第百七十二話 騒動の結末
ドーモ、ユミル、デス。
ボクは今、必死に理性の糸を繋ぐことに全力を尽くしています。
なぜかと言うと……
「ユ、ユミルお姉ちゃん、来てる! おっきいのが!? 早く、早くぅ! ああ、ダメ!」
アリューシャがボクの腕の中で、そんな艶めかしい声を上げているからである。
しかも激しく上下に揺れながら。
「アリューシャ、大丈夫だから少し落ち着いて。興奮しちゃうじゃない」
「なんでこの状況で!?」
アリューシャが怒るも無理はない。ボク達は今、ウララの背の上で背後から迫る巨大な猛獣、キングべヒモスから逃亡しているからである。
キングべヒモス程度、レベルアップを重ねたボクにとって、もはや敵ではない。
だがこの敵はその場で倒す訳にはいかないのだ。付かず離れず誘導して、目的地まで連れて行かねばならない。
なぜこんな面倒な事をしているかと言うと、これはドルーズ共和国への対抗制裁措置なのだ。
あの反乱もどきの事件の後、モリアス領主ロゥブディア=ダスケットはめでたく国王から極刑の沙汰が下された。
だからといってすぐに処分されるという物でもない。
まず、その処罰が決定するまでに時間が掛かる。
これは発覚後、組合の所有する情報ネットワークで、事件の詳細だけはすぐさま届けられた。だが、それを裏付ける証拠がないのだ。
野盗どもが持っていた書簡が証拠になるのだが、これが王都に届くまで三日の時間を要してしまったのだ。
幸いと言うか、なんというか、ドルーズ側はモリアスを陥れたいがために、それを証明する証拠を各所に残していた。もちろん自身の痕跡は消して、だが。
そのおかげで裏付け自体はすぐ取れたのだが、それでは本来の裏まで処罰の手が届かない。
そもそもその事実を知っているのは、ボクと、ボクに近しいレグルさんとヤージュさんくらいである。
一応王都側にも連絡は入れておいたが、これは取引カードの一つとして保留されるとの推測だった。
とにもかくにも、ロゥブディア捕縛の勅令が発せられ、国王のサイン入りの勅書がモリアスに届くまで……これも早馬を使っても、一週間以上かかってしまう。
そこでようやくロゥブディアをアジトから解放し、王都の部隊に引き渡して――これも直接渡す訳ではない。彼らが逃亡したロゥブディアを発見すると言う風に理解するよう仕向けるため、いろいろと工作をする羽目になった。
こうして、モリアスでの事件は終息を迎えた。
後任の選定は未だ決まっておらず、モリアスは混乱状態にある。
内々に抗議されたドルーズも、『そんな事情は聞いたことも無い』と白を切り、すべての罪はロゥブディアがひっかぶる事になった。
だが、それで腹の虫がおさまらないのがタルハンであり、その領主のレグルさんである。
南方国境地帯に色気を出すドルーズ共和国に釘を刺すため、様々な対抗策を考慮した結果、ドルーズの国境警備隊にキングべヒモスを突入させ、これにダメージを与える手段を考案したのだ。
キングべヒモスはトラキチの迷宮産である。
その代償として、来年からの修学旅行はユミル村が選定され、そこで冒険者を雇って迷宮実習を行う事になっている。
これでキングべヒモスを産み出すポイントは、大量の生徒とそれを護衛する冒険者達が補填する事になり、トラキチにとっても損はない取引となった。
問題は迷宮のそばで産み出したキングべヒモスを、どう南方国境まで誘導するかなのだが……これはもう、そんなバケモノを誘導する事のできる人材なんて、ボク以外に居ない。
そんな訳で、ボクは足代わりのウララの背に乗って、巨大な猛獣と追いかけっこをする羽目になったのである。
アリューシャの挑発するようなセリフと背後のプレッシャーに、ボクは思わず手綱から手を放したくなる。
そのままアリューシャを抱きしめるか、背後のキングべヒモスを斬るため剣を抜きたくなってしまうのだ。
何とか理性を繋いで、追いかけっこすること一週間。ようやく南方国境が見えてきた。
キングべヒモスもモンスターだから、疲労も食事も睡眠も必要なのだろうが、これは桁外れの体力を持つバケモノである。
