第七十六話 お屋敷の朝
「おはようございます、お嬢様。朝です」
「ん、うんぅ……」
「起きてください。朝食に遅れてしまいますよ?」
聞きなれないバリトンの落ち着いた声。
その響きに違和感を感じて目を覚ます。
「おはようございます、お嬢様」
「ぬわぁああぁぁぁぁぁあああ!?」
朝起きて、目の前に半分ミイラ化した執事がいれば、そりゃ悲鳴も上げようってモノだ。
「なぜ部屋に居る! お嬢様ってなんだ!?」
「すでに時刻は八時を回っておりますので、起こしに参りました」
なんていらない気遣いだ、この爺さん!
「起こさなくていいから……別に定時に起きる必要も無いわけだし」
「それでは生活リズムが狂ってしまいます。健康にもよろしく無いかと」
「……口調が思いっきり変わってるんだけど。それで、お嬢様ってのは?」
いきなりお嬢様呼ばわりは調子が狂う。そもそも前主人に忠誠を誓ってたんじゃないのか?
それにしても昨日のぞんざいさが欠片も感じられない、流暢な言葉使い。
長年に渡って洗練されてきた、耳に心地いい響きを持っていた。
「前主人への忠誠を誓っています事は変わりありません。ですが、主人とて定命の身。死から舞い戻る事は不可能でしょう。ならばその跡を継ぐ者としてお嬢様を据え、敬うことに致しました」
「えらくアバウトな……それでえーんかい?」
「忠誠に順列を付ける事は可能かと。お嬢様を主のご親族と思う事にすれば苦痛でもありません」
つまり死んだ主人の次にボクを据える事で、折り合いをつけたって事かな?
まぁ、それはそれとして。
「でもお嬢様ってのはやめてくれない?」
そもそもボクは男だしね。なんだか背中がむず痒くなってくる。
「この屋敷の主人に対して口を利くのですから、これくらいの礼は取っておきませんと、見下すものも現れましょう」
「じゃあ、間を取って名前で呼んで……」
「では、ユミル様と」
丁重に扱ってくれるようになったのはいいけど、その顔のアップを毎朝見せられるのは勘弁だ。
今後は注意しておくことにしよう。
ボクの騒動に、スラちゃんベッドで快眠していたアリューシャも目を覚ます。
イゴールさんが消えたことを確認しつつ、アリューシャと身支度を整える。
スラちゃんもベッドから離れ、ボク達のそばまでやってくる。その姿を見て、ふと思った。
「スラちゃんベッドは、アリューシャがオネショしても掃除が簡単なのがいいな」
「もう、お姉ちゃん! わたしオネショは卒業したもん!」
「どうだろう?」
「むうぅぅぅ!」
クスクス笑いながら、ぷっくり膨らんだほっぺを突く。
確か親戚の子は八歳くらいまでやってた気がするので、まだまだ危険領域だ。
そのまま顔を洗うため、外の井戸まで歩いていく。
厨房にも水道は完備されているが、どうせ外に用事があるのなら、散歩がてらってやつだ。
途中でセンリさんも目を擦りながら出てきたので合流する。
「おはようございます。珍しく早いね」
「あんたね……朝っぱらから絶叫しておいて、のうのうとよく言えるわ」
「あはは、目覚ましイゴールさんはインパクト大き過ぎでした」
「なにそれ?」
「気になるなら、明日の朝にでもお願いしておくね」
これで、明日の朝はセンリさんの悲鳴で目を覚ませるな。
庭の井戸で歯ブラシとコップを取り出し、ワシャワシャと歯を磨く。
横を見るとセンリさんもボクと同じような格好で歯を磨いているが……
「ん、アリューシャ、どうした――!?」
「あーん」
アリューシャは歯を磨かず、おもむろにスラちゃんに噛み付き、その一部を食い千切った。
そのままもごもごと口の中を濯ぎだす。
「あ、アリューシャ! スラちゃんを食べちゃダメでしょ。ペッしなさい、ペッ!」
「ん~、ぺっ」
吐き出されたスラちゃんはそのまま本体と融合して、何事も無かったかのようにプルプル震えている。
「こうするとお口の中スッキリするんだよ?」
「液体歯磨きみたいなものかしらねぇ?」
「センリさんも、なに落ち着いてるんですか……」
確かにスラちゃんは頭がいいので、そう言う用途にも対応してくれそうだけど、いきなりやられたらこっちの精神に危ない。
ビックリして歯ブラシ噴きだしそうになったよ。井戸に向かって。
「お姉ちゃんもやってみる? 気持ちいーよ?」
「そ、そう?」
アリューシャに進められたので、恐る恐るスラちゃんの一部を口に含む。
すると、噛み千切る前からにょろりと口に入ってきて、ぬるぬると口内を這い回った。
それはもう、歯の隅々から、舌の裏、頬の内側に到るまで、綿密に。
「むぐぅ! うぐふ!?」
噛み千切る前に侵入されて、顎を全力で押し開かれた状態なので、逆に力を込めることができない。
