第百八十五話 番外編1 脱走
北の山脈、肌を刺すような冷たい空気が流れる地。
その寒冷な土地で、さらに山に登ればどうなるか推して知るべし。
そんな山頂に三つの人影が存在した。
彼らは異様な事に、細い木を立てた杭の上に立ち、その間に渡したロープの上を移動する訓練を行っていた。
「おい、なんでこんなクソ寒い場所で大道芸もどきの真似をしなきゃならんのだ!?」
声を荒げた男の名前はハウエル。古竜王に弟子入りした、歴戦の剣士である。
彼は震える足を押さえながら、杭の上からロープに足を掛けようとしていた。その先の杭には、兄弟子であるキーヤンが立っている。
「これか? これは修行の一環だ。足場の悪い場所でもいつも通りの動きができるように、また強靭な足腰からどのような態勢でも攻撃に移れるようにする修行だ」
「ほんとかよ! こんなピーキーな状況とか、想像もつかないんだが」
「うむ、我もキーヤンの思考を読んで、そこにあった映像を再現しただけなので、そんな感じかなぁって適当に答えた」
ガイエルが読み取ったのは古いカンフー映画の一シーンだ。
若き日の人気アクションスターが、壷の縁に乗って手足や膝の上に茶碗を乗せて型を取っているシーンである。
それを古竜王ガイエルが適当にアレンジして修行に取り込んだのが、今回の奇行の実態なのだった。
「おいィ! キーヤン、またテメェか!」
「濡れ衣だぁ! っていうか、俺の思考を読むなよ。いつ読んだんだよ!?」
「風呂に入っていた時、無防備だったので、つい――な」
「つい、じゃねぇぇぇぇぇ! 風呂に入っている間も寛げねーのかよぉ!」
ここでの生活の中で唯一と言っていいくらいのリラックスタイムすら油断できないとあって、キーヤンは血の涙を流して絶叫した。
それにガイエルは飄々と答える。
「剣士たるもの、常に気を張っておかねばならん」
「ふっざけるな、この爺ィ!」
「おい、キーヤン。テメェはそこを動くな!」
元凶のキーヤンを追いかけ、ハウエルがロープを走る。
そのキーヤンは心を読んだ古竜王ガイエル追いかけ、別方向に走る。
こうして、珍妙な修業は彼らの体力が尽きるまで続けられたのだった。
日が暮れるまでおよそ四時間。延々とロープの上で鬼ごっこを繰り広げたキーヤンとハウエルは、やがて力尽き、地面に落下して気を失った。
一人だけピンピンしていたガイエルが、弟子の醜態を見て溜息を吐く。
「やれやれ、たかだか四時間気を張って綱渡りするだけで、このザマか。まだまだ修行が足りんな」
ドラゴン基準でガイエルは判断しているが、一般人が四時間の綱渡りで鬼ごっこをしている段階で、常軌を逸している。
キーヤンもハウエルも、すでにその集中力とスタミナは人間の枠を超えつつあったのだ。
「いや、ここ最近の成長振りを考えると、それも高望みしすぎか? キルミーラへの出張以降、キーヤンの成長は著しい。ハウエルもその時初めて見たが、身体能力の成長は人間のそれを遥かに上回っておる……何らかの力が働いているとしか……?」
実際はアリューシャによるパーティ加入で、彼女の与える加護『限界突破』を受けているからなのだが、その辺りの事情はガイエルには判らない。
ガイエルは首を傾げながらも弟子達を引っ掴んで連行していく。
このままここに放置すれば、寒さで死んでしまうかもしれないからだ。
「ま、風呂に放り込んで、体を温めれば目も覚めるじゃろう。我はその間に飯の支度でもしておくとしよう」
そう言って弟子の足首を持って引き摺って行く。自然引き摺られた頭は傷だらけになっていくのだが、それは後で治してしまえばよい事なのだった。
いつもの滝壷にやってきて、【ファイアボール】を一発。
古竜王の魔力をもってすれば、それだけで滝壷が簡易の温泉に早変わりである。
