そっか、良かったな。もうすぐなんだろ?お前らの単独ライヴ」

「そうなのよ〜〜!」

杏子はグッと拳を握りしめた。

「あたし達、ハーピーボーイズの記念すべき単独初ライヴよ!」

杏子の目は燃えていた。

ターニャもイマサに焼いてもらったハーピーボーイズのCDは持っている。

アマチュアバンドとしてはなかなかの出来で、ターニャは彼らの曲が好きだった。

「アタシらも絶対に行くからな。頑張れよ!」

「ターニャ、ありがとー!」

そう言って杏子は抱きついて来た。

小柄なターニャの顔は杏子の豊満なバストに押しつぶされた。

「うっぷ!杏子、放せ!息が!」

「あ、ごめ〜ん」

杏子は慌ててターニャを放した。

「…はぁはぁ。相変わらず殺人的だな。お前のバストは」

「ふーんだ。これもウチのバンドの売りの一つなんだからね」

そう言って杏子はバストをこれみよがしにユサユサと揺すった。

「おーい!待たせてゴメン」

そう言って明が駆け寄って来た。

「明!」

ターニャの顔がパアッと明るくなった。

「あれ?何してるの?」

「もうすぐ、こいつらの単独ライヴがあるんだよ」

「そっか。僕も必ず行くからね。頑張ってね」

明にそう言われると杏子は嬉しそうだった。

「任せて!あんたらには特別席を用意しとくから」

「嬉しいなぁ。僕は君らの曲は大好きだよ。メジャーデビューも夢じゃないって!」

「ふっ、俺様の作った曲だ。そんなの当たり前…痛てっ!」

イマサは杏子に蹴りを入れられた。

「調子に乗るんじゃないよ!でも、ありがとう明君。あんたがそう言ってくれるとホントにメジャーデビュー出来そうな気がするよ」

「おい!そろそろ行かないと時間が」

バンドのメンバーが声をかけた。

「いっけない。じゃ、あたしら行くから」

「この俺様プロデュースのライヴを楽しみにしてろよ。うわっ!」

イマサを引きずるようにして杏子達は去って行った。

立ち去る杏子達を見ながら明は呟いた。

「スゴいなぁ。彼らはもう自分達の夢に向かって歩き始めてるんだ」

ターニャは無言だった。

「ん?どうしたの?」

「…今日も校長室に行ってたんだろ」

「あぁ、校長がなかなか離してくれなくてさぁって、ホントにどうしたの?」

ターニャはうつむいたまま、ポソリと行った。

「…ごめん。アタシがバカだから明には迷惑ばかりかけて」

ターニャの声はちょっと涙声だった。

明は慌てて言った。

「何言ってるんだよ!ちっとも迷惑なんて思ってないよ!」

「…アタシ、今のままで良いのかな?」

「当たり前じゃないか!僕は今のままの君がす…」

明は思わず言葉を飲み込んだ。

危うく、好きと言ってしまいそうだった。

「す?」

ターニャは明を見上げた。

「す、素晴らしい!君は今のままの君で良いんだよ」

ターニャの蒼い瞳が輝いた。

「ホントか?ホントに今のままで良いのか?」

「もちろんさ」

「これからも明に迷惑かけたとしても?」

「もう、慣れっこさ」

「良かったぁ」

ターニャはみるみる笑顔になった。

弾けるような明るい笑顔だった。

あぁ、そうだ。

僕はこの笑顔が見たいんだ。

明はしみじみと思った。

「よし!」

ターニャはバシバシと自分の頬を叩いた。

「黄昏モード終わり!早くアタシん家で夕飯食べようぜ!」

そう言ったターニャはいつものターニャに戻っていた。

「おっと。その前に」

ターニャは岡崎城を見つめた。

そして、深々と頭を下げた。

明もそれに習った。

「今年は家康公の没後400周年なんだぜ?」

「それくらい知ってるよ」

「それにしちゃあ、イマイチ盛り上ってないよなー」

「仕方ないよ。市役所にはあまり予算が無いって言うし。職員の人達は頑張ってるみたいだけど」

「ふーん。じゃあ行くか」

そうして二人は歩き出した。




「ちょっと待って」

学校の敷地を出ると明がスマホを取り出した。

「家に連絡しておくよ。今日は夕飯はいらないって」

「あぁ、母さん達によろしくな」

明の両親とターニャはすっかり顔なじみになっていた。

ターニャが明の家に行くと、いつも大歓迎してくれた。

特に母親は一目でターニャを気に入り、実の娘のように可愛がった。

ターニャに見せる笑顔はいつもとても優しかった。

アタシの母さんもこんな笑顔だったのかな?

