何気ない会話の中に隠れていた、とても大事なこと、その5【P視点】
「どうして、俺と代わらなかったんだ」
むっとした声で、Mがそう言ったのは、電話を切って、マナーモードを通常モードに戻した時だった。
その問いかけに、やっぱりこいつは、只者ではないと感じた。
寝ぼけたような顔をしているが、耳だけは、きっちりこちらに向けていたらしい。それにしても、オレの「連絡が早いね」の一言だけで相手を特定するなんて、すごい。
それはオレの勘違いだったわけだが、そのときは、そう思ったのだから仕方がない。
「はっきりしたことは分かりませんが、近々、メーカーから何らかの発表があるようです。今、手が離せませんので、情報が入り次第、次の連絡をします、ということだったよ」
相手の話を、そのまま伝えたのは、彼が想像した言葉と照合するだろうと思ったからだ。
だがどういうわけか、Mは睨むような目でオレを見た。
「空気の読めない奴だな、お前は」そこでMは、あくびなのか、ため息なのか分からないような長い息を吐いてから「社長は、俺と話をしたかったんだよ。なのにお前は」と言った。
最初の部分もそうだったが、なぜここで、社長という言葉がでてきたのか理解できなかった。
しかし、十数秒後に、そのバカバカしい理由が分かった。
こいつは、うちの社長の色香にやられたらしい。
話の中身を聞いたのにも関わらず、まだ、社長からの電話だと思い込んでいる。こいつの頭のど真ん中には、先ほどイメージした、客室乗務員のユニフォームを着た社長が、デンと居座っているようだ。
言葉を変えれば、こいつは社長に一目惚れ。今まで隠していたそれが、つい口をついてでてきたのだ。
でも、Mの気持ちは分かるような気がする。
確かにうちの社長は、実際の年齢よりも十歳は若く見える。三十メートルくらい離れた地点に、女子学生の格好で立っていれば、大抵の男は騙されるはず。
しかし、年齢は間違いなく、俺たちよりも一回り上。でも、熟女ブームの今、それぐらいの年の差なんて、許容範囲の中に楽々収まるのかもしれない。
もし会長が、こいつのヘッドハンティングを考えているのなら、社長を交渉相手にすればいい。こいつは一発で落ちる。
そんな事を考えながら、Mを眺めていたのだが、そんな場合ではないことに気づいた。
今ここで、こいつの誤解を解いてやらないと、一生、自分の恋を邪魔した男として恨まれる。
オレはMの肩口をポンポンと叩いた。そして、彼の目の焦点がオレに合ったのを確認してから言った。
「今の電話は、昨日の秋葉原の女の子からだったんだ」
思った通り、Mは不機嫌そうな表情を浮かべた。
「なんだつまらない」それから、彼らしくないことを言った。「次の入荷は、いつになるかわかりません。在庫分を安く致しますので、ぜひこの機会に。どうせそんなことだったんだろう」
「ところがそうじゃなかった」オレは一呼吸おいてから続けた。「お前が耳打ちしたことと同じようなことを言ったよ」
ヘッドマウントディスプレイを買おう。
オレがそう思ったのは、三年ほど前。しかし、発売前から異常なほどの大人気。品薄状態が長く続き、店頭に並んでいるところに出くわしたことがなかった。
もちろん、知り合いの誰かに頼めば、すぐにでも新品が手に入る。でもオレは、自分の趣味にそのような手段は使わない。
ここで、オレの親父の話を少しする。
唐突に思われるかもしれないが、ヘッドマウントディスプレイと親父は、ある部分で繋がっているのだ。
実を言うと、オレの映画好きは、親父譲り。
小さい頃、家が貧しく、観たい映画を見ることも、ビデオデッキを買うこともできなかった若き日の親父は、心に誓った。
絶対に金持ちになってやる。大金持ちになって、シアタールーム付きの豪邸を立てる。世界中の、映画という映画を集めてやる。
そして努力に努力を積み重ね、自分の夢を叶えた。
ボクの家には、シアタールームというのがあるんだよ。池の向こうの離れの地下室にあるから、どんなに音を大きくしても、誰も文句を言ってこないんだ。
小学生の頃、何気なく友人に話したことが、あっという間に学校中に広まり、地域の人々が知ることになった。
本当に? と疑う人間は誰もいなかった。オレの家がどこにあるのか、どういう造りの家なのか、みんなが知っていたからだ。
プロジェクターとスクリーンだけでも、高級乗用車が一台買えるんだ。当時親父は、自慢げに話していた。
自分の家で映画を見なくなったのは、反抗期が始まった中学二年の時。それ以来、オレの中で映画とは、映画館で見るもの、という図式のようなものが出来上がった。
しかし、社会人になって仕事に追われる毎日が続くうち、観たい映画のほとんどを見逃すようになった。
映画は、数少ない趣味の一番目に位置する。次第にストレスが溜まっていくのが自分でも分かった。
こうなったら、オレも本格的なシアタールームを……
と、何度か思ったが、思いとどまった。でもそれは、住まいが賃貸マンションだったからではない。親父の二番煎じだけはしたくない。その思いが強かったからだ。
そんな時、ふらりと立ち寄った電気店で目にしたのが、ヘッドマウントディスプレイ。頭部にゴーグルのようなディスプレイを装着する新発想の映像機器。
カタログ片手に展示品を眺めるオレに、売り場のスタッフが声をかけてきた。
「画面サイズは、20メートル先の750インチに相当するんです。どうぞ、ご自分の目で、お確かめください」
750インチという言葉に、オレは思わず小さなガッツポーズをして「勝った」と言っていた。
親父のシアタールームは、細長い三十畳。近くからだと画面が粗く見えるという理由から、スクリーンから9メートルくらい離れたところに、鑑賞用のソファがあった。
100インチのスクリーンを自宅に持っている人は、滅多にいません。
納入業者はそんなことを言っていた。でも、このヘッドマウントディスプレイは、仮想画面とは言え、親父のシステムを超える。
「勝った」というオレの言葉の中には、どんな些細なことでもいい。いつかあのクソ親父を超えてやる。長年抱いていたそんな思いが、凝縮されていたと思う。
でもオレの「勝った」は、売り場のスタッフの耳には「買った」というふうに聞こえていたらしい。
もちろんそれはそれで、構わなかった。だってオレは、その場で購入を決めたわけだから。
だが、背広の内ポケットから財布を取りだしたオレに「ありがとうございます」と丁寧なお辞儀をした店員は、そのあと、申し訳無さそうな声でこう言った。
「この商品は、お売りすることはできないんです」
その言葉に、腹が立った。この展示品でいいから安く売ってくれと、受け取られたと思ったからだ。
しかし、オレの早とちりだった。
「これは、発売前のデモストレーション用機器です。でも、今予約を頂ければ、三ヶ月後には納品できる予定です」
その一言で購入意欲が消えた。
欲しいときに、欲しいものを、その場で手に入れる、という自分のスタイルが崩れるからだ。
★次回は、M視点の予定です★