第二百二十四話 デストラップ
トム=ケッペルは優秀な子供だった。
キルミーラ王国北方の果てにある領主の息子として生まれ、厳格な父からしっかりとした教育を受けて育ってきたから、それも納得ではある。
お調子者だが素直な性格が幸いし、順調に知識を蓄え、また恵まれた体躯と強靭な腕力は剣の修行においても、優秀な成果を残していたのだ。
そんな彼が初めて挫折したのは、三年前だ。
彼の住まう領地にドラゴンが飛来すると言う事件が起きた。
これを受け、領主である彼の父は各地に厳戒態勢を敷いて迎撃に当たった。
幸い、程なくして行き摺りの竜殺しの冒険者によって討伐されたのだが、被害は直接的なモノに留まらなかったのである。
まず警戒のため、行商人などが領地に訪れなくなってしまった。
結果、物資の流通が滞り、経済活動ががくりと落ち込んでしまったのである。
さらに農民や放牧民が家畜を連れて領内から逃亡する事件が頻発し、税収まで落ち込んでしまった。
本来ならば、討伐されたドラゴンの死骸が素材として売れるため、それらの問題に対応できるはずだったのだが、今回に限っては死骸すら残さず焼き尽くされてしまったので、その収入すらなかったのである。
結果、彼の領地は緊縮財政を行う事になり、トムは高等学園への進学が遅れる羽目になったのだ。
そして学園に入っても、彼の挫折は止まらなかった。
優秀な成績を残し騎士科に進学したトムだが、そこには彼より優秀な生徒が存在したのである。
まずは騎士科最優秀の成績を残したジョッシュ。次席のテマ、そしてカルバートの三人だ。
それでも本来明るい性格のトムは、心が折れる事無く勉学に励み、実戦に裏打ちされたユミルの教えの元、メキメキと実力を増していく。
だがそれは同時に、ジョッシュ達も成長していると言う事でもあった。
足掻いても足掻いても届かぬ高み、それを連日見せつけられ、気付かぬままストレスを溜め込んでいく。
そんな中でタルハンの迷宮実習の話が降って沸いたのだ。
実力を増している実感を持つ生徒達は、こぞってこれに参加を申し込んだ。
自らの力がどこまで伸びたのか試してみたい。そう思う生徒はトムだけではなかったのだ。
事実、三日の実習の間で、トムはまた一段とその実力を増していた。だがそれは、あくまで教員の監視の元での、安全な冒険だったのだ。
『自力で迷宮に潜り、クラスメイトや家族に自慢したい』
そんな欲望が彼に目覚めたとしても、責められないだろう。
トムは自分と同じような願望を持つ三人を選び出し、声を掛けて、その小さな冒険を実行に移した。
もちろんユミルに迷惑が掛かる事は自覚していたが、無事に戻ってくればそう大きな叱責は受けないと判断したのだ。
「ここまでどれくらい掛かってる?」
迷宮への階段を降りながら、トムは他の三人に聞いてみた。
「時間にして三十分ってところかしら? 晩餐会の間に帰れるわよね?」
「ああ、あの規模だと二時間はドンチャン騒ぎしてるだろ。往復に一時間使ったとしても中で一時間は戦える」
「敵と一、二戦するくらいの時間はあるな」
キーリ、ナッシュ、ダントンが相次いで彼の疑問に答えてくる。
時間を掛け過ぎて、抜け出した事がバレると連れ戻されるかもしれない。それが今の彼等の一番の不安なのだ。
特に騎士科の担任でもあるユミルの理不尽なまでの戦闘能力は、毎日のように目にしている。
あれが超一流と呼ばれるレベルの冒険者なのかと思うと、憧れと同時に畏怖すら沸いてくるのだ。
「よし。それじゃ、サクサク行くぞ! 目標は三回戦闘する事!」
「お、大きく出たな」
「ニ十分に一回じゃない。厳しいわよ、さすがに」
「やればできるさ」