幼い頃に母親を亡くしたターニャは明の母親に自分の母親の面影を重ねて、こちらも実の母親のように慕っていた。

「はい。草壁です」

電話に出たのは明の妹の美樹(みき)だった。

明達の母校、葵衣(あおい)中学に通う中学二年生。

年齢よりもかなりしっかりしている。

「僕だよ。今日は夕飯はいらないって母さんに伝えてくれ」

「はーい。あー、ひょっとしてお姉様の家に行くつもり?」

美樹はカンが鋭い。

一種の霊感のようなものを持っている。

美樹にウソが通用しない事をよくわかっている明はあっさりと白状した。

「そういう事」

「ずっるーい!あたしも行く!」

「僕らは夕飯の後で勉強するんだよ。帰りが遅くなるからダメだ」

「うぅ〜〜っ」

電話の向こうで美樹が唸っている。

「じゃあ、お姉様と代わってよ。ちょっとお話しするくらい良いでしょ?」

明はスマホをターニャに差し出した。

「美樹が話したいってさ」

「お、美樹か」

ターニャは嬉しそうにスマホを受け取った。

一人っ子のターニャは美樹の事も実の妹のように可愛がっていた。

それから、二人の会話は20分以上続いた。

明が焦れてスマホを取り上げようとすると「今、話しの核心なんだよ」と言ってターニャはスマホを離そうとしなかった。

「あー、もう!」

ついに明はスマホを取り上げた。

「…だからね、お姉様。そうなのよ」

「僕だよ」

「あれ?お姉様は?」

「どれだけ喋ってれば気が済むんだよ。もう切るぞ」

「もう!お兄ちゃんのケチ!」

明はかまわずに電話を切った。

「なぁ、アタシらそんなに喋ってたか?」

振り返るとターニャがにたにた笑っていた。

「30分だよ。いったい何を喋ってたんだ?」

「チッチッチッ」

ターニャは顔の前で人差し指を振った。

「女の子同士の会話の内容を聞こうだなんて、野暮ですぜダンナ」

「バカ言ってろ。あーあ、とんだ時間を食っちゃった。行くぞ」

「へーい」

ターニャは明の後に続いた。

「しかし、やっぱりバレてたか」

「何が?」

「期末テストのヤマの事だよ」

「バレバレだよ」

そう言うと明は立ち止まってターニャに向き直った。

「でも僕はヤマは教えない。これから一週間みっちりやるから覚悟しろ」

「うへぇー。お手柔らかに頼むぜ」

こんな会話をしている間に二人は国道248号線、通称ニーヨンパーの交差点に着いた。

ニーヨンパーを横切って20分ほど歩くと大門小学校がある。

その近くにターニャのマンションはあった。

ニーヨンパーを横切って15分ほど歩くと大手のスーパーマーケットがあった。

「ちょっと買い物していくから」

ターニャがそう言うとスーパーに入って行ったので明も続いた。

スーパーから出てきた明は三つの大きな買い物袋を持たされていた。

ターニャは当然のように手ぶらだった。

買い物袋は重かった。

特に野菜を詰めこんだ袋はめちゃくちゃ重かった。

「…おい」

「あんだよ?」

「お前には慈悲の心は無いのか?」

「あはは」

ターニャはおかしそうに笑った。

「筋トレだと思えよ。お前、ちょっと運動不足だぞ」

「へいへい」

明はあきらめて袋を持つ手に力を込めた。

それからターニャはわざと遠回りをしてマンションに着いた。

7階建てのマンションは豪華な造りで、いかにも高級マンションといった感じだ。

このマンションの3階の部屋でターニャは父親と暮らしている。

入り口のタッチパネルにターニャが手を乗せるとガラスの扉が開き二人はマンションの中に入って行った。

それから階段を使って3階に上った。

「明の掌認証もしとかなきゃいけないな」

ターニャは一人言のように呟いた。

部屋の前に着く頃には、明の息はすっかり上がっていた。

