第二百十九話 遠征開始
あれから準備にさら二週間ほどかかった。
すでに春は通り過ぎ、初夏の気配すら感じる時期だ。
生徒達もクラスに馴染み、わりと仲良く暮らしている。
よくあるいじめなどの問題も、少なくとも目にする範囲では存在していない。それは騎士と言う、高潔であるべき職業を目指す者達の気性が見て取れた。
寝物語で公明正大の騎士物語を聞かされて育った子供達も、少なくはないのだ。
その道を目指す者がいじめなど行うはずが無かった。
また魔術師達も知識の探究者として、日々を暮らしている。
こちらも、知識の探究を目指すものが、いじめなどにかかずらっている暇はない。
それで学園を追放されたら、将来も含めて人生の終焉になってしまう。
高等学園でいじめを行い追放と言う烙印を押されてしまったら、誰がそんな魔術師を雇おうと思うのか。
そしてそこに考えが到らない様な生徒は、入学すらできないのだ。
宿泊先となる屋敷の準備に二週間。
そして生徒達に周知させ、準備させるのにも、それくらいの時間が掛かった。
さすがに参加必須の遠征にする訳には行かず、既定の連休を利用しての補習的講義として行う事になった。
希望者のみの参加となった迷宮遠征だが、特薦組騎士学科の生徒はほぼ全員が、そして魔術師学科もまたほとんど全員が参加する事になった。
ボクは当初三学年六十名程度を予想していたのに、なんと百二十名を引率する事になったのだ。
もちろん、一気にそれを行うのは不可能なので、連休の日取りを見て各学年ごとに分けて行う事になった。ボクとしては三週連続の遠征である。
「という訳で、初日の今日は一年の遠征日です。皆さん張り切っていきましょー」
早朝、校庭に集められた生徒四十名を前に、ボクはスピーチを垂れていた。
と言ってもお約束の、羽目を外し過ぎない事とか、怪我に注意する事とか、引率のボクには絶対服従である事とかの注意程度である。
そばには変装したガイエルさんが静かに佇んでいた。
なぜ彼が変装しているのかは、この後の行動を考えればわかると思う。彼はこれから四十名をタルハンへ転送させるのだ。
一応ボク個人の伝手で雇った、凄腕の魔術師と言う事になっている。転移魔法の使い手なのだから、後程組合から追及があるだろう。
その時に高等学園の理事長であることや、彼の固有魔法である事を知らせる予定だが、まさか古龍王と暴露する訳には行かない。
そこで顔を変えて追跡を不可能にしておき、お茶を濁す作戦に出たのだ。
教頭であるマニエルさんの口添えがあれば、彼が理事長である事は理解してくれるはずで、それが故に組合とて深く追求する事が難しくなる。
キルマール王国の冒険者組合にも、ここ出身者が多数存在しているからだ。
いつもの顔を晒して、いつものように酒を買いに来たら『理事長ですね!』と指摘されるような事態は、ガイエルさんも避けたがっていたという理由もある。
「ユミル先生、でも馬車がありませんよ?」
「そこはそれ。ここのオジサマが手伝ってくれる事になったのです。紹介しましょう。彼こそが、本邦初公開の高等学園理事長ガイエルさんです」
「ええーっ!?」
「あの幻の――?」
「俺、伝説を見たかもしれない……」
さすがに幽霊理事長と噂された本人の登場に、いつもは大人しく賢明な生徒達も動揺を隠せていない。
「フフフ、賢しらに振る舞っていても、しょせんは子供よのう」
「ユミルお姉ちゃん、それは悪役のセリフ」
「アリューシャも、そろそろ列に戻ってね?」
ボクの隣にはもう一人、朝早くから作業を手伝ってもらっていたアリューシャがいる。
校庭には転移用の魔法陣が用意されていて、これを描くのを手伝ってもらったのだ。
