第百二十二話 発病
深夜、あまりの寝苦しさに目が覚めた。
着慣れないパジャマ(着ぐるみ)を着て寝たためだろうかと思い、身体を起こす。
そばのアリューシャを起こさないようにして、水でも飲んで来ようかと思ったが、そこではたと気が付いた。
ボク達のシーツはスラちゃんが下に潜りこんでいる、いわゆる仮想ジェルマットだ。
過剰な体温はスラちゃんが吸収し、別途放熱してくれるので、とても快適なはず。
ふと寝汗を掻いた場所を確認して見ると、胸の下からお腹の辺りにかけてが、しっとりと湿っている。
ここはよくアリューシャがしがみついてくる場所だ。
「子供は体温が高いから――」
そう呟いてからアリューシャの頭に手を伸ばし……彼女の息が荒い事に気付いた。
「アリューシャ?」
額に手を当て、体温を測る。
汗を掻いた髪が張り付いて、見るからに普通じゃない様子だ。
「――熱い……風邪?」
普通の風邪にしては、体温が高すぎる。
これは……ボクでは判断が付かない。
「センリさん、センリさん! アリューシャが――」
「んー、どうしたのユミル?」
最近ボク達と一緒に眠っているセンリさんを叩き起こす。
この騒ぎでも、アリューシャは目を覚まさない。これは異常だ。
「アリューシャの様子が……熱も高くて……」
「発熱?」
センリさんも慌ててアリューシャの額に手を当て、熱を測る。
この世界には体温計は存在しない。こうして直に体温を測るしか手段が無い。
「細かいところまではよく分からないけど……確かに高いわね」
「どうしよう、ただの風邪だといいんだけど――」
こう言う病気には、ボクの戦闘力なんてなんの役にも立たない。
打つ手に困り、おろおろと狼狽するボクを、センリさんが宥める。
「とにかく、専門の医者に見せましょう。この時間だと……街医者は開いてないでしょうから、組合の施療院に運び込むのが無難ね」
「判りました。ウララの準備をしてきます!」
体調が悪いなら揺らさないようにして、速やかに運ぶ必要がある。
ウララの馬車ならば、うってつけだ。
リンちゃんでは意外と揺れが激しいのだ。
「スラちゃんは額に張り付いて頭を冷やしておいて。体も汗を捕食して、体温が高くなりすぎるようなら適度に冷却」
「――――」
にょろんと、シーツの下からスラちゃんが出てきて、アリューシャの全身を包みこむ。
これで彼女の体温管理は、ほぼ万全だろう。
そのまま、ヌルヌルとボクに付いてきて、馬車に運び込んでくれる。
この状態なら、スラちゃんがクッション代わりになって、中のアリューシャはほとんど揺れを感じないはずだ。
その間にボクはスレイプニールに馬車を取り付けていく。
センリさんはアリューシャのそばで、体調を見守ってくれている。
時折ポーションを出しては口に含ませてあげてるのは、喉を潤すのと同時に、体力を回復させているからだろう。
「ウララ、アリューシャがピンチだから、組合まで急いで」
「ブルルル!」
主人の危機と聞いて、ウララが奮い立つ。
「セイコとリンちゃんはスラちゃんズと屋敷の警備。侵入者は警告の後、攻撃。殺さない程度で捕縛ね」
「イゴールさん、悪いけど一緒に着いてきてくれる? 人手が必要になるかもしれないし」
「承知いたしました」
ボク達の騒動に出て来たイゴールさんに、センリさんが付き添いを頼む。
彼は色々透過できるので、その能力が役に立つ場面も多いのだ。
こうしてボク達は、慌しく組合に駆け込む事になったのだ。
「風邪、ではありませんね。口内に斑点も出てますし、おそらく麻疹かと」
「麻疹……よかったぁ」
医者の診察の結果を聞いて、ボクは大きく息を吐き出した。
麻疹なら特別な治療も必要ないし、安静にしておけばすぐ治る。
「ユミル、判ってる?」
「なにをです?」
だが、センリさんの表情は暗いままだった。
まるで深刻な病名を聞いたかのように、厳しい。
