第二百四十九話 身中の虫
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ガコン、と音を立てて鉄格子がこじ開けられる。
ここは港町にある領事館の厨房。いつもならば早朝から人が出入りして、食事の用意を整えるのだが、夜も更けて遅い時間に、人の姿はない。
ケンネル国王も本来城を築いてそちらに住むのが筋なのだろうが、旧城は爆撃によって破壊してしまっている。
それに今は内戦直後の為、新たな城の建築を急がせてはいるが、芳しい成果は上がって来ていない。
そういう理由で、この港町の領主館を仮の執政施設として使用していた。
「ああ、やっと下水から抜け出せた」
「ルイザ、静かにしろ」
「……ダニットは優しくないわね」
即座に周囲を観察し、近辺に人がいないかを確認するダニット。
幸い周囲には人はいなかったが、泥と汚水に塗れた彼等は、その臭いで無駄に存在感を発揮していた。
「ここは……ゴミ捨て場も兼ねているのか」
「港町だから、ゴミはそのまま海に繋がる下水に捨てるのか。おかげで人目に付かずに侵入で来たな」
「環境にはよろしくないな」
「ここの海では、絶対泳がないし」
「タルハンも似たような物だろう。もっともあっちは用水路と遊泳地の区別がはっきりついているが」
区別はついているが、市街を流れる川で泳ぐ風習がある為、実のところタルハンの衛生状態もこの街と変わらなかったりする。
無論それは、アーヴィンの知る所ではない。いや、知ってはいるが気にしない。
「ともあれ、この臭いを落とさないと隠密行動は難しいぞ」
「ならそこで身体を洗おう。幸いここは厨房だ、水も洗剤も腐るほどある」
ダニットは手漕ぎポンプの設置された洗い場を指差す。
そこは大量の野菜をまとめて洗うため、桶まで設置された洗い場になっていた。
「いいけど、こっちは見ないでよね?」
「今更か?」
「私はともかく、若い子もいるんだから!」
今ではすっかりおとなしくなってしまっているが、ローザも一緒にいる。
彼女も成長し、女性らしい体つきになっているため、男の目は忍ばなくてはならない。
「ん、身体を洗うのか? 少し待て」
そんなやり取りをするルイザとダニットを置いて、ガイエルがローザに手を伸ばした。
ローザを真っ先に選んだのは、単に一番近い位置にいたからである。
彼女の肩に手を置く数秒、バシャリという音を立てて、身体に纏わり付いていた汚水が足元に落ちた。
「なっ!? なんだ、その……魔法?」
「まさか、【洗体】の魔法? そんなの物語の中でしか見た事ないわよ」
身体を洗う魔法というのは、簡単なようでいて、実は難しい。
水を出すだけならばともかく、洗うという行為を魔法に込める事が難易度を上げている。
一般的には存在しない魔法であり、子供の読む物語の中だけに存在する空想として認識されていた。
そんな魔法をガイエルはあっさりと使用して見せる。
「いや、違うが?」
「違うの? でも、どこが……」
「ただ単に、汚水の位置を足元に移動させただけだ。これも転移魔法のちょっとした応用だな」
「いや、それ滅茶苦茶すごい事なんですが?」
ユミルですら一目置く便利ドラゴンの面目躍如である。
ガイエルはそれから全員にその魔法をかけ、汚水を床に落としてから洗い場で下水に流した。これで彼等の放っていた異臭は、元からきれいさっぱりと絶たれた事になる。
「身体を洗うより手っ取り早く済んだな。感謝する」
「なに、協力者だからな。我にできる事なら、何でも協力しようとも。ユミルに貸しを作っておくのだ」
「うわ、下心隠さねぇな、オッサン」
「オッサンいうな」
そう言いながらもダニットは厨房の鍵を内側から開けて廊下に躍り出る。
三十を超えた彼の技量は熟練の域に達していた。
それを見て、ガイエルも感嘆の言葉を漏らす。
「我はそういう細かい作業が苦手でな。見事な物だ」
「お褒めに預かり、恐悦至極――っと」