それらしく魔法陣っぽく仕上げるには、やはり賢者たるアリューシャの知識がいる。
円陣の中に様々な意味不明な文字が刻まれた転移陣は……もちろん効果などない。
「いや、日本語で『アリューシャ萌え』とか落書きされた魔法陣が起動したら、ボクだって驚くわ」
「そんな事書きこんでいたのか……いや、まぁいいけどな」
「そういうガイエルさんは何か書き込んだので?」
魔法陣を描く作業はガイエルさんにも手伝ってもらっていた。
彼もまた、円陣に理解不能な文字で何か書き込んでいたのだが……
「ん? ああ。失われた古代竜人語で『ユミルは我の嫁』と――」
「残念だがその望みは叶わない」
「まだ脈はなかったか」
当たり前である。ボクは爬虫類の嫁になる気はない。むしろアリューシャの旦那になる気満々である。
問題は旦那の座を、アリューシャも狙っている事である。
四十人を一気に転送するほど、書いた魔法陣は大きくないので二十人ずつ二回に分けて転送する事になった。
まずは魔術師学科の二十人を転送するのだが、その引率にはアリューシャが担当する事になる。
屋敷には一応センリさんもいるのだが、生徒内で統率する者がいれば、余計な面倒も起きないと思っての処置だ。
一応生徒達には、前もって屋敷には多数のモンスターがいる事は知らせてあるが、それを勝手に狩ったりしない様に監視してもらうために待機してもらっている。
スラちゃん達はスライムロードに進化しているので、そう簡単に狩られるとは思えないが、生徒に手を出してはいけないという縛りが、油断を生む可能性も有る。
そしてエルダーレイスのイゴールさんに関しては、出合頭にうっかり退魔術喰らってもおかしくないほどの迫力がある。
「それじゃアリューシャ。引率お願いね?」
「はぁい! 言う事聞かない子は【ヴォルテックランス】の刑だよ!」
「いや、それ死んじゃうから……」
アリューシャの宣言を聞いて、後ろで転移待ちをしていた生徒達は顔を青ざめさせていた。
一か月少々の付き合いとは言え、彼女がそうと口にしたら、必ずそれを実行する性格である事を把握しているのだろう。
アリューシャは軽く手を振りながら生徒達の元に戻り、ガイエルさんの空間魔法によってタルハンへ送られていった。
続いてボク達の番である。
生徒達を魔法陣へ誘導し、ガイエルさんに合図を送る。
しかし、ガイエルさんはソワソワと身じろぎするだけで、術を掛けてくれない。
それでふと彼と交わした契約を思い出した。幸いアリューシャはすでにタルハンへ飛んでいる。
「もう、今回だけですよ?」
ボクはそう口にして、素早くその頬に口付けをした。
正直男に寄り添うのは気持ち悪かったが、ガイエルさんは別だ。
彼の本性はドラゴンであり、爬虫類だ。そして今の姿は壮年の、父と言ってもおかしくない外見をしている。
日本に残してきた祖父に甘えると思えば、多少は我慢できる。
「うむ! 契約の品、確かに頂戴した!」
もう、うっきうきの口調でガイエルさんは宣言し、即座に魔術を展開していく。
派手なエフェクトは一切存在せず、景色が揺れたと思ったらすでにタルハンの屋敷の庭にいた。
元領主館である屋敷の中庭は、四十人の生徒を受け入れて充分な広さがあった。
先行していた魔術師達は既に館の三階に移動していた。ちなみに騎士学科の生徒は二階に部屋を振り分けている。
時折三階付近から悲鳴らしきものが聞こえてくるのは、イゴールさんに遭遇したからだろう。
「よーし、転移完了。それじゃ騎士組の人は二階の部屋を使ってね。一部屋四人。使っていい部屋の扉には『使用可』って書いた札を掛けてあるから。それ以外の所に勝手に足を踏み入れたら、命の保証はできないよー」