ところでご存知だろうか……口内と言うのは結構ビンカンなのである。
まるで絡みつくように舌根を清掃するスラちゃんに、なんだかディープな感じのキスをしているかの様な錯覚を覚える。
ボクの口の中なんて、面積にしてもそれ程大きくは無いので、ほんの一分程度なのだが……それだけでも充分蹂躙された様な気分を味わうことが出来た。
ずるっと口からスラちゃんが触腕を出した頃には、すっかり腰が抜けてしまっていた。
「お姉ちゃん、凄いねー。わたしはそんなに一杯口に入らないよ?」
「ぼ、ボクだって……無理」
「……うん。教育に悪いから、ユミルはそれ禁止ね」
当たり前だ、何が悲しくて朝っぱらからスライムプレイを堪能しなきゃならんのか!
こういうのは人目のない時にやることにしよう。
内庭はスレイプニールの二頭が走り回ったおかげか、大雑把に草が踏み潰されたような形になっていた。
その二頭に水と飼い葉を与えておく。
セイコとウララも頭はとてもいいので……それはもう、憎らしいくらいにいいので、放し飼いにしておいても特に問題は無い。
厩舎は一応存在するが、門を開けっ放しにしておけば、寝床代わりに使うだろう。
同時にスラちゃんを株分けして、水を与えて増やしておく。
これから先、庭の手入れや屋敷の掃除と、彼の活躍の場は多い。
水道のパイプ内部も彼に清掃してもらわねば、飲用に使用するには少し勇気が居るのだ。
洗濯だって、まとめて置いておけばスラちゃんが汚れだけを捕食してくれるのだ。
便利すぎて、もうボク、スラちゃんの居ない生活なんて送れない……
倉庫を漁って熊手を見つけ、庭に散らかされた雑草を掻き集めて乾燥させておく。
こうすれば、乾いた草がスレイプニールたちの餌になる。
そこらにほっぽり出せば勝手にエサが生えて来る草原とは違うので、こういったところからも少し節約しておこう。
「【アジリティブースト】ぉ!」
「ちょ、アリューシャちゃん、早っ!?」
庭の広さも結構あるので、三人で競争とかしてみた訳だが、これはセンリさんの惨敗に終わった。
製造系を極めつつある彼女は、あまり敏捷度は高くない。
素材集めの狩りも行う必要があるので、全く無いという訳ではないが、敏捷特化しているボクやアリューシャには、とても敵わないのだ。
ついでにアリューシャはドーピングしてる。
その間にも株分けされたスラちゃんたちは、屋敷内を清掃して回る。
井戸が生きていると言っても、二十年放置されていたのだ。
滑車周りや内壁にはコケがびっしりと繁茂して、金属部分には錆が浮いている。
コケはスラちゃんが捕食すればいいが、金属部はどうしようもない。
そこで登場するのがセンリさんである。
こういった部品の修復は、彼女の十八番。【修復】一発で屋敷中を直して回ったのだ。
「センリさんもすごいねー」
「うん、スラちゃんとセンリさんはもう必須だね」
そんな感想を漏らしあうボク達に『自分も居るぞ』とばかりにアピールしてくる、セイコとウララ。
もっとも彼女達の活躍の場はここでは無いので、ボク達と一緒に庭で砂浴び中である。
砂は無いので草浴びになってるけど。
「お姉ちゃんは何か作れないの?」
「うーん、毒とかなら……」
「それは、なんかヤダ」
そもそも魔導騎士も暗殺者も、製造系ではないので、無茶言わないで貰いたい。
この職業で『製造』できるのは魔刻石と毒薬瓶だけである。
「そう言うアリューシャはなに作れるのさ?」
「聖水なら……」
「……うん、ボク達役立たずだね」
「うん」
【聖水生成】スキルがあるのはボクも知ってる。
他にもアンシラーという、光を凝固させたアイテムも作れるとは聞いている。
どちらも一部のプリースト系のスキルを使用する際に消耗するのだ。
なんにせよ、こういった整備系の仕事は専門家に任せるとして、午前中はのんびりと馬達と戯れることにしよう。
――と思ってたら、センリさんからのご用命が飛び出してきた。
「ユミル、ここ! 屋根のここの所、雨漏りしてるから塞いどいて!」
「はぁい」
厩舎の柱の傷みを直していたセンリさんは、目敏く雨漏りの痕跡を発見したようだ。
軽くジャンプして屋根へ飛び乗る。僕の身体能力――特に敏捷値はすでに人間の領域ではない。
垂直飛びで五メートルを飛び越えることなど、容易いものだ。
確かに屋根板が一部腐って割れている。
これは板ごと交換した方がいいかも知れない。
「となると、下から板を持ってこないといけないな」
「はい、板」
「アリューシャ、ありが――なにぃ!?」
屋根の向こうからひょっこり顔を出したアリューシャが、修復用の板を渡してくる。
いやその屋根、五メートルだよ? どうやって顔出してるの?