二階への階段を捜している最中、廊下の角の向こうに見張りの兵士が立っているのが見つけた。
運よく、彼等の声を聞きつけた様子はない。ダニットは口元に指を当て、静かにするようにジェスチャーを送った。
アーヴィンも、そしてローザですら滑るような動きでダニットの元へ駆けつけ、廊下の角からその様子を覗き見る。
「どうする? 排除するか?」
「いや、戦闘音を聞きつけられると不味いな――どうしたものか」
アーヴィンとダニットが見張りを無力化させる計画を相談し始める。
二階にいるケンネル王拉致の為には、ここはできるだけ静かにことを運びたい。
「ルイザ、【眠り】の魔法を――」
「音を立てずに無力化すればいいのだな?」
「なにか手があるのか?」
「まかせろ」
ガイエルは一声かけると、唐突にその姿を消す。そして一瞬後には見張りの背後に移動していた。
音もなく転移したため、彼が背後に回った事に見張りは気付いていない。
そしてその背に軽く触れた瞬間、見張りの姿が掻き消えた。
「ほれ、この通り」
「一体どうやったんだよ? 見張りはどこへ行った?」
「なに、少しばかり我の住処に送らせてもらった。そろそろ新しい弟子も欲しかったところだし」
「いや、弟子を拉致るなよ……」
とは言え、迅速かつ静粛に見張りを排除できたのは大きい。
この調子ならば、スムーズに国王の拉致を終える事ができるだろう。
「時間はどれくらい残っている?」
「ええっと……確かケンネルとタルハンは大陸の反対側だから、時差で……マズイ、もう時間が無いぞ」
大陸の反対側にあるタルハンとケンネル王国の間では、大きな時差が存在する。
およそ四時間にも及ぶその時差はつまり、タルハン側では日が昇り始めていることを意味していた。
「戦闘が始まるまでに拉致して、停戦命令を出させないと……」
「急がないといけないわね」
アーヴィンとルイザの言葉に、ダニットは小さく頷き、先にある階段を上っていく。
この強力な助っ人の力があれば、それほど時間をかけずに完了する事ができるだろう。
だが現状、ケンネル側に先手を取られている事には違いない。一刻も早く、その差を埋める必要がある。
彼等は音もなく階段を上り、国王の寝室を目指したのだった。
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早朝、ドルーズ領でケンネルが直轄する港から十六隻の軍艦を送り出した新領主のアチソンは、忌々し気に舌打ちしてのけた。
朝靄の中小さく消えていく船団は、おそらくタルハンを陥とす事に成功するだろう。そう確信しているからこその舌打ちである。
「またあの男に功を立てられる訳か。平民風情に、こうも立て続けに出し抜かれるとはな」
内戦の勝利、ドルーズ共和国陥落、ラドタルト攻略。
この三年でタモンが立てた戦功は、他に類を見ない。
そもそもにして、この大陸で侵略戦争を成功させる事自体、ほとんどなかった事だ。
それを三年で立て続けに成し遂げた彼の功績は、大陸史上でも並び立つ者がいないと言えるほどに高い。
だがそれだけに、彼に対する風当たりも、また強くなっている。
現在の国王が王太子だった時代からの側近であり、王位簒奪の主力でもあった彼をやっかむ声は少なくなかった。
アチソンもまた、そういう人材の一人である。
「陛下の命だからこそ、数少ない軍艦を差し出し、揚陸部隊を貸し与えてはやったが……苛立たしい事この上ないな」
床を蹴りつけ、港から去ろうとするアチソンに、側近の一人が口添えする。
商人上がりの、やたら鋭い目をした男で、この一か月の間でドルーズの平定に尽力してくれた存在でもある。
土地の物特有の気配りを発揮し、物資と人の流れを管理し、瞬く間にアチソンの信頼を勝ち得た男だった。
「ならば閣下、我々も参戦すればいかがでしょう?」
「参戦? 馬鹿な事を言うな。貸し出した船だけで精一杯だ。このドルーズの治安を維持するのに、どれだけの兵力がかかると思っている」