適温である事を確認してから弟子を温泉に放り込む。弟子がキーヤンだけだった時は温度の管理を怠り、茹でキーヤンになりかけた事は彼にとって記憶に新しい。
擦り傷を治さないまま温泉に放り込まれた弟子二人からしたら、これは地獄だった。
傷口に湯が染み込み、激痛が顔面に走る。
「ぶあああぁぁぁぁぁ!?」
「いって! 痛ぇって!?」
「水? いや湯か!? 熱!」
「ハウエ――助けろ、溺れ……がぼぼぼ」
「キーヤン、おい、泳げ! 死ぬぞ!?」
気絶状態からいきなり湯に投げ込まれたのだから、彼らの混乱も無理はない。
二人が平静を取り戻す頃合いを見計らって、ガイエルは飯の支度にかかる事を告げた。
「弟子達よ、我は食事の支度にかかるので、その間に汚れと疲れを落としておくとよい。まったく弟子の飯まで世話するなぞ、我って優しい師匠じゃな?」
「師匠は弟子を溺死させようとはしねーよ!」
「がぼ、ぼぼぼ……」
真っ先にツッコミを入れるハウエルと、沈みゆくキーヤン。
ここへ来た当初は反論する元気すら出なかった事を考えれば、大した成長である。
弟子の苦言など聞く耳を持たずに立ち去るガイエルの後ろ姿を見て、ようやくハウエルは落ち着いて湯に身を沈めた。
キーヤンもどうにか持ち直したようだ。
しばらく身体を休め、動かす気力が復活したところで、滝壷の下流に移動し、軽石を取って体をこすり始める。
この軽石はこの近辺では比較的手に入りやすく、この滝壷の周りでも探せば容易に見つかる物だ。
ドラゴンの巣であるこの北の地、特にこの近辺はガイエルの縄張りであり、危険なモンスターの姿はない。
もしここを他所者が侵そうものならば、その群れごと消し飛ばされてしまうのだから、寄り付こうとも思わないだろう。
よって、聞こえてくる音と言えば、轟々と鳴り響く滝の音と、のどかな小鳥の囀りのみである。
温泉旅行としてならば、絶景と言ってもいいスポットだった。
「まぁ、なんだかんだで俺もここの生活に慣れてきたって事か……」
「お前はまだ一か月程度だからマシだよ」
ハウエルの横で復活したキーヤンが体を洗い始める。
体力的にはベテラン剣士だったハウエルが勝るが、キーヤンは復活する速度で大きくハウエルを上回っていた。
気絶するほど疲弊しても、ほんの数分で復活してくるのだ。この回復力はハウエルにはない物である。
「このままだと……マジで死ぬ。逃げよう」
「おいおい、せっかく世界最高の剣技を習ってるんだぜ? 今更、尻尾を巻いて逃げるとかないだろう」
「お前こそバカ言うな。今この瞬間にも……心を読まれているかもしれないんだぞ?」
「ぐぅ、それは勘弁願いたいな」
「いいか? 物事には適量という物がある。俺の故郷の偉人はこういう言葉を残した。緊緩中道とな」
キーヤンは元の世界の仏教用語を持ち出し、ハウエルの説得に掛かる。
ここから彼一人が逃げ出しても、ガイエルは追ってくる。空間を自在に捻じ曲げる彼に捕捉されれば、逃げ切るのは不可能だ。
そしてその追跡者には必ずハウエルも参加する事になるだろう。彼を巻き込む事で、相対的に追跡者の数を減らす事ができるのだ。
「緊緩中道とはな。琴の弦を張るにはは、緊く張りすぎてもいけない、緩く張りすぎてもいけない。中間こそが最も適しているのだという教えだ」
「いや、俺は琴を習っている訳じゃなく――」
「これは万物に共通する教えだぞ。物事は無理しすぎてはいけないんだ。かと言って手を抜きすぎてもいけない。そういう教えだ。今の俺達は明らかに無理しすぎている。そうは思わないか?」
「え、そうか……? そう言われれば確かに……」
「毎日気絶するまで扱かれて無理して無い訳が無いだろう!?」
ちなみにキーヤンは毎日、ハウエルの倍は気絶している。早く意識を手放す事で素早く回復できる事を、身体が覚えてしまったのだ。