「はぁはぁはぁ」

「お前、ホントに運動不足だぞ」

ターニャはドアを開けると「入れよ」とも言わずに奥に入って行った。

明もドアを閉めると何も言わずに彼女に続いた。

「買い物袋は台所に持ってきてくれ」

明が袋を持って台所に行くと、ターニャは制服の上からエプロンを着て料理に取りかかっていた。

「ここでいいの?」

「あぁ、後はアタシがやる」

そう言うとターニャは冷蔵庫からスポーツ飲料のペットボトルを取り出して明に投げた。

「お疲れ様。もうしばらく待っててくれよ」

「あぁ」

ペットボトルを受け取った明はリビングに向かった。

かって知ったる家といった感じだった。

明はこのマンションには数えきれないほど来ているので中の構造は全てわかっていた。

リビングのソファに腰かけた明はターニャに貰ったスポーツ飲料をごくごくとのどを鳴らして飲んだ。

冷たくて美味しかった。

封が開けてあったからターニャも口をつけたものであろう。

彼女はコップなど使うタイプではない。

これはつまり、間接キッスという事になるのだが今さらそんな事を気にする二人ではなかった。

明はリビングを見渡した。

きちんと整頓されている。

入って来た廊下も台所もこのリビングもきれいに掃除してあった。

ターニャが登校前に掃除しているのがよくわかる。

彼女はきれい好きなのである。

制服もいつも洗濯したてできちんとアイロンをかけたものを着用している。

普段の粗暴な言動からは考えられない。

長い付き合いの明にも、このギャップは未だに理解出来ていない。

「お待たせー」

そう言ってターニャが二人分の料理を次々とリビングに運んで来た。

良い香りがリビングを満たした。

今日のメニューはボルシチとビーフストロガノフだった。

それにライスと野菜サラダが添えられている。

ターニャの得意料理だ。

定番といえば定番であるが、彼女独特の味付けがしてあってレストランにも負けないくらいの絶品になっていた。

エプロンを畳みながらターニャは言った。

「先に食べててくれよ。アタシはシャワー浴びるから」

そう言って制服を脱ぎながら浴室に向かった。

10分ほどで彼女は戻って来た。

Tシャツに短パンというラフな姿で、ツインテールをほどいた亜麻色の長い髪が濡れて(つや)やかだった。

「なんだよー。まだ食ってなかったのか?」

「二人で食べた方が美味しいだろ?」

「でも冷めちまってるぜ?」

「君の料理は冷めても美味しいんだよ」

そう言われたターニャは少し、はにかんだような笑顔になった。

そして、ガツガツと食べる明をニコニコと見ていた。

「ごちそうさまー」

「おそまつさまでした」

食後のコーヒーを持って来たターニャは得意気だった。

「ほらみろ。全部食っちまったじゃねーか」

「美味いんだからしょーがないだろ」

「ふっふーん♪」

ターニャは上機嫌だった。

「さてと」

コーヒーを飲み終えた明は鞄から教科書とノートを取り出した。

「げっ」

「げっ、じゃないよ。今日はこの為に来たんだから」

「どうしてもやらなきゃダメか?」

「ダメ。赤点取って夏休みを棒に振りたいのか?」

ぶんぶんとターニャは首を振った。

「じゃあ、覚悟を決めてやる」

「へーい。マジでお手柔らかに頼むぜ」

カリカリカリ

リビングにターニャの持つ鉛筆の音が響く。

ターニャは明の作った問題集に取り組んでいた。

今の彼女は完全に問題集に集中している。

こうなったターニャには触れない方が良い。

その事をよく知っている明はソファに座りながら、ただターニャを見つめていた。

そうしているうちにターニャと初めて会った時の事を考えていた。

それは5年前の春の日だった。