「麻疹は抗菌薬の投与が一般的な治療になるわ」
「そうなんです?」
「抗菌薬って言うのはつまり、抗生物質な訳だけど――この世界にそれがあると思う?」
「――あ!?」
センリさんの説明に拠ると、麻疹と言う病気は江戸時代辺りまでは普通に死ぬ病だったそうだ。
結核などもそうだが、現代だから大した事無く治療できる病も多い。
その最大の立役者が、抗生物質。
中世から近代の境目に近いこの世界では、有るか無いか際どい所である。
「残念ながら、有効な治療薬は存在しません。汗を拭き、身体を清潔にして、体温を上げすぎないよう注意して経過を見守る事しか……」
センリさんの懸念通り、医者は手が無い事を告げてくる。
「センリさん、ど、どうしよ――」
「落ち着いて……っていうのは無理な話よね。私の記憶じゃ有効な治療ができなければ三割程度の確立で合併症を起こすはずなんだけど――」
「そうですね。それくらいでしょうか? 平時ならばクファルの実を煎じた物を飲ませて安静にさせるのですが」
「クファルの実?」
「解熱作用のある木の実です。北の王国コーウェルに自生するのですが、今は切らしてまして」
コーウェル王国、北の迷宮都市マクリームのある国の名前だ。
リンちゃんの故郷でもあり、高峰に囲まれた国だとか?
「でも、そこに行けば手に入るんですよね? ならボクが――」
「今は季節ではありませんので、おそらくは難しいかと。他の街に救援を求めて輸送してもらうつもりですが、時間との勝負になりますね」
この時期に限って解熱剤の特効薬が切れているなんて……なんで?
「少し前にユミル村で流行性感冒が流行ったそうで。そちらに大量に輸送したのです」
「あの村、実質孤立状態だから、薬の負担が大きいのよね……」
「じゃあ、村に行けば――」
「流行った村に行っても、残ってるか怪しいわね。それよりは別の街を目指したほうが確実かも」
「そうですね。今の状況になったのはタルハンが街二つ分の治療薬を負担したからですし、一番近場ですと、南にあるクルネルに救援を求めるつもりですが」
クルネルの町……馬で二日ほど掛かる場所だ。
距離にして八十キロ程度か。無理をさせれば一日で行ける。
「まぁ、コーウェルに有るアンブロシアと言う秘薬があれば一発で治るんですけどね。ドラゴンが住む領域にあるそうなので入手は困難ですが」
医者は場を紛らわせるかのように、そう軽口を叩いてみせる。
ドラゴンの住む領域、それならボクならきっと突破できる。
「クルネルには私が行くわ。セイコを出せば日帰りできるもの」
「でも、ボクの方が早く――」
「ユミルはコーウェルに行って。そのアンブロシアって薬を入手してきて欲しいの」
「なぜ?」
「抗菌薬はしょせん、重症化を足止めする程度しか効果は無いの。その間に自力で治ってもらうというのが、麻疹の対策なのよね」
センリさんはここで、またも専門知識を持ち出してくる。
彼女、妙に知識の偏りがあるな。
「つまり、そのクファルって実を取ってきても、劇的に好転する訳じゃないの。あとはアリューシャちゃんの体力次第になる可能性が高い。万全を帰すならそのアンブロシアって薬に頼るしか無いのよ」
「薬で『持たせる』のではなく、『治す』ために動けって事ですね」
「そういうこと」
「わかりました。でも詳しいんですね?」
「こう見えても医学部志望よ。両親が医者だしね」
という事は高校生以下か。
前に運転免許のない学生って言ってたし予想はしてたけど、やはり歳下だった。
「その間、アリューシャちゃんはこちらで様子を見ててもらえますか?」
「構いませんよ。ですが、感染する病気なので隔離が必要なのですが……」
「では、イゴールさんを付き添いに。彼はアンデッドなので、壁もすり抜けられるし、感染もしません」
「それは便利ですね――ウチにも欲しい人材です」