時間の感覚がボク等と違うため、一週間の強行軍など屁とも思っていないようだ。
対するボクは、疲労はしない物の睡眠や食事は必要である。
そこでアリューシャと二人で交代しつつ睡眠や食事を馬上で取って、何とか急を凌いでいた。
お風呂とか排泄? そんなことは女の子に聞くものではない。いや、スラちゃんが居なかったら色々ヤバかったけどね。
ウララに至ってはこの一週間走り通しなのだけど、この子は幻獣なので、その辺どうなっているのか、実はよく判らない。
「あ、ユミルお姉ちゃん。見えてきたよ!」
アリューシャが指さす方向に国境警備隊の駐屯地が見えてくる。
そこには部隊を展開しているドルーズ兵の姿もあった。
キルミーラ側の兵はすでに展開を終えているのは、モリアスの混乱とロゥブディアの余計な事が合わさった結果で、この隙に少しでも国境線を北に押し上げたいという魂胆なのだろう。
「よし、じゃあアリューシャはウララと離脱。後はボクじゃないとできない事だから」
「うん。気を付けて、ね?」
「任せといて。例え追いつかれても……一度勝った相手なんだし楽勝だよ」
今はあの時と違い、回復薬も武装も万全である。
戦闘になっても、ボクが敗北する要素は存在しない。
それにここでアリューシャと別れるのは予定通りなのだ。
この先ボクは、『ドルーズ兵に見つからず』に『キングべヒモスを誘導する』という荒業を行わねばならない。
これは【クローク】を使えばいい事なので、ボクにとってはそれほど難易度の高い事ではない。
ただし、ここにアリューシャが付いてくると、不可能になってしまう。
ボスクラスは【クローク】を見抜いてくるのだ。それはもう、『見抜き、いいですか?』と言わんばかりに。
だが一般兵士には効くので、ドルーズ兵はボクの姿を見る事は出来ない。だからアリューシャがいると、誘導しているのがバレてしまうのだ。
この状態でボクがあの兵団に突っ込むと、客観的にはキングべヒモスが単独で攻めてきた風に見える。
アリューシャとウララに別れを告げ、ボクは馬上から飛び降りた。
時速六十キロ近い速度で走る馬上から飛び降りるのは、本来なら非常に危険な行為なのだが、ボクにとっては朝飯前の運動だ。
怪我も無く着地し、それを確認したウララが速度を上げ、キングべヒモスを引き離す。
キングべヒモスは必然的に近い位置にいるボクを追うように動いてくる。
これを【クローク】で潜みつつ、ドルーズの兵団に誘導していった。
その日、ドルーズ共和国国境警備隊に甚大な被害が発生した。
突如として現れたキングべヒモスの襲来により、設営していた陣地が木っ端微塵に破壊されたのだ。
怪我人も多数発生し、部隊は壊滅の危機に陥りかけたが、いずこからか現れた少女二人組の冒険者によってキングべヒモスは討伐され、事無きを得た。
瀕死の重傷を負った者も、少女の治癒魔法でかろうじて命を繋ぎ、奇跡的に死者は出なかったらしい。
タルハンにあるボクの屋敷。
ここに今、この街の主要人物二人が並んで座っている。すなわち、領主のレグルさんと、組合支部長のヤージュさんである。
「くっくっくっく……ざまぁねぇな、ドルーズの連中」
「その黒い笑いはやめてくださいよ、領主様。まるでこっちが悪役じゃないですか」
「ホント、一週間も走り通しだったボクの苦労も察してくださいよ。アリューシャなんてまだ十二歳なのに、こんなハードスケジュールを……」
「でもセンリはその時忙しかったんだろ? ならあの嬢ちゃんしか手が空いてないじゃないか」
あの時、ボクが仕事を放り出してアリューシャの後を追ったため、ポーション作成を一人請け負っていたセンリさんが修羅場を見ていた。
彼女が作った世界樹の実を使用した新ポーションは、少量でも今まで以上の回復力を示すため、まるでアンプルのような少量でも充分な効果を発揮したのである。
その携帯性の高さからユミル村とタルハンで注文が殺到し、休みなく村と町を往復する羽目に陥っていたのだ。
彼女が屋敷で枕を涙で濡らして泣いていたのは、こういう事情もあったからでもある。南無。