名鉄(めいてつ)バスの百々(どうど)住宅前の停留所で明はワクワクしながらバスを待っていた。

鴨田(かもだ)小学校を卒業した彼はあと二週間ほどで葵衣中学に入学する。

そのお祝いとして彼の両親はお金を渡し、名古屋で好きなものを買ってきなさいと言ってくれた。

名古屋へは名鉄の東岡崎駅から特急で30分ほどで着ける。

名古屋へは何度か行っているが、一人で行くのは初めてだ。

それは12歳の明には、ちょっとした冒険のように思えた。

名古屋という大都会に行くのは楽しみだったし、買い物よりも今まで乗った事のない地下鉄に乗って名古屋の色々な場所に行こうと思っていた。

そんな明の肩を不意に誰かが掴んだ。

振り返るとガラの悪そうな高校生らしい三人組の男が立っていた。

「坊主、ちょっとこっち来い」

「え?でも?」

「いいから来い」

そうして三人組は明を隠すように歩き始めた。

明は怖かった。

12歳の彼には三人組の男達は大人のように見えた。

助けを呼ぼうにも声が出なかった。

三人組は明を鴨田天満宮、通称、鴨天(かもてん)の境内に連れ込んだ。

境内の中に人影はなく、ひっそりと静まり返っている。

「金、出しな」

男の一人が手を出した。

「…!」

「わかるんだよ。俺たちには。持ってんだろ?」

明はうつむいていた。

足がガクガクと震えていた。

「おとなしく渡しな。俺たちもガキに手荒らなマネはしたくねぇ」

うつむいていた明は震える声で言った。

「…嫌です」

「ああん?」

「嫌です!」

今度は、はっきりとした声で言った。

「このガキ!」

男は明を蹴った。

蹴られた明は転がって倒れた。

しかし、すぐに立ち上がった。

足にはすり傷が付いていた。

「これでわかったろ?おとなしく渡しな」

「嫌です」

「このガキ!」

男は今度は明の顔面を殴った。

殴られた明は再び転がったが、またすぐに立ち上がった。

殴られた顔からは鼻血が流れ落ちていたが、もう足は震えていなかった。

「これが最後だ。渡しな」

「嫌です!」

明は叫んでいた。

渡さない、渡さないぞ。

こんな連中に絶対に渡さない。

たとえ殺されたって。

「お前ら、何してる!」

境内に少女の声が響いた。

明と三人組が声のした方を見ると、鳥居の下に外国人の少女が立っていた。

茶褐色の髪に蒼い瞳。

少女と言ってもひどく幼い。

小学校の4年生くらいに明には見えた。

「お前ら、いつもここでカツアゲやってるだろ!アタシは知ってるんだからな」

「なんだぁ、このチビ?」

「外人か?かかわるとケガするぜ。お嬢ちゃん」

その少女は鳥居の下からまっすぐに男に走った。

そのあまりのスピードに驚いている男のあごにアッパーカットをかました。

「うげっ!」

続けて、よろめく男のみぞおちにパンチを叩き込んだ。

今度は男は声もなく地面に転がった。

「このチビ!」

少女は掴みかかって来た二人目の男の急所に膝蹴りをブチ込んだ。

「うぎゃあああ!」

男は股間を押さえて悶絶(もんぜつ)した。

「ふっ、なかなかやるな嬢ちゃん」

最後の男は他の二人とは雰囲気が違っていた。

多少なりとも格闘技の心得があるようだった。

「へっ!」

少女はその男に回し蹴りをした。

しかし、それはあと少しの所でかわされた。

「ちっ!」

少女は少し下がると助走を付けて男にハイキックをした。

「甘い!」

少女の脚は男につかまれた。

そして男は脚をつかんだまま少女を地面に叩きつけた。

「うぐっ!」

少女の口から小さな悲鳴がもれた。

受け身は取っていたもののちょっと呼吸困難になった。

「観念しな。ガキ!」

男の足が少女に振りおろされた。

少女は両腕で顔をガードしながら思わず目を閉じた。

ドカッ!