そう言って迷宮の中を意気揚々と進み、通路の角を曲がる。
すると、先頭を進んでいたはずのトムの姿が消えていた。
「え、あれ――トム?」
「おい、冗談はよせよ……トム、姿を見せろよ! トム!?」
続いて角を曲がったダントンが、慌てて周囲を見回すが、そこにトムの姿は存在していなかった。
まるで霧のように消え去ったトムに、残された三人は戦慄を覚える。
しばらく周囲を捜索し、トムの姿が完全に消え失せていることを確信して、三人はさらに混乱した。
「うそ……まさか、『迷宮に食われて』……?」
「冗談だろ? それに迷宮が食うのは死体だけだって話じゃないか!」
「じゃあ、なぜトムは消えたのよ!」
キーリがヒステリックな声を上げる。
その声がモンスターを呼び寄せる危険があるかもしれないのに、だ。
もはや彼等に平常心は残されていなかった。
「このまま、私達も……そんなの、いやよ……いやあぁぁぁ!」
「なんにせよ、ここに残るのはマズイ……いったん外に出て救援を!」
「う、うわぁぁぁぁ!」
ナッシュがかろうじてそう提案すると、ダントンが堰を切ったように悲鳴を上げてその場から逃げ始めた。
彼は物理的な敵の攻撃ならば受け止める覚悟はあるが、未知の現象にはいささか弱かったのだ。
「待って、ダントン!」
こうして残された三人はその場から逃げ出した。
彼等の足元に、力を失った転送陣がある事には気付かなかったのだ。
迷宮の通路を曲がった場所。その先の光景が不意に変化した事で、トムは思わず足を止めた。
それまで人工的に切り取られ削られ、加工された石畳だったと言うのに、そこはまるで、天然の洞窟のような光景だったのだ。
「ここは……おい、ナッシュ。こんな場所あったか――あれ?」
振り向いて相棒のナッシュに現状を確認しようとして、そこに誰もいない事に初めて気付くトム。
彼の背後もまた、天然洞窟が続いていたのである。
いや、それどころか、先ほど彼が曲がった角すら存在しなかったのだ。
「おい、冗談はやめてくれよ……なんだよ、これ」
キョロキョロと周囲を挙動不審に見回す姿は、昼の間の自信に満ちた姿とは似ても似つかない。
「おい、誰か……ナッシュ! キーリ、ダントン!? 誰かいないか!」
迷宮で大声を出す危険。それはトムも理解していたが、状況を把握できない恐怖が彼から正常な判断力を奪っていた。
迷宮内で孤立する……それはよほどの腕利きでも避けたい、最悪の事態だからだ。
「チクショウ、なんだこれ! なんなんだよ、一体!」
子供のように取り乱し、地面を強く蹴りつけ、苛立ちをあらわにする。
その蹴りつけた足に振動が響いてきたのは、その時だった。
ズシリと重い物が地面を打ち付けるような振動。
それが断続的に、しかし定期的に伝わってくるのだ。
「まさか……足音?」
一定のリズムで刻まれる振動から、トムはそう判断して周囲を見渡し、即座に岩陰に隠れた。
ここがどこか判らない以上、やってくる何かを警戒しても損はないからだ。
それに、地響きを起こすほどの重量級の足音となれば、人でないことは確定的でもある。
「なんだよ、こんな時に……」
岩陰に身を潜め、しばらくして洞窟の奥から巨大な人影が姿を現す。
最初、トムはそれが人型である事を認識できなかった。それほどに、それは歪な人の形をしていた。
頭頂部に髪は一切なく、代わりに一本の角が天井に届くほどに延びていた。
両の手は地面に付くほど長く、そこには人間と同じくらい大きな棍棒が握られていた。
足は極端に短く、ガニ股で、そして太く逞しい筋肉に覆われていた。
そして顔面には、その半分を占めるほど大きな巨大な眼球が、爛々と凶悪な光を放っていた。
