第二百四十七話 南の策略
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モリアス領主館執務室。
そこでこの地の領主、リビ・モリアス=エルデンは溜まった書類仕事を片付けていた。
ドルーズ共和国がケンネル王国に制圧された事により、市民を安全圏に避難させた事。モリアスの街を要塞化させることによる軍備管理。
それに伴う軍関係の商人の管理と商品の流通。
更には南方の監視網と沿岸部の監視網の拡充。彼が処理しないといけない仕事は山のようにある。
沈着冷静で切れのあった眼差しは落ちくぼみ、目の下には濃いクマが浮き出ている。
頬もげっそりと窶れ、彼の疲労の濃さを物語っていた。
それでもサラサラと書類を処理する手は止まらない。止める訳にはいかなかった。
「……ふぅ、これで避難民の補償の書類は終了か。あとは……」
机の上に山になった書類を見て、軽く溜息を漏らす。そこには未決済の書類の山が、まだ三つは残っていた。
「勘弁してくれ……と、言えない所がツライな」
奔放だった冒険者時代を思い出し、思わず逃げ出したい衝動に駆られはするが、今彼が逃げ出してしまうと、キルミーラ王国南方の防備がザルになってしまう。
平時であれば、ロゥブディアのような愚物でも政治は回っていたが、残念ながら今は戦時である。
彼がいなくなると、数千人というこの街の兵士達や冒険者が迷惑を被る。それどころか命すら落としかねない。
その中には、彼の仲間の姿もあった。
一息入れるべく、用意されていた水差しからグラスに生ぬるい水を注いだところで、執務室のドアがノックされた。
「入っていいぞ」
「失礼します」
簡潔に、儀礼的な礼を述べてドアを開いたのは、その仲間であるカロンだ。
彼は手に書類の束を持って来ていた。
「やれやれ、追加か」
「申し訳ありませんね。こちらで処理できる物はしているのですが、どうしても領主のサインが必要な物も多くて」
「いや、投げ出すよりはいい。そっちの山に積んでおいてくれ」
「はい。それと……」
空気が読めない事で有名だったカロンが、珍しく口籠る。
何か思案しつつ、それが形にならないかの様なもどかしさを、リビは感じ取った。
「他になにかあるのか?」
「え、わかりますか?」
「何年の付き合いだと思っている。お前の面倒を見て、もう十年以上経っているんだぞ」
「うわぁ、もうそんなになっちゃってるんですね」
十年以上の付き合いと聞いて、軽く衝撃を受けるカロン。
当時のリーダーであったヤージュはすでに引退し、現在はタルハンでリビと同じような責め苦にあっている。
斥候職についていたアドリアンも、この街の守備隊長としてリビについてきている。
「それで、なにを考えている?」
「ええ。実はこのタイミング……チャンスなんじゃないかと思いまして」
「チャンス?」
カロンは執務机の上に、部屋に用意されていた大陸地図を広げる。
そして西方の一点。ケンネル王国を指差した。
「ドルーズ王国を制圧したことからも、即位したばかりの新しいケンネル王は領土拡張志向を持っている事がわかりますよね?」
「そうだな。だからこそタルハンにも攻め込んでいる」
モリアスの東にある沖合を、ケンネルの船団が通過したのは数日前。
すでにタルハンには連絡を飛ばしており、あと数日のうちにタルハン沖合に到着し、戦端が開かれるだろう。
「ですが考えてください。船団の数は報告によると十二。敵にはユミルさん並みの化け物がいるそうですが、それでも一人だけです。この戦力ではキルミーラ王国はおろか、タルハン制圧後の防衛戦力すら維持できない」
「それは……そうだな」
通過した船団は大小合わせて十二隻。
しかも半数を占める軍用艦には、あまり兵を載せられない。どれだけ詰め込んでも、派遣された兵士は千を超えるかどうかだと、リビは推測した。
タルハンはキルミーラ王国において首都キルマル、南都モリアスに次ぐ大都市であり、要衝でもある。