鈍い音がしたが少女は痛みを感じなかった。

少女が目を開けると明が男の足にしがみついていた。

「お前っ!」

「クソッ、離せ!」

明は必死になって男の足にしがみついていた。

「君は逃げろ!早く!」

「お前はどうすんだ!?」

「僕はどうなってもいい!君は逃げろ!」

男は明の横っ面を殴った。

新しい鼻血が飛び散ったが明は男の足を離さなかった。

「待ってろ!」

少女は男の後ろに回り込んだ。

そしてジャンプして男の首筋に渾身の力を込めて拳を叩きつけた。

「うっ!」

男は呻いて前のめりに倒れた。

三人組の男が動けなくなったのを確認した明は少女の手を取った。

「今のうちに逃げよう」

そう言って走り出そうとすると少女が悲鳴をあげた。

「痛い!」

そう言って右の足首を持ってうずくまった。

これではとても走れそうに無い。

そう判断した明は少女をお姫様抱っこして走り出した。

少女はとても軽かった。

「おい、何すんだよ!」

そんな少女の声を無視して明は抱っこしたまま走り続けた。

10分後。

二人は雑木林の中にいた。

明はゼイゼイと息を整えていて、少女は不思議そうな顔で明を見ていた。

ようやく息を整えた明は少女に語りかけた。

「ありがとう。君のおかげで助かったよ。僕は草壁明。今度、葵衣中に入学するんだ」

明がそう名乗っても少女は無言だった。

そして、一人言のように呟いた。

「…お前は不思議なやつだな。弱いくせに自分より強いヤツに立ち向かうなんて。親父の言ってた本当の強さって、こういう事を言うのかな」

「え?」

「いや、なんでもない」

少女は慌てて手を振った。

「…アタシは草薙ターニャ。アタシも今度、葵衣中に入学するんだ」

え?

明はビックリした。

このターニャと名乗った少女は自分と同い年なのか?

とてもそうは見えなかったが口には出さなかった。

「礼を言うのはアタシの方さ。お前のおかげで助かった…って、どうしたんだよ?」

明が不意に笑いだしたのだ。

過度の緊張感から解放された彼はナチュラル・ハイになっていた。

「おかしなヤツだな。…ふっ」

笑い続ける明に連れられターニャも笑い出した。

彼女もハイになっていたのだ。

二人は雑木林の中で笑い続けた。

これが明とターニャの出会いだった。

「ふう。腹痛ぇー」

笑い疲れた二人はしばらく見つめあっていた。

今の二人には共通の意識のようなものが感じられた。

雑木林の中を静かに風が吹いていた。

明は改めてターニャを見つめた。

茶褐色の髪に蒼い瞳、透き通るような白い肌。

そして整った顔だち。

彼女は完璧とも言える美少女だった。

「でも、ターニャって名前は?」

「親父がロシア人なんだよ。母さんは日本人だからハーフってわけ」

その時、少し強い風が吹いてターニャの髪が揺れた。美しく輝いていた。

「きれいな髪だね」

明がそう言うとターニャは嬉しそうに答えた。

「これ、亜麻色って言うんだぜ」

「…亜麻色。亜麻色の髪の乙女」

亜麻色の髪の乙女とは、フランスの作曲家ドビュッシーが作曲したピアノ曲である。

明はドビュッシーが好きだからよく聴いている。

そうか。この目の前の少女が亜麻色の髪の乙女なんだ。

「おっ、お前知ってるんだな」

ターニャはさらに嬉しそうだった。

「親父とたまに聴くんだ。死んだ母さんが好きだった曲なんだって」

「え?死んだ?」

「うん。アタシが3歳の時に。病気だったって」

明はうつむいた。

こんな時、なんて言えばいいんだろう。

ターニャは明を見つめていた。

明が自分の母親の事を心から悲しんでくれているのがよくわかった。

胸が熱くなった。

「そんな深刻に考えるなよ。母さんはアタシの中で生きてるんだから」

「え?」

「親父が言ってた。母さんはアタシの中で生きてるって。だからアタシは母さんとずっと一緒なんだ」

明は少し黙ってから呟いた。

「…強いな。君は」

「強いのはお前さ」

明はビックリした。

僕が強い?