「無論それは承知しております。ですがよくお考え下さい。海流はこの港からタルハンへ向かって流れております。状況はほぼ同じですが、タモン提督に追いつく事も不可能ではありますまい」
「ふん……だが戦力はどうする? 我等では奴の足元にも及ばんぞ」
なけなしの戦力をタモンに貸し出した以上、この街を維持するだけでギリギリの戦力しか残っていない。
もしこの状況からモリアスが南下してきたらと考えるだけで、彼の背には冷や汗が流れ落ちる。
「正直我等では戦功をあげる事は難しいでしょう。ですが、タルハンは強敵です。それを利用するというのはいかがかと?」
「利用する?」
「はい。あの街にはユミル村とのつながりが強い。彼の村には大陸最強と名高い剣士ユミルが常駐しております」
「最近は王都キルマルに居ついているという話だがな」
「他にもかつて威名を馳せた戦士レグル・タルハン、俊英アーヴィンにヤージュ・ナガン。東側有数の剣士が駐留している街です。あのタモンは海戦は得手ですが、揚陸戦となれば話は違うでしょう」
「ふむ……」
部下が言っているのはつまり、海戦で勝利した後、手間取るであろう揚陸戦に乱入し、功を攫えと言っているのだ。
本来ならば、騎士として有るまじき行為ではある。
だが戦功の偏ったケンネルで、これ以上の功の独占は阻止せねばならない。
「あまり褒められた手ではないな。だが……」
様々な欲がアチソンの心を駆け巡る。そこに少なくない嫉妬心も混ざり、彼は決断した。
「いいだろう。この際背に腹は代えられん。モリアスの動きが気になる所ではあるが、これ以上奴の独断を許す訳にはいかん」
「閣下ならば、そう判断していただけると思っておりましたとも」
「よし、貴様の案を採用する。兵を集め、船に載せろ! 私もタルハン攻略に出るぞ!」
「ハッ、ただちに!」
敬礼を返し、つかつかとその場を立ち去る側近――キース。
彼はそのまま事細かに指令を下し、瞬く間に出港の準備を整える。
そして人目につかない場所に移動すると、伝令用の魔道具を取り出し、声を潜めて報告を行った。
「こちらキースです。アチソンは上手く引っ張り出しました。ラドタルトも、ドルーズの首都も、防衛戦力はほぼ皆無になるでしょう」
その声に応えるかのように、魔道具から男の声が返ってくる。
「ご苦労様です、キースさん。あなたが『偶然』ドルーズに居てくれて助かりました」
「いえ、ユミルさんの指示でしたし。それに私としても、タルハン侵攻は他人事じゃありませんからね。それにしてもいいんですか。この策だとユミルさんの負担が増えるのでは?」
「構いませんよ、兵士を載せて後を追う。それだけでどれくらいの時間がかかるか、推して知るべしです。それを計算できないアチソンが悪い」
「軽く数時間は遅れるでしょうね。となるとタルハン沖の海戦は……」
「おそらく終了している。ユミルさんが勝利すれば、タルハンは落とせず、ドルーズは解放済み。アチソンに帰る場所は無くなるでしょう」
「悪賢くなったものです。昔はもっと素直でバカだったのに」
「バカはひどいですよ!」
まだ若い男の声が憤慨した返事を返す。
しかし、キースの知る彼は、こういった暗躍を得意とする性格ではなかった。この成長もここ数年で見られるようになった事だ。
「では、また連絡します。カロン君」
「はい、何か異変が有ったら、よろしくお願いします」
ラドタルトの難民を保護している最中、そこにキースの姿を見付けたのは、カロンにとって僥倖だった。
ユミルの指示で難民を装い内情を探るべく、ケンネル軍に接近していた彼を裏から支援し、上手く駐留部隊の側近に採用させる。
そして即座に連絡用のアイテムを持たせ、内偵として首都に送り込む。そんな危険な真似を引き受ける商人が他にいただろうか?
彼と相棒のボリスという危険な商売を好む商人がいて、初めて成り立つ計画である。
こうしてラドタルトからケンネルの戦力は誘い出され、モリアスの逆襲が始まった。
ガイエル無双。超無双。