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運転手の提案【M視点】

 地べた里庵に着いたところで、運転手は意外なことを言った。

「料金は、けっこうでございます」

 最初は、意味が分からなかった。しかし、アレかもしれないと思った。

 撮影料。携帯で彼を撮ったお礼の意味だ。

 でも、すぐにそれを取り消した。むかし僕が映像の世界に関わっていたことは知らないはず。それに、あんなものは僕にとって撮影ではない。

「どうしてなんですか?」

 僕は財布からとり出した五千円札を持ったまま訊いてみた。

「ちょうど一万人目の、お客様だからです」

 絶対ウソだと思った。

 タクシー運転手としての経験年数や、平均的な年間乗客数が分からない状態で、そんなふうに断定したのは、もしそうだとすると、あらかじめ用意しておいた一万人目の文字が入った印刷物か、記念品があるはず。それに、言い方が、取って付けたような口調だったからだ。

 しかし、いずれにしてもこの申し出は、善意から出てきたものだろう。でも僕はそれを断ることにした。割引は受け入れられるが、タダとなると駄目なのだ。タダになって儲かったとか、得をしたと思ったことは、一度もない。

 たぶんそれは、幼いころ祖母から幾度となく聞かされた、正当な仕事には、正当な報酬を。という言葉のせいだ。

 要するに、彼の好意は僕にとって、心の重荷にしかならない。でも、三割引ぐらいなら考えてもいいですよ、なんて言うわけにはいかない。そこで僕は、ふと頭に浮かんだことを口にした。

「一万人目の記念すべき乗客として、お願いがあるんですが、」

 そこで言葉を切ると、運転手は、え? という表情をした。

 僕は神妙な顔を作って、こうつづけた。

「こんなこと、僕は初めてなんです。今日の記念に、おつりを神棚に供えたいんです。だから、どうぞ受け取ってください」

 もちろん僕のアパートには、神棚もなければ仏壇もない。

 咄嗟の作り話に、どのような反応が返ってくるのだろう。興味津々待っていると、運転手は三秒ほどの沈黙の後、僕の意見をすんなり受け入れた。

「分かりました。ありがたく頂戴いたします」

 押し戴くような恰好で五千円札を受け取ると、それを助手席のセカンドバックに仕舞い、手が切れそうな新札とコインで、おつりを差し出した。


 地べた里庵のおばちゃんは、新規オープンを前に忙しそうだったが、作業の手を止めて僕を温かく迎えてくれた。

「森伊蔵を融通して貰ってありがとうございました。あれがなければ、今回の東京行きはありませんでした」

 とお辞儀をしたところで、電話が鳴った。

「ちょっと待っててね。すぐ終わるから」

 おばちゃんは、カウンターの上の携帯を手に取った。

「モシモシ、ああ、あれね。あれは400グラム入り、でも、醤油の方はいちばん大きい奴。そう、そう、辛口の方、……」

 どうやら、料理に使う調味料の話をしているらしかったが、相手とのコミュニケーションが上手くとれていないのか、違う違う、そうそう、いや、そっちじゃなくて、ほら。そんな会話が続いた。

「ゴメンね、待たせてしまって。いま休もうと思っていたところだから、一緒にお茶でも飲もうか」

 おばちゃんが、ポットに手を伸ばしかけたとき、また携帯が鳴った。おばちゃんは再びゴメンねと言って携帯を耳に当てた。

「あ、昨日は、わざわざお越し下さいましてありがとうございました。あの件でしょ。あれは、主人と話をしたんですけど、やっぱり、お客さんがいらっしゃらないときの方が、私どもとしては都合が良いんですけどねぇ……、えー、はいはい、あ、でも、オープンしても、だれも来ないかも知れませんけどね。あはははは」

 どうやらマスコミ関係者からの電話のようだった。

 その電話がやっと終わり、

「実を言うと、お土産を買う時間がなかったものですから」

 と言ったところで、また携帯の着信音。

「え、なんちね、今からね、うんにゃ、そいは無理。今、大事なお客さんが来やったばっかい。また、後から電話しなさい。そいなぁね、切るからね」

 言葉づかいが極端に変わったところを見ると、親しい人からの電話だったらしい。

 僕のことを、大事なお客さんと言ってもらえたことは、非常に嬉しかった。たぶん、あと何日か後に、Pの会社から何かが届く。そのときは、そっくりそのままこの店に持ってこよう。そんなことを考えたところで、またしても着信音。

「ごめんね」

 気の毒そうな目で僕を見るおばちゃんに、

「じゃあ、近いうちに、改めてお礼に伺いします」

 とだけ言って店を出ると、目の前に、気をつけの恰好で立っているタクシーの運転手の姿があった。

 彼も、おばちゃんに用事があったんだ。僕に遠慮して、今までここで待っていたんだな。そんなふうなことを思いながら、

「またいつか会えるかも知れませんね」

 と会釈すると、彼は、恐縮したような声で、

「五、六分でけっこうです。私の話を聞いていただけないでしょうか」

 と言った。


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