僕にとって必要な出来事 2 【M視点】
今度も完璧だった。
へそのあたりを中心に、くるくるくるっと数回転。最後は鉄棒から手を離すと、二メートルほど離れた地点に、ぴたりと着地。年齢を感じさせない見事な出来映え。観客が居れば間違いなく拍手が起こっていた。
後方支持回転の成功は、幼い頃から鉄棒が苦手だった彼の夢だったのだろう。数十年ぶりの初成功を記録するだけなら、この時点で録画停止。だが、それだけではもったいない。もっと多くの情報を、この映像の中に詰め込んでやろう。ついでに、僕のあの新商品も。
僕は急いで運転手の前に回り込んで、彼にレンズを向けた。
夢が叶った喜びに浸っているのかと思ったが、相変わらず表情は強ばったままだった。どうやら自分のやったことが、まだ信じられないらしい。
それなら緊張をほぐしてから、事実を伝えてやろう。僕は笑顔を作って言った。
「すごかったですね、いまの技。まるで体操選手みたいでしたよ」
しかし、運転手は突っ立ったまま、何も言わなかった。でも、僕の言葉でほんのすこし表情が和らいだように見えた。よし、もう一押し。
「でも、まだ夢だと思っているんですよね」
と念を押して訊いてみると、彼はちいさく笑って、こくんと頷いた。
会話がスムーズになってきたのを確認した僕は、先ほどの提案を、一カ所変えて言ってみた。
「僕の電話を使って、今起きたことを、誰かに伝えてみませんか?」
変更部分に、違和感を覚えたのか、運転手はしばらく首を捻っていたが、やがて落ち着いた声で「どうして、あなたの電話からなんですか?」と言った。
「証拠固めです。ここが現実の世界だという証拠を、残すためです」
「証拠?」ちいさく呟いた運転手は、なぜか肩を大きく上下させたあと「本当にこれは夢じゃなくて、実際に起こったことなんですか?」と言った。
あまりにも真剣な表情で迫ってくるので、後ずさりしそうになった。
「ええ、まちがいありません」と答えながら思った。
彼が夢だと思っているものは、鉄棒だけではなさそうだ。
たとえば、今も、彼にしか見えない何かが見えているとか、彼の体の中で、何かが起きているとか。
とたんに他人事とは思えなくなった僕は、なぜ僕の携帯を使うか手短に伝えた。
「あなたが納得できる証拠を増やしたいんです。僕の携帯を使えば、僕の方にも通話履歴が残ります。そうすれば、信用度が増します。それと、鉄棒の映像のあとに、電話をしているあなたの姿と声が入っていれば、完璧だと思ったものですから」
「なるほど」話の途中で、彼は周囲を見回した。そして納得したような声で「おっしゃる通り、夢ではないのかもしれませんね」と言った。
「あ、もしもし、おいじゃっどん」
運転手が、鹿児島弁丸出しで言うと、同じアクセントが漏れ聞こえてきた。
「補聴器を取りに、戻って来っとじゃなかったとね」
どうやら相手は、奥さんらしい。
「うんにゃ、急用ができたで、仕事はもうこれで終わり。補聴器は、机ん上に載せちょってくれ」
と言ったところで、彼は何か思い出したように「今、テレビで何を見ちょっとよ」と言った。
会話は、それだけだった。鉄棒の、ての字もでなかった。
通話が終わった携帯を、ウエストポーチに仕舞いながら、がっかりした。
運転手に起きた、夢のような奇跡が、どのようなものなのか聞けると思っていたからだ。だが同時に、今の会話の中に、夫婦だけに分かる符丁のようなものがあって、肝心な部分は、すでに伝えた終わったのかもしれないと思った。
だとすれば、この運転手は、的確な状況判断ができる人物。頭が切れるタイプ。これから僕が何を言おうとしているか、分かっているのかもしれない。
それなら、言われる前に、言ってしまおう。
「今度は、僕を撮ってもらえませんか?」
返事を聞く前に、携帯電話を彼に返した。もちろん録画状態のまま。レンズは、僕の方に向けて渡した。
「いいですよ」携帯を構えたまま、運転手は「何を撮ればいいんですか?」と言った。
「これです」
ジャケットの内ポケットから、機内でもらった紙袋を取りだすと、運転手は、場の空気を読んだらしく、インタビューするように、
「その中に、一体、何が入っているんですか?」
と言った。
中身を取りだした僕は、カメラ目線になるように、レンズに向かって、にこっと笑いかけた。それから、ただのアイマスクに見えるかもしれませんが、最新式の映像機器なんです、と言おうとしたが、思いとどまった。
たぶん信用してくれない。せっかく静まった彼の頭の中を、また掻き乱してしまう。良いことは何もない。
「最新式のアイマスクです。とてもよく眠れるんです」
僕はそう言って、それを元のポケットに仕舞った。