第二百三十二話 まずはお試し十日間
屋敷の庭の隅に新たな居候を迎えたボク達だが、それでアリューシャのダイエットが完成した訳ではない。
むしろここからが本番である。
「まず覚えておいてもらわないといけないのは、これはあくまで補助薬品なのだから、日頃の心掛けが大事って事よ」
「はい!」
アリューシャは羽ペンでノートを取りながら、拳をぎゅっと握りしめた。
それはもう力強く握りしめたので、羽ペンが折れた。ボクは用意しておいた次のペンをアリューシャに差し出す。
「はい、次のペン」
「ゴメンね、ユミルお姉ちゃん」
彼女が力んで何かを壊すのは結構よくある事なので、慣れたものである。
ルイザさんの説明を聞き、種の加工法を学ぶ。と言っても、潰して、煮込んで、濃縮してポーションにするだけだ。
その工程自体は難しい物じゃない。
「加工のための薬研設備はセンリさんの残して行ったモノを使えば、問題ないね」
「あ、あるんだ? じゃあ早速作りましょうか」
薬品加工はセンリさんもやっていた。いま彼女はユミル村で連絡係として定住してもらっている。
なのでこの屋敷には、未使用の薬研設備が放置されている。それを使えば、完成させることは容易いだろう。
設備を屋敷の空き部屋に運び出し、調合場所を作り出す。いかにルイザさんと言えども、センリさんの部屋を見せる訳には行かない。
機密的な意味でも、衛生的な意味でも。あそこは今、混沌の海に沈んでいるのだ。
スライムロードになったスラちゃんの手伝いもあって、道具の移動はスムーズに済ます事ができた。
他にも必要な薬剤を運搬し、ようやくルイザさんの痩身剤調合が開始される事になった。
「まずはお店で売ってる錬金術用の保護液に漬けたまま、マンドラゴラの種を擂り潰すの。こうすれば成分を逃がす事なく粉末状にする事ができるわ」
「ふむふむ」
「でも保護液に漬かったままだからペースト状になるのよね。これをこっちの精製水に混ぜ込んで薄めて、保護液の成分を漉しとる」
「ほうほう」
「で、残りをこっちに移して後は焦がさないようにひたすら煮込む」
「ゲホゲホ」
煮詰めたマンドラゴラの種は凄まじい悪臭を発し始めていた。
しいて言えば、魚の腐った臭いと言うか、そういうジャンルの生臭さだ。
種を粉末状にするという話だったので、風が吹き込まないように、この空き部屋の窓は締め切ったままだった。
お陰で臭いが外に逃げず、目に染みる様な生臭さに、ボクとアリューシャがのたうち回る羽目になってしまった。
「ユミルお姉ちゃん、くさーい」
「ちょっと待って、アリューシャ。その言い方だとボクが臭うみたいじゃない?」
「ユミルお姉ちゃんはいい匂いだけど、この臭いはダメー」
アリューシャは鼻を押さえながら、涙目になってそう主張した。
それでもこの部屋から逃げ出していかないのは、この作業が自分のための物だと理解しているからだ。
ルイザさんがというと、ちゃっかり自分用の鼻クリップを用意して鼻を塞いでいた。
「ず、ズルい……」
「あら、これくらいの準備は薬剤調合するなら基本よ?」
「ユミルお姉ちゃん、わたしもあれ欲しい」
「ボクも欲しい。でもあんなアイテムはボク持ってないよ」
ミッドガルズ・オンラインには様々なデコレートアイテムが存在した。
だがそれは身体を飾るための物で、鼻クリップのような実用重視のアイテムは存在しなかったのだ。
「あ、そうだ。これならあるよ?」
そう言ってボクが取り出したのは、トナカイの鼻を模した装飾用アイテムだ。
これはクリスマス限定装備として製造できるもので、アイテムを集める事で入手できるものだ。
ネタ装備として倉庫に保存していたので、みんなで付けて遊んだりするのに使っていた。
なんの効果もない装飾品から、臭いを防ぐため程ではないが、鼻全体を包み込む装備の為、臭いを防ぐ助けにはなるだろう。
アリューシャはそれを受け取り、トナカイ鼻アリューシャに変身した。
カワイイ――ずるい。
だが現状、ボクも臭いにグロッキーである。そこでボクも顔装備のアイテムを取り出して装着した。
これはガス系の地形効果を無効にする装備――その名もそのまま、ガスマスクである。
「あー、ユミルお姉ちゃん、ズルい! わたしもそれがいい!」
「ダメ、可愛くないでしょ?」
「じゃあ、ユミルお姉ちゃんがこれ着けて。お姉ちゃんなら可愛いよ?」
「うっ、しかしいくらアリューシャの頼みとは言え、この悪臭……」
「……だめ?」
「のーぷろぶれむ!」
上目遣いのアリューシャのお願いに、ボクはあっさりと屈服してしまった。
そもそも勝ち目などない戦いだったのだ。
「うう……予想以上に……防いでくれない」
「わー、全然臭わない!」
「うう、喜んでくれてうれしいけど、ツライ……くさいじゃなくて、もう痛い……」
生臭さが嘔吐感を刺激し、しかも目に突き刺さるような刺激を感じる。
これは既に毒じゃないだろうか?