キングべヒモスの誘導は長期間に渡るため、一人では不可能だったので、センリさんの代わりにアリューシャが駆り出される事になってしまったのだ。
「まぁ、結果として前線の陣地を一つ破壊しただけなんで、まだまだ気に食わない面はあるけどよ。この辺で勘弁してやるのが大人の余裕ってもんだな」
「なに言ってんですか。むしろこちらは有害な人材を排除できたのに、向こうは物理的被害が甚大でしたよ? これ以上は酷ってモノです」
ヤージュさんは苦虫を噛み潰したような表情で、そう呟いた。
今回の報復はタルハン単独で行ったものである。この件はキルミーラ本国では外交カードに使用する心算だったので、これは下手したらタルハンの立場すら危うくなる可能性もあったのだ。
それでもレグルさんは強硬にこの報復を主張した。それだけ彼は、この街を愛しているのだろう。
だからこそ、手を出してきたモリアスが……引いては、それを裏で操ったドルーズが許せなかったのだ。
「ちゃんと死人は出ないように動いてくれたんだろう?」
「ええ、それはもう。偶然凄腕の術師であるアリューシャと、凄腕剣士であるボクが通りかかったので、事無きを得ましたよ」
「死人が出たら、さすがに恨みになるからな。その辺りの加減は感謝する」
そう言ってレグルさんは組合カードを取り出した。それに合わせてボクも、カードを取り出す。
レグルさんはカードを操作し、ボクのカードに重ねた。
つまり、報酬の譲渡が完了したのである。
今回の仕事は組合にとっても大っぴらに動く訳ではなかったので、正式なものではない。
書類などにも残せない類の仕事だ。
なので、事は全てヤージュさんの立ち合いの元、口約束だけで済ます事になったのである。
ボクは前約束通りの金額が振り込まれている事を確認し、横に座るアリューシャのカードに半額を移す。
これでこの依頼は完了した。
「ケンネル帝国の連中も、ドルーズ共和国の連中も、タルハンやユミル村に手を出せば痛い目を見るって事が、いい加減分かっただろうさ」
「こちらもタダでは済みませんでしたけどね」
「レグルおじさん、モリアスの混乱はどうなったの?」
そこでアリューシャは不安げな声を上げた。
彼女としては、あの町ではあまり嫌な目には合っていない。
人のいい商店のオジサンや、博物館の職員などが騒動に巻き込まれていないか心配になったのだろう。
「ああ、それだったら……領主の後釜が決まったぞ」
「え、もうですか?」
あれからまだ一月も経っていない。モリアスの規模を権益を考えれば、随分早い決定と言える。
「ああ、ちょうど有力貴族の次男坊で、腕利き冒険者だった男がいてな。そいつをモリアスに放り込む事にした」
「腕利きですか……? ボクも知ってます?」
「ああ、もちろんだ。リビ=エルデン。知っているよな?」
「リビさん!?」
カロン達のパーティの懐刀。と言うか頭脳と言ってもいい。
ユミル村の戦闘でも尽力してくれた、腕利き魔法使いの彼だ。
「貴族だったんですか……」
「跡取りじゃなかったから、冒険者で身を立てようとしてたらしいけどな。奴なら冷静で頭もいいし、公平だ。モリアスはこれから少しずつ変わっていくだろう」
「そうですか。また修学旅行先になればいいですね」
「じゃあ、おじさん達に危険はないんだね? よかった!」
しばらくはユミル村での迷宮実習になる。むしろ生徒達の方が、危険な行事になったとも言える。
ユミル村のダンジョンは、高難易度なのだ。護衛に冒険者が付いて、トラキチが調整すると言っても、心配の種は尽きない。
「村の行事の方も、そっちならなんとでもなるだろ。ダンジョンマスターと直接交渉できるんだから」
「そりゃ、まぁ……」
どうも最近、トラキチのダンジョンがアトラクションになっている気がしてならない。
だがまぁ、それはそれでいいのかもしれない。
結果的に冒険を間近で体験し、冒険者になる者が増えれば、彼が解放される時期も早まるだろう。
もっとも、あの迷宮のトップランナーを譲るつもりはまだないけどね。
今章はこれで終了となります。
明日からはポンコツ魔神の方を再開させますので、こちらはしばらくお休みになります。