「さ、サイクロプス……」
単眼の巨人、サイクロプス。
その強さはドラゴンにも匹敵しようかと言う、強大なモンスターである。
無論、トムが勝てるような相手ではない。
「なんで、こんな場所に……いや、そもそもここってどこだよ」
少なくとも上層ではない。
このタルハンの迷宮ではサイクロプスの存在は最下層以外では確認されていない。
ならば認めねばなるまい、ここは最下層なのだ、と。
「なんで一層から最下層へ飛んじまうんだよ……そんなデストラップが普通あるかよ?」
ブツブツと口の中で悪態を吐くトム。サイクロプスを目にした恐怖で、現実逃避せねば正気を保っていられないのだ。
だがそれがいけなかったのか、黙々と歩を進めていたサイクロプスが、不意に足を止めた。
「グムムムム……」
口の中で何かを咀嚼するかのような、不快な呻きが響き渡る。
それがサイクロプスの唸り声である事に、最初気付かなかったくらいだ。
何かを探すように周囲を見渡すサイクロプス。その挙動にトムは生きた心地がしなかった。
カタカタと手足が震え、ガチガチと歯が打ち鳴らされる。その音にすら気付かれるのではないかと、苛立ちすら覚えるが、意識的に止めることなど不可能だった。
「グルルルルォォォォォォォォォ!!」
そしてサイクロプスは不意に大きく叫び、手に持った棍棒を無造作に振るった。
それは目的無く振るわれたのではなく、明らかにトムのいる岩陰を狙って振り下ろされたのだ。
「ひ、ヒィ!?」
とっさに岩陰で盾をかざしたのは、生存本能が為した偶然と言えるかもしれない。
まるで焼き菓子のごとく粉々に砕かれる岩。その破片がトムに襲い掛かるが、盾がかろうじて彼の身を守ってくれたのだ。
だが勢いまでは殺せない。
岩陰から弾き出されたトムは、大きな怪我こそ負っていなかったが、その身をサイクロプスに晒す羽目になってしまった。
「あ、ぅあぁぁぁぁ……」
呼吸すらできないほどの圧迫感に、悲鳴も上げる事ができないトム。
彼が隠れていた岩は、決して柔らかい材質の物ではなかったはずだ。
この周囲の壁は、まるで焼いて固めたかのような質感があり、その強度はおそらくそこらの岩を超える物があるはず。
そして彼の隠れていた岩もまた、同様の材質だったはずなのだ。
それなのに、無造作な一撃で粉々に粉砕されてしまっている。
もし、あの一撃が自分の身に降りかかったとしたら……例え鎧を身に纏い、盾を掲げて防御に徹したとしても、それは紙のように儚く粉砕されるに違いない。
ここにきて、トムの心は完全に折れた。
金魚のように口をパクパクと開閉させ、涙を流しながら命乞いをしようとするが、それすら声にならない。
股間には生暖かい感触が広がり、それが失禁してしまった事実を彼に伝えてくる。
逃げないといけない。戦うなど以ての外だ。だがそれを悟ってなお、彼の足腰は自身の意思に従ってくれなかった。
完全に腰が抜け、震え、闘志など欠片も残されていない。
そんなトムに、サイクロプスは無慈悲に棍棒を掲げ、とどめを刺すべく一歩踏み出す。
「あ、終わった……」
どこか無感動に、自分の死を受け入れるトム。
だがそこへ飛び込んできた小さな影が存在した。
「見ぃつけたあああぁぁぁぁぁ!」
あたかも砲弾のように振り下ろされる棍棒に突き進み、それを受け止め、あろう事か弾き返しすらした。
予想外の反撃に、たたらを踏んでよろめくサイクロプス。
その攻撃を弾き返した存在は、猫のように宙に身をひるがえして、トムの前に着地した。
そして彼の目の前に雄々しく立ち塞がり、剣をかざしてサイクロプスを威嚇する。
そこに立っていたのは、彼の担任であるユミルその人だったのである。