それなりに人口は多く、また駆け出し冒険者の良い訓練場としての迷宮も存在する。
つまりタルハンは、予想以上に兵力があり、また冒険者の支援も多い街だ。
そこを制圧し、維持するにはそれこそ万の兵力が必要になるだろう。
「それなのにこの小戦力。おそらくタルハンを占拠する意思はない、とボクは見ています」
「占拠する意思がないとすると……目的は迷宮核、か」
「それとマルティネスの身柄、でしょうね。タモンという男はこのマルティネスに執着しているそうですから」
「精鋭戦力でタルハンを強襲し、迷宮核とマルティネスを強奪して撤収するつもりか」
カロンの言いたい事を察し、リビは彼の成長に感心する。視野が狭く、集中力を欠き、迷惑ばかり周囲に振り撒いていた昔とは大きく違う。
「それで、ですね。これチャンスじゃないですか?」
「だから、なにが?」
「ケンネルは拡張志向を持っています。それなのにタルハンに派兵する戦力が少ない。これはケンネルの内部戦力がすでに限界に達しているという証明では?」
カロンの指摘に、リビは再び思考を開始した。
確かにケンネルの戦力はそれほど大きなものではなかった。三年前までは積極的に軍備に力を入れていたが、それも内戦で大きく削ぎ落とされている。
さらに組合の制裁も加わり、保有する国力は大陸四ヵ国の中で最弱と呼んでいい所まで衰退していた。
現国王がどうにか遣り繰りし、そこへタモンという戦力を利用してドルーズ共和国を制圧したはいいが、それ以上手を広げる余裕がないという事態は、充分にあり得る話だ。
「タルハン攻略がなったとしても、この戦力では維持できない。つまりキルミーラ王国を下手に刺激するだけで、あまり実入りは大きくないんです」
「迷宮核を持っていかれる事は、大きな損失ではないか?」
「まぁ、そうですけどね。でも迷宮核は即座に大迷宮を作る訳じゃないですし」
迷宮核は数層の小さな迷宮なら比較的すぐに作り上げる。
しかし十層を超える迷宮となると非常にゆっくりとした速度でしか成長しない。
ユミル村の迷宮が百層に届こうかという勢いで成長しているのは、例外中の例外で、実際は人の出入りが多いタルハンですら十六層止まりなのだ。
経済圏に影響を及ぼすほど大きな迷宮に育つには、それこそ十年を超える歳月が必要になるだろう。
「それに、キルミーラ王国を敵に回す以上、タルハンの重要性はさらに増します。ここを押さえれば、流通経路が南北に遮断されますから」
「では小数を派遣したのは他の目論見がある可能性は?」
「それを考えていたんですよ。なにかありますか?」
カロンに逆に問われ、リビは再び地図に目を落とした。
特に大陸東方を注視する。
「一つ。我々がそう考えると想定して、モリアスの戦力を釣り出す作戦という可能性」
「無いんじゃないですか? タルハンさえ押さえておけば、モリアスは自由に料理できる地形ですし」
「だな。北との連絡を絶たれたら、モリアスは孤立してしまう。周囲を包囲されては、あとは衰退していくしかない」
続いてリビは南方に指を移し、北へとなぞる。
「二つ。すでに南方から別動隊が進発していて、モリアスをすり抜けタルハンへ向かっている」
「僕、結構南の監視網は自信作なんですけど」
「俺も自信を持ってるよ。だからこれも無いな」
ロゥブディア失脚後、リビは南方と沿岸部の監視網を拡充している。
その命令も、発せられてまだ三年しか経っていない。システムが腐敗するには、少しばかり早すぎる。
タルハンを維持できるほどの軍隊が、モリアスの目を抜けて北上するのは不可能だろう。
次にリビは大陸西方に指を向けた。
「三つ。ケンネル本国から別動隊が出ていて、草原を横断してタルハンへ向かっている」
「無理ですよ。ユミル村という中継点があって、初めて横断は可能になるんです。少数ならともかく、軍隊が横断するのは難しいです」
「それにあの村はドラゴンともかかわりがあるからな。ケンネルもそれを知っているだろうし、再び手を出すとは考えにくいか」
