悩み多きタクシー運転手 【運転手視点】
あぶない、あぶない、もう少しで事故を起こすところだった。
免許証取得以来、四十八年間無事故無違反を続けている運転手は、ホッと胸を撫で下ろした。
それにしても、なぜ、居眠り運転をしてしまったのだろう。昨夜も、いつもと同じようにぐっすり眠ったはずなのに。
彼は後部座席の乗客に悟られないように、ゆっくりとブレーキを踏んで速度を落すと、
首の運動をするふりをしながら、左右に視線を送った。眠っている間にどれだけ走ったのか確認しようと思ったのだ。
あれっ、
運転手の口から、戸惑いに似たつぶやきが漏れた。車は、先ほどとまったく同じ位置にあったのだ。電停横の横断歩道の手前に停車したままだった。
おかしいな。この交差点は、さっき通り過ぎたはずなのに。
自分の置かれている状況が、把握できない彼の頭に、ある言葉が浮かんできた。
脳梗塞。
まさか、その前兆ではないだろうな。
しかし彼は自信をもって、それを打ち