「お前みたいなやつは初めて見た。親父が言ってた本当に強い人間って、お前みたいなやつなんだろうな」

「そ、そんな事ないよ」

ターニャはニヤリと笑った。

「ふん。アタシはわかった気がする。何となくだけどな」

雑木林の中を吹く風が冷たくなって来た。

「いっけね。もう帰らなくちゃ。痛っ!」

ターニャは再び右足首を持ってうずくまった。

「ちょっと見せて」

明はターニャのスニーカーと靴下を脱がした。

足首は赤く腫れていた。

「待ってて」

明は雑木林を抜け出して住宅地の方に向かった。

一軒の家のガレージに水道があったので自分のタオルを水で濡らすとターニャの所に戻った。

そして濡れたタオルを腫れた足首に巻きつけた。

「これじゃ歩くのは無理だね。君の家はどこにあるの?」

「大門小学校の近くだけど。ってコラ!お前、何しようってんだ!」

明は背中を見せている。

おぶされっていう事だろう。

「そんな恥ずかしいマネが出来るか!歩いて帰る!」

明は向き直った。

「ダメだ。こういうのは後遺症が残る事もあるんだ。僕が背負って連れて行く」

明の顔にはまだ鼻血がこびりついている。

そんな明の顔を見つめたターニャはポツリと言った。

「…わかった」

夕焼けの中、明はターニャを背負いながら彼女のマンションに向かっていた。

ターニャはとても軽くて彼女の体温が明の背中に伝わって来た。

ターニャは一言も喋らなかった。

ターニャのマンションに着いた明はリビングのソファーに彼女を座らせ、彼女の指示した場所から湿布薬を出して足首に貼った。

「本当に大丈夫かい?」

「あぁ、もうすぐ親父が帰って来るから」

「そっか、じゃあお大事に」

帰ろうとする明にターニャは手を差し出した。

明はその手を握った。

「今日からアタシ達は友達だな」

「ああ、そうだね」

「ずっとだぞ?」

「ずっとだ」

「ずっとずっとだぞ?」

「ずっとずっとだ」

「ずっとずっとずっとだぞ?」

「ずっとずっとずっとだ」

それを聞いたターニャは心の底からの微笑みを浮かべた。




「明!明!」

明は身体を揺さぶられて目を開けた。

「うーん」

明は大きく伸びをした。

どうやら眠ってしまっていたらしい。

明はターニャがかけてくれた毛布から脱け出すと目をこすりながら訪ねた。

「ふぁ〜、今は何時だい?」

「12時10分過ぎー」

ターニャが自分のスマホをいじりながら答えた。

そのメモリーには明の寝顔がバッチリ保存してあった。

「えぇ?大変だ、母さん達が心配してる」

「そう思って、お前ん家に電話しといた。泊まって来ても良いってさ。それから美樹と1時間くらいダベってたな」

「バカ言うな!」

明は慌ててソファーから飛び起きた。

「どうしてもっと早く起こしてくれなかったんだよ」

「いやー、あんまり気持ち良さそうに寝てたからさ」

ターニャはすっかり乾いた亜麻色の髪を揺らしながら答えた。

実はこれはウソである。

無防備な明の寝顔をずっと見ていたかったのだ。

「問題集は?」

「ほいよ」

ターニャは解答の書かれた紙を差し出した。

完璧だった。

「はぁ、いつもこれくらいの集中力なら東大だって夢じゃないのに」

「へっ」

ターニャは頬杖をついて笑った。

「前に明は言ったよな?人は努力すれば自分の望むべき人間になれるって」

「あぁ」

「アタシには、まだ自分の道が見えて来ないんだ」

ターニャは真面目(まじめ)な顔つきになった。

「…だから自分探しをしてるのか?」

「そういう事」

ターニャは明を見てゆっくり笑った。

この()が本気になったらきっと何でも出来てしまうんだろうな。

明は屈託(くったく)なく笑うターニャを見ながら思った。

「君には将来の夢とか全く無いのかい?」

「うーん。あっ、一つあるぞ」

「なんだい?」

「お嫁さん!」

しばらくの沈黙が二人を襲った。

「幼稚園児か」

「あはは」

ターニャは亜麻色の髪を踊らせて、おおげさに笑った。