「申し訳ありませんが、私の忠誠心はあのお屋敷に向けられておりますので」
慇懃に一礼して、医者の申し出を断るイゴールさん。
それを受けて、医者も苦笑して返す。
「隣の建物の三階に隔離用の病室があります。そこへ運びましょう」
「スラちゃんも連れてってあげていいですか? こう見えても色々便利な子なんです」
スラちゃんもイゴールさんも、感染症には掛からない。
そう言う意味では、看病にはうってつけの人材かもしれない。
むしろスラちゃんにウィルスを捕食して貰えば、病室内は清潔に保たれるかもしれないのだ。
こうしてアリューシャは入院することとなり、ボクはリンちゃんと二人で北の極限を目指す事になったのだ。
アリューシャの意識が戻らないうちに、できるだけの事は済ませてしまおうと思う。
もし気を取り戻した時、ボク達が誰もいなければ、彼女は寂しがるだろうから。
おそらく、センリさんの方は問題ない。
となり街までの距離はせいぜい八十キロ程度だ。セイコの足ならば三十分もあれば駆け抜ける事ができる。
紹介状を書いて貰い、事情を説明し、戻ってきたとしても一時間少々。
これならば充分眠っている間に戻ってこれるだろう。
ボクの方はそうは行かない。
北の国境までおよそ四時間。そこから更にマクリームまで、推測で同じ位かかる。
そして情報を集め、更に北へ向かうとなると……どれほどの時間が掛かるか判ったものじゃない。
一日では確実に無理だ。下手をすれば三日ほどは掛かるかもしれない。
だが、今の状況からアリューシャの病が本格的に発展するまでの時間も、それくらいなのだ。
ならば、行く価値はある。
氷室から往復で一週間分の食料を取り出し、インベントリーに放り込む。
武器は威力重視のクニツナとオートキャスト用に魔剣『紫焔』を装備しておく。
予備武装としてピアサーとスティック、マナブレード、ムラマサとストームブレイドをインベントリーに仕舞っておくが、これ以上の装備は荷物になる。
今回はアリューシャがいないので、大量の武装を運ぶのは控えておこう。
向こうでどれだけの荷物を運ぶ羽目になるか、判らないのだから。
ドラゴンの生息地を抜ける必要があると言うことで、リンちゃんにも騎竜用の武装を付けておく。
ボクの力で大幅にその力を増しているとはいえ、リンちゃんはまだドラゴンインファントなのだ。
幼生体である以上、不測の事態には備えておかねばならない。
「よし、と。リンちゃん少しハードな行程になるけど、がんばってね?」
「がふー」
鼻息荒く『任せろ』とばかりに首を振ってくれる。
実に頼もしい相棒だ。
回復アイテムと、魔刻石。それにルーンを作る素材もインベントリーに詰め込んでおく。
魔刻石は各種二十個しか持てない。だが、その素材には保持限界数がない。
なので素材だけ持ち出し、魔刻石が切れたら現地で作ると言う裏技的手法が、ゲームでは存在した。
これでインベントリーの七割近くが埋まってしまうのだから、アリューシャの倉庫能力がどれほどありがたいか身に染みて思い知る。
ゲームでは必要なかった保存食や水、防寒具やテントなどの生活品も圧迫の原因となっているのだ。
「インベントリーの容量、ゲームの時は充分だと思ってたけど、意外と足りないよなぁ」
あれもこれもと詰め込んで行くと、予想外にスペースを取られてしてしまい、溜息を吐く。
ゲームと違う現実の面倒さが、ここでも牙を剥いてくる。
「まぁ、余り量は必要ないか。アリューシャを待たせる訳には行かないしね」
「ぎゃふ!」
「それじゃ、行こう。北へ!」
こうしてボク達は北の極限へと旅立っていったのだった。
連休の連続投稿はここまでです。この後はまた週4の更新に戻ります。
あと、ここからは新章になります。
アリューシャは結構な期間お休みになってしまいます。アリューシャファンの方、申し訳ありません。