それが今のガイエルの不満点である。
「いいか、あの爺ィは紛う事なきバケモノだ。俺たち程度が逃げ出しても、すぐに掴まってしまうだろう。だがそれでいい。それでいいんだ!」
「はぁ? すぐ捕まっちまったらダメだろうが?」
「いや、いい。俺達に必要なのは休息だ。ほんの数日で良い。あの爺ィを引き離し、数日自由を謳歌すれば、この張り詰めた緊張の糸も緩む。それこそが今の俺達に必要なんだ! お前もいい加減、酒とか女とか恋しい頃合いだろう?」
「ふむ……まぁ、休暇は必要だよな」
あっさりと手の平を返し、キーヤンに同調するハウエル。
女はもちろんだが、酒は確かに恋しい。ドラゴン達が人化して買ってくる酒もあるにはあるが、量が少ないのだ。
たまには浴びるほど飲んで、ぐでんぐでんに酔っぱらっても命の危険が無い、そんな時間を過ごしたいと思う気持ちがあるのは確かだった。
できるならばその後、存分に女体も愉しみたい。そう思ったハウエルである。
「な? 今爺ィは飯の支度をしている。もともとが不器用なドラゴンの爺ィだ。奴は今調理に集中している……」
「晩飯を抜くのはきついが、逃げるなら今の内って事か」
「ああ、まさか気絶から目を覚ました直後に逃亡を謀るとは思うまい。これが最後のチャンスだ!」
「よし、そうと決まれば……」
ハウエルは立ち上がった。キーヤンの目の前には雄々しく勃ち上がったハウエルの息子があった。
「醜いモノを見せんな!」
「醜いたぁなんだ! テメェのだってそう変わらねぇだろう!?」
「俺のは女にカワイイって言われてんだよ! カワイイって……カワ、イ、イ……」
「判った、お前は今、泣いていい。泣いていいんだ」
平均より少しカワイイサイズのキーヤンは、逃亡前にハウエルによって心が折られたのである。
訓練でボロボロになり、びしょ濡れの服だけを纏って山道を駆ける。
この近辺の地理に関してはキーヤンはすでに把握している。食材の買い出しなどで人里に降りた事も多いのだ。
その度に逃亡を謀っては、ガイエルに回収されていたのだが……
「つまり、このまま直線で人里に降りては爺ィの監視網に掛かってしまう。ここは多少遠回りでも、一つ……いや、三つは遠い町に向かうぞ」
「なるほど、お前もなかなか考えているな!」
「直近の村で逃げた時は四十秒で捕まったからな!」
「ダメじゃん……」
自信満々に失敗談を語るキーヤンに、ハウエルは走りながら肩を落とす。
山を降り、森の中を疾走する彼らの速度は、すでに獣のそれに等しい。いや、それすら遥かに凌駕している。
彼らはガイエルの訓練で、すでに自覚なく人間の限界を超越していたのだった。
「いいか、三つ目の村に向かうとは言っても直線で向かえばあの爺ィに把握されてしまう。だから二つ目の村に向かうと最初は見せかける。そのために向かう方向は……こっちだ」
「よし、ならそっちに……」
「そこから途中の川に入り、川を下って三つ目の村に向かう。これで臭いを消すぞ」
「そこまでやるのか?」
「そこまでやって、やっと五分だ。あの爺ィの鼻は尋常じゃない。昔、吸血鬼の技を学んだとか言って、血のソムリエとかやらかしたんだからな!」
「そういえば、モリアスでやってたな……」
驚異的な嗅覚は魔法による【身体強化】の代物である。それをごまかす為に極寒の川の中に入り、そこを下ると言うのだから、彼らもすでに常識が吹っ飛んでいた。
幸いな事に、彼らを追うガイエルの気配はまだない。このまま川に入れば、上手く追跡をごまかせると、キーヤンは確信していた。
こうして彼らは寒中水泳を敢行して、ようやく人里へとたどり着いたのである。
ボロボロの姿のままで。
ここから五話くらいキーヤン編です。
野郎共の醜態をご堪能くださいw