「なにコントしてるのよ、あなた達は……ほら、できたわよ」
しばらく悶えていると、ルイザさんがゴポゴポと泡立つ紫色のヘドロ状の液体をボクの鼻先に差し出してきた。
鼻腔の奥にヤバい香りを押し付けられ、ボクはそのまま床に倒れのたうち回る。
「こ、殺す気ですか!?」
「そこまで嫌がるほどかしら?」
「ルイザさんは鼻を塞いでるからいいですけど、ボクは布で覆っただけなんですよ!」
「ユミルお姉ちゃん、パンツ見えてる」
床を転がった影響で、スカートが捲れ上がっていた。この場に男性がいないことに感謝しよう。
なおアーヴィンさんは現在酒場で一杯ひっかけている。後でいじめてやろう。
「後はこれを食前に一匙、お茶に混ぜて飲むだけよ」
「それ、口にして大丈夫な物質なんですか?」
「失敬ね。ちゃんと三百年以上前に記載された魔法薬の一種なんだから、効果は抜群よ」
とか言って、ルイザさんが試した事が無いのを、ボクは知っている。
彼女は冒険者としては華奢なので、冒険を続けているだけで自動的にダイエットになるのだ。
「そもそも三百年も前なんて信用できるんですか?」
「なに言ってるのよ。初等学園の校長先生ならまだ現役の頃よ?」
「うぐっ」
そうだ、この世界は元の世界とは大きく違う。
その最大の違いは、バカげて長命な種族が、我が物顔でのさばっている事である。
具体的に言うとプラチナさんとかガイエルさんである。
「そう言えばドワーフのアルドさんも、実は若手だったって話でしたね」
ユミル村の大工アルドさんも、ドワーフの中ではまだ若い方だったのだ。
それくらい、長い寿命によって個人の技量を発達させやすい。
だがそれが逆に文明の発展を阻害しているとも言える。もはや超人染みた技量を持つ職人が、普通に存在する世界なのだから。
「それじゃ、私はここで帰らせてもらうわね。臭いの被害を受けないとは言っても、すでに服に染みついちゃってて……早くお風呂に入りたいわ」
「それなら屋敷のお風呂を使うといいですよ。アリューシャ、お湯お願いね」
「まかせてー」
この屋敷のお風呂は使用人の事も考えて、十人は一緒に入れるほどに広い。
だがその分、お湯を沸かすとなると長い時間と燃料が必要になってしまう。
それを一気に解決してしまうのが、アリューシャの攻撃魔法である。
得意技の、『死ぬまで【ファイアボルト】』によって瞬時に水を沸騰させる事ができるのだ。
こうしてルイザさんがボク達に一か月分の痩身薬を残して、屋敷を去っていったのだった。
そんな事件――もとい、実験……ではなく、調合を終えて十日が過ぎた。
ボクはアリューシャのスタイルを測るべく、メジャーを取って彼女に対峙している。
彼女はブラウスをたくし上げて、その眩しいおへそを露出していた。
これは彼女が露出プレイに目覚めたからでは決してない。
「それじゃ行くよー」
「う、うん」
いつもは天真爛漫なアリューシャも、ここでは緊張の面持ちを隠せない。
あれから毎日、三食を食べる前にあの毒――もとい、薬を飲用していた。
奇妙な事に、あれほど激烈な臭いを発していたにもかかわらず、お茶に混ぜるとその匂いは一瞬にして消え失せ、味も酸味の利いたアップルティーみたいな味になるのだ。
この味はボクも癖になって、ご相伴に預かっている。
その材料であるマンドラゴラの若種は、庭の隅のマンドラゴラが毎朝一粒ずつボク達に提供してくれていた。
鶏のような奴である。
これを組合に卸すと、女性職員や冒険者から争奪戦が起きるほどの勢いで売れていった。具体的に言うとエミリーさん(アラサー&独身)に、である。
「十日前のアリューシャのウェストがろく――」
「言っちゃダメェ!」
「なんでさ。もう数字知ってるのに」