それから、すっと目を細めて近づいて来た。

そして前のめりになって、座っている明の両肩に手をおいた。

「ホントに泊まってくか?空いてる部屋ならあるし、なんならアタシの部屋でも」

亜麻色の髪からは甘い香りがした。

Tシャツの首もとから見える白い肌が眩しく光っていた。

そして、透き通るような蒼い瞳。

またも引きずり込まれそうになった明は両手を振って大声で叫んだ。

「バ、バカ!そんな事出来るわけないだろっ!」

「そう言うと思った」

ターニャはひらりと身体をひるがえすと明を見て悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべた。

そして机に戻ると明の鞄に彼の教科書やノートを手ぎわよく収めていった。

「はぁはぁはぁ」

明は頭を落としてグッタリしていた。

「おい、帰るんだろ?早くしないと母さん達が心配してるぞ」

「…お前なぁ」

明は疲れたように立ち上がった。

そしてターニャが差し出した自分の鞄を受け取った。

「途中まで送ってくよ。今夜は特別なんだ」

「特別って?」

「いいから、いいから。あっ、ちょっと待って」

そう言うとターニャは急いで自分の部屋に入って行った。

このマンションで唯一、明が入った事が無いのはターニャの部屋だった。

どうしても部屋には入れてくれなかった。

マンションの中に明一人しかいない時もあったので、入ろうと思えば入れたが年頃の女の子の部屋を勝手に見るような明ではなかった。

ターニャもそれを良くわかっていたから、明がいる時でも部屋にカギをかける事はなかった。

「おまたせー」

ターニャが部屋から戻って来た。

何やら包みを持っていた。

「何を持って来たんだ?」

「何でもいいだろ。行こうぜ」

こうして二人はマンションの外に出た。



初夏とは言え夜風は肌寒かった。

しかし二人は寒さなど気にせずに夜空を眺めていた。

満月が光っていた。

いつもより大きく見えた。

「…スゴいな」

「だろ?今夜はスーパー満月なんだぜ」

「そっか。特別ってこの事だったのか」

いつもより明るい光りが辺りの景色を青く染めていた。

ターニャが持っていた包みを広げた。

「これ、覚えてるか?」

「そんなもの、まだ持ってたのか」

「アタシの宝物だからな」

それはターニャと初めて会った時に彼女の足首に巻いてやった明のタオルだった。

ターニャはそれをぎゅっと自分の胸に押しつけた。

明は何も言わなかった。

それからどのくらいの時間が流れたのだろう。

不意にターニャが明の手を握った。

明も握り返した。

満月を見ながらターニャがつぶやいた。

「…アタシ達、いつまでこうして一緒にいられるのかな?」

「ずっとさ」

「ホントに?」

「ああ、ずっとずっと一緒さ」

「良かったぁ」

ターニャはこてんと明の肩に自分の頭をのせた。

そして二人は無言になった。

明はドキドキしていた。

さっきのターニャの悪戯よりはるかにドキドキしていた。

隣りにいる小柄な少女を今すぐ抱きしめたい。

そんな衝動をかろうじて押さえていた。

そんな事をすれば今までの関係が全て壊れてしまいそうで怖かった。

ターニャもドキドキしていた。

繋いでいる明の手のぬくもりが身体中に広がって心地良かった。

胸に押しつけているタオルはとても熱く感じられた。

今は明の顔をまともに見られなかった。

アタシ、どうしちゃったんだろう?

それはターニャが初めて感じた恋愛感情だった。

二人は手を繋いだまま、いつまでも満月を見て佇んでいた。





第1話 完

この作品はプロローグとして登場人物の紹介を兼ねたラブストーリーにしてみました。

次回からは各話ごとに、SFあり、伝奇ミステリーありの何でもありの作品を書いてみたいと思っています。

読んで頂いてありがとうございました。

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