かつてキシンの侵略に際し、村を樹木で覆うという方法で防御に出た。
その後始末をするためドラゴン達が飛来し、周辺を焼け野原にした場面を、彼等は直接目にしている。
「となると……援軍は無いと考えるべきか?」
「むしろ出されると、ユミルさん達がピンチです」
「……なるほど、だから攻めると?」
ここでリビはカロンの真の目的に気付く。
彼がユミルを神と崇めている事は、周知の事実だ。彼女の戦闘力を信じ切っていると言っていい。
その彼女のいる場所へ軍隊が攻め上がっている。しかし、現状の戦力ならば対応も可能だろうが、それ以上の援軍が追加されれれば、さすがに戦線の維持は危ういと言うことくらいはわかる。
そこでモリアス軍が南下し、ドルーズに駐留している戦力を南方戦線に張り付けておく。それが狙いだと、リビは読んだ。
図星を突かれて、カロンは露骨に視線を逸らす。
しかし、リビにはそれが悪い考えとは思えなかった。
確かにタルハンに増援が向かえば危機になるだろう。その推測が事実そうならば、逆にドルーズの戦力は極端に手薄になっている事になる。
ラドタルトを始め、ドルーズ領内を解放する難易度は、極端に下がっているとみていい。
逆にそれが見当違いで領内の守りを固めていた場合、こちらの戦況は悪くなるがユミル達の状況が悪化する事は無い。
タモンという異能者を倒さない限り、キルミーラ王国も存続が危うくなるのだ。
ユミルがタモン攻略に専念できるのならば、充分に南進する価値がある。
「問題は、ケンネル本国から追加の増援がドルーズに送られた場合だな……」
「それも、深く考える事は無いんじゃないですかね?」
「なぜだ?」
モリアスはキルミーラ南方の大領主である。そこに常駐している戦力も、それなりに多い。
しかし、しょせん一地方領主の戦力に過ぎない。ケンネル王国の国単位の戦力に比べれば、あまりにも物足りない。
もし援軍がドルーズに送られれば、モリアスだけで領内の解放は不可能だろう。
それをカロンは事も無げに投げ捨てて見せる。
「だって、しょせんは他国の事ですから? 無理に解放する必要も無いんです。要はユミルさんがタモンを楽に討伐できるようになればいいだけで」
「つまり――」
「――イヤガラセ、ですね」
タモンさえ討伐してしまえば、ケンネル王国の戦力はそれほど大きなものではない。
モリアス一国では相手取る事は不可能だが、キルミーラ王国が全軍上げてドルーズ解放に乗り出せば、充分に追い払える範疇である。
しかもキルミーラ王国は冒険者が非常に多く存在し、その協力も仰げる。
更にドルーズ領内においても、ドルーズ共和国の残党が存在しているため、総力戦になればケンネル王国に勝ち目はない。
ケンネル王国の戦線を維持しているのは、タモンという驚異の存在がいてこそだ。
ユミルがこれを討つ事ができれば、その支配は瓦解すると言っていい。
そのために、余計な戦力をタモンの元に送らせない戦略。それをカロンは主張している。
その意図を察して、リビはニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
「これだけの書類仕事を押し付けてきた相手だ。俺も意趣返しに出たい気持ちは多少なりとも存在する。しかも戦況を左右できるイヤガラセとなれば、乗らない訳にはいかないな」
「では、リビさんもこの計画に賛成という事ですね?」
「無論、一口乗らせてもらおうか」
こうしてモリアス軍は出陣の用意を急速に整え、数日後には出発する事になる。
あまりにも早い出陣だったが、事がタルハン決戦よりも遅れてはならないため、リビはかなり無理をする事になった。
もはやレイスのような表情で指揮を執る彼を、兵士たちは恐ろし気に見やったという話だ。
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