「それでも口に出されるのは嫌なの!」
「まぁいいけど」
むしろ胸の大きさからすれば平均程度ではないかと思うのだが、アリューシャは六十の大台を決して認めようとはしなかった。
まぁ、彼女に目覚めた乙女の感性だ。この芽を摘んでしまうのはもったいない。
ボクはムニムニツヤツヤのお腹に巻き尺を回し、アリューシャのウェストを計測した。
へその下あたりで巻き尺を交差して、その数値を読み取る。
十日前はムニムニだったお腹が、明らかに引き締まってプニプニに戻っていた。
「おお、なんと……」
「ど、どう?」
「うん、五十六センチ」
「やったぁ!」
「わわっ、まだ巻き尺を巻いたままなんだから飛び跳ねちゃダメ」
「あ、ごめんなさーい」
紐状の巻き尺が絡んだまま飛び跳ねると転倒してしまうかもしれない。
「でも、このまま飲み続けて行ったらもっと痩せれるよね」
「適当な所で切り上げないと、骨と皮みたいになっちゃうよ?」
「うう、それはヤダ」
それにしても飲用十日間で、これほどの効果……まさに魔法薬の威力は鬼のごとくである。
組合の女性職員たちが、先を争って奪い合ったのも理解できる。
とりあえず、アリューシャのスタイル問題が解決したところで、ボク達は当面の問題を片付けねばならなかった。
つまり、登校である。
「ほら、アリューシャ。早くしないと学校に遅れちゃうよ」
「あ、はぁい。でもわたしよりユミルお姉ちゃんの方が遅刻が多いんだから」
「それは言わないで!」
ボクはこの一帯の生徒達の監督でもあるのだ。
無論、それは正式に任命された事ではないので、自主的に行っているだけだ。例え自身が遅刻したとしても、生徒を遅刻させる訳には行かないのだ。
義務感というモノがボクを突き動かすのである。実は意外と、先生適性が高かったのかもしれない。
アリューシャにお弁当を持たせ、スレイプニールに乗せて送り出す。
体重が減ったからか、騎乗する動きも実に軽やかだ。白いパンツが見えるくらい足を広げてウララに跨っている。
「だから、もうアリューシャはお姉ちゃんなんだから、おしとやかに横乗りで乗りなさい」
「いくらユミルお姉ちゃんのお願いでも、それはお断りー」
ウララに乗って駆けまわるのは、アリューシャの幼い頃からの日常である。
その爽快感は、一朝一夕には修正できない癖として残っているのだ。そしてアリューシャも、これを直すつもりはさらさらないらしい。
颯爽と街へ駆け出していくアリューシャを見送った後、恒例の目覚ましコールを近所にばら撒きまくる。
テマ達やエルドレット兄弟、カルバートが慌てて学校へ駆け出していくのを見届けてから、ボクも出勤の準備を行った。
「……おや?」
そこで自身の異変にようやく気付いたのである。
いつも着ている女教師用スーツ。その胸元が……心許ない。
正確に言えば、スカスカなのである。
「あれ? なんで?」
確かにボクも、アリューシャと一緒に痩身薬を口にしていた。
だが、物理法則から隔絶されたボクが、痩せるはずが……あ、そう言えばこの薬、魔法の一種だったんだ。
「つまり、ボクも痩せちゃったって事……かな?」
さらにスカスカになった胸元を、悲しい気持ちでパンパンと叩く。
それから腰回りを確認して……愕然とした。
「ウェストは、変わっていない……だと!?」
そう言えばどこかで聞いた事がある。
急激なダイエットはまず、胸から痩せていくのだと。
つまりボクは、魔法の効果で胸を削られてしまったのだ。
「な、なんですとおぉぉぉぉぉぉぉおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」
その日、王都キルマルでかつてないほど悲哀にあふれた悲鳴が、街中に轟いたという。