そう思って屋根から顔を出すと、ウララが壁に足を掛けて立ち上がり、その首を登って来ていた。
なんというか……最近のアリューシャはモンスター使いが上手いな。
「アリューシャ、ウララを梯子代わりに使っちゃいけません」
「えー、ウララが首に乗せてくれたんだよ?」
「落ちたら危ないでしょ! ウララも、危ないことしない!」
「ブルル……」
「はわ!?」
ウララがゴメンとばかりに首を振ったので、アリューシャが落ちかける。
バランスを崩した彼女を、とっさにボクが腕を掴んで屋根に引き上げた。
「ありがと、お姉ちゃん」
「うん、落ちなくて良かったね」
屋根の上は五メートルとは言えそれなりに高い。
だからこそ、すごく気持ちのいい風が吹き抜けている。
「あー、ここでお昼寝したい」
「うん、しよう」
「センリさんを放って?」
「あ、じゃあセンリお姉ちゃんも一緒に」
板の張替えを早々に済ませて、気楽な感想を口にする。
その間にもセンリさんは別の場所を修理しにいっている。いやー、悪いなぁ。
「あ、お姉ちゃん。あそこの! あれ、迷宮の入り口かな?」
「あー、多分そうだね。そう言えば前は寄る暇なかったんだよね」
柵の向こうの通りをまっすぐ行ったところに、小さな凱旋門みたいな建物がある。
凱旋門と違うのは、その向こうが通り抜けられる空間ではなく、岩の空洞に繋がっていると言うこと。
そこに武装した人たちが、ひっきりなしに出入りしているのだ。
「今度行ってみよう?」
「えー、危ないじゃない。もう無理する必要も無くなったんだし、迷宮に行く必要ないじゃない」
「せっかく戦えるようになったのにぃ」
「戦わなくていいなら、それが一番だよー」
ボクの資産は日ごとに増えていっている。
特に冒険者たちが六層を突破したので、鉄や銅、水晶などの希少金属が手に入っているから、加速度的に増えている。
でも十層のアイスゴーレムとか、十一層のアラクネガードとかは苦労するだろうな。
なぜか鉄より硬いし。
アイスゴーレムはミッドガルズ・オンライン時代にもすごくお世話になった敵だ。
硬いけど、攻撃力は高くなく、それでいて経験値もそこそこと言う美味しい敵だった。
この世界でも、手応え的にはゲームと変わらないくらいだけど、ボク自身が超強化されているので、今では雑魚扱いである。
ただ、こちらの冒険者達には、あの硬さは厄介だろう。武器への負担が大きい。
特に刃物をメインに使う人たちには天敵だ。
ボクの剣並の性能が無いと厳しいだろう。
ちなみにセンリさんもこちらの世界の基準を知ってからは、武器を作って売るのをやめている。
彼女の打つ武器は、こちらの鎧を紙のように切り裂いてしまえるので、とても危険なのだ。
それは彼女の身の安全にも関わってくる問題でもある。
名剣をコンスタントに供給できる鍛冶師なんて、危険極まりない存在なのだから。
ボクはアリューシャを学校に送り、センリさんはここで適当な製造を楽しんで過ごす。
元の世界にも未練はあるが、どこをどう調べていいか判らない現状、ゆっくりしてたっていいじゃない?
そんなことを考えて、ボクはお昼寝モードに入ったのだ。