「い、命の保証って、そんな大げさな……」
「誇張でも何でもないよ? この屋敷はリンちゃん――ドラゴンの住処であり、スレイプニールの住処であり、スライムロードの住処であり、エルダーレイスの住処でもある。そして何より、現タルハンの領主レグルさんの仕事場としても使用されていて、トドメはボク達の家でもあるんだ」
現タルハンの領主。それは東部の英雄、レグルさんを意味する肩書だ。
そんな彼の仕事場を勝手に荒らせばどうなるか、ここにいる人間ならばボクよりもよく知っているだろう。
ボクはレグルさんがどれほど恐れられ、尊敬されているのかは、いまだに実感できていないのだから。
「レグル=タルハンの仕事場……そりゃ、勝手はできないな」
「下手したら騎士団への推薦にも響くぞ?」
「それどころか、機嫌を損ねたら生きて出られるかどうかも判らないぞ」
さすがに彼の勇名の効果は、ボクよりも生徒達によく効いていた。
これで彼等もかってに屋敷を荒らしたりはしないだろう。
「用事があったら、執事のイゴールさんを呼んで。彼がこの屋敷を実質的に取り仕切っているから」
「イゴールさんかぁ……懐かしいなぁ」
「テマは初めて会った時に漏らしてたっけ?」
「漏らしてねーし!」
初めて彼がアリューシャの招きに応じてこの屋敷に来た時、当時レイスだったイゴールさんを一目見て腰を抜かした経験があったのだ。
今のイゴールさんはエルダー化しており、そのプレッシャーはさらに増している。魔術師科の生徒もすでに何人か被害に遭っているみたいだ。
騎士組からも何人被害が出る事やら。
「まぁ、彼の不意打ちに耐えられるようになれば、迷宮でも、ちょっとやそっとでは驚かなくなるよ」
「でもユミル姉ちゃんはまだアンデッド怖いんだろ?」
「先生と呼べ、先生とぉ!」
不敬な態度を取ったテマには、愛の鞭と言う名のウメボシの刑に処しておく。
ゴリゴリとコメカミを拳で抉られ、テマはその場に沈んでいった。
ちなみにこの刑の威力は騎士学科の生徒なら身をもって知っている者も多い。やはり見かけで甘く見てしまう生徒も、多少はいるのだ。
もちろん彼等とてボクの実力は知っているが、ボクの態度と外見で、それを忘れてしまう事が多いの。
なんとも罪作りな美貌である。
「それにしても、本当に転移魔法を使えたんだ、あの人……」
「ああ、ガイエルさん? 古代の遺失魔法とか調べるのが趣味らしいからね。もっとも組合に知られたら色々干渉されそうとかで、いつもは姿を消しているんだけど」
「それで幽霊理事長って言われてるんですか。納得です」
本当は彼の放任主義の結果なのだけれど、なんだか変な風に納得されてしまった。
まぁ、変に勘繰られるよりはいいか。
「さて、それじゃ部屋で荷解きとかあるだろうし、今日は夕方まで自由行動だから。四時になったら中庭に集合。迷宮は明日の早朝からね」
まずは夜営の経験を積ませるため、今日は騎士科は庭でキャンプである。
魔術師科も経験を積んでおくに越した事は無いので、それを手伝ってもらう。
明日からは五人ずつ八組に分かれて迷宮を経験してもらう。引率にはボクの他にアリューシャとセンリさん、レグルさんの四人が担当する事になっている。
この四人が半日ずつ一日二回迷宮に潜って、生徒達に経験を積ませるのだ。
そしてこの行程を三日続けて行う。これが遠征の中身である。
「じゃあ、ボクはレグルさんと打ち合わせがあるから。君達も悪戯しちゃダメだよ? この屋敷の管理人のエルダーレイスはすっごく怖いんだから」
そう脅し文句を残しておいて、ボクはレグルさんの執務室へと向かっていったのだった。
彼には少し、相談したい事があったので。