何気ない会話の中に隠れていた、とても大事なこと、その4【P視点】
「中肉中背。丸ぽちゃ。髪は肩まで。笑うと、左のほっぺに小さなえくぼ」
オレはそう前置きしてから、適当なストーリーを並べ立てた。
今日はその子の、初フライト。今頃、ミーティングの真っ最中。
安全運行は当たり前の現在、航空会社のイメージは、あなた方で決まるのです。
彼女は研修期間中に、そのせりふを幾度となく聞かされていた。でも、まさか最初の担当が、ファーストクラスだとは思ってもいなかった。
ファーストクラスは、一流企業の人間や、有名人がよく利用する。そのような旅慣れた人々を相手に、任務を遂行することができるかしら。
緊張と不安に包まれた彼女の制服のポケットには、入社が決まったその日に両親から渡された、小さなお守り。
打ち合わせが終わると、先輩たちが、彼女を窓辺に誘う。そしてその中の一人が言う。
「ほら、見て」先輩の視線の先には、雲一つない蒼空。
「あそこが、私たちの仕事場よ」そのあと先輩は、同意を求めるような声で続ける。「ね、大空も、あなたの門出を祝っているでしょう」
「晴れ女なのよ、あなたは」もう一人の先輩が、微笑んで言う。「こんなに良く晴れた日は、めったにないの。とても珍しいの。あなたが連れてきたのよ、きっと。私たちの業界にとって、あなたみたいな晴れ女は、とても貴重な存在なの。もちろん、お客様にとってもね」
それを聞いた彼女は、恥ずかしそうに笑う。そして、思う。
会社の誰もが優しくしてくれるのも、この穏やかな天気も、全部、このお守りのおかげなんだわ。
彼女は制服の上から、お守りを、そっと押さえる。そして、心の中で小さく呟く。
これから先も、私を、見守ってね。
そこまで言ったところで、あくびをするMが目に入った。
Mとは大親友だが、お互いに、最低限の礼儀は守ってきた。オレの話の途中で、彼があくびをするのは、決して珍しいことではない。しかし、真正面からは、初めてだった。しかも、喉の奥まで見えるような、大あくび。
でもオレは、そのことを指摘しない。気にも留めない。ちょっと苦笑いを浮かべただけ。
こいつは、目を開けながら眠っているのかもしれない。本気でそう思った。
なにしろオレたちは、二日連続の徹夜。オレは徹夜には慣れている。でも、Mは半年以上失業中。その間、好きな時間に起き、好きな時間に寝ていたのだろう。それに、ここひと月ばかり、夢と現実と妄想の区別が付かない日が続いていたと言っていた。
「なあ、おい」Mに声をかけた。「俺が、見えているのか?」
Mは面倒くさそうな声で「そんな質問なんかしてないで、さっさと話を進めろよ」と答えた。
言葉は短かったが、少しろれつが回らないような感じがした。それに目に力が入っていない。
起きているにしても、どうせオレの話は聞いていない。
そう判断したオレは、途中を省いて、結論部分を口にした。
「だが、彼女の初フライトは、惨めな結果に終わる。エコノミーは満席なのに、ファーストクラスの座席には誰もいなかったからだ。しばらくして彼女は自分が「永遠のゼロ」というニックネームで呼ばれていることを知り、愕然とする。しかし、事実だけに何も言えない。彼女の搭乗日は、なぜかいつも快晴。しかし、彼女が担当する座席に、一人の客もいないのだ。さらに、機長の一人が言った次のセリフが、彼女を奈落の底に突き落とす。悪天候でも結構。操縦が難しくても構わない。満席の方が、ずっと嬉しい」
そこでオレが息継ぎをするのを待っていたかのように、Mが口を挟んだ。
「そろそろ時間だろ」
ステーキ屋のスタッフに見送られて、オレたちは店を出た。
店先で、青く晴れ上がった空を見上げて、二言、三言話したところで、スマホが震えた。
姿勢を正して「今、終わったところです」と言って横を見ると、眠そうな顔をしたMと目があった。好都合だった。「羽田まで送ると言ったんですけど、どうしても、と言うものですから」と言って、彼にスマホを差し出した。「会長からだよ」
Mは一瞬、嫌な顔をした。
いいから、出ろよ。
目だけで急かすと、彼はしぶしぶという感じで、スマホを受け取った。
「いろいろお世話になりました」事務的な声でそう言ったMは、しばらく首をかしげるような仕種を見せた後「もう一度、お願いします」と言って、スマホを耳に押し付けたが、すぐに「いえいえ、とんでもありません」と慌てたような声で言って、放り投げるようにしてスマホをオレに返した。
てっきり、会長が謝礼の金額を口にしたと思った。その金額のデカさに驚き、頭が混乱して、とっさに断ったのだろう。
しかし、そうではなかった。
電話を切ると、Mは気色悪そうな顔で言った。
「何のことかと思ったら、私のことを、じいさんと呼んでほしいんですが、だってさ。何考えているんだ、お前のところの会長は」
でもオレには、会長の気持ちが理解できた。
フランクな気持ちで付き合える相手が、やっと見つかった。そう思ったから、断られるのを承知で、会長は言ったのだ。
会長を知るほとんどの人は、会長を雲の上の人のように崇めている。誰もが恐れる大親分。口が悪いことで有名な大将。そのような人々も、口をそろえたように、会長を、あなた様と呼び、私もいつか、あなた様のようになりたいと言う。
一代で巨万の富を築き上げた会長の口から発せられる言葉の一言一言を、自分なりに解釈しようと、誰もが耳をそばだてる。
なのに昨日のMは、一時間以上も仏頂面だった。
「お前、昨日の会長の話、全然聞いていなかったよな」
とカマをかけてみると、意外なことに彼は首を横に振った。
「あんなに面白い話を聞いたのは初めてだった。億万長者になるまでには、いろんな苦労があったんだな」
お世辞や、おべんちゃらではなさそうだった。
「でも、横から見ていたけど、表情はなかったぞ」
「そう見えていたかもしれないな」Mはにこっと笑った。「なにしろあの時は、腹が減っていたからな」
初耳だった。「腹が減ると、顔の筋肉がつっぱるわけ?」
「いや、その逆、ゆるむんだ」その後、Mは付け加えた。「でも、コーラが一本あれば、どんなに腹が減っている時でも、三時間ぐらいなら緊張感を保つことができる」
再び、スマホが震えだした。
Mの顔写真の請求が来たと思ったが、登録していない番号からだった。
通話を始める前に、局番を確かめてみた。
ピンと来るものがあった。多分、あの子だ。
「もしもし」大きな声でそれだけ言って、耳元に神経を集中した。
「あのう、わたくし……」
こちらの様子をうかがうような、遠慮がちな声。予想した通りだった。
「ちょっと待っててね」
スマホにそう言ったあと、Mに視線を移した。
「ほら、昨日のあの子からだぞ」
しかし、焦点の定まらない目で遠くを眺めている彼に、こちらを振り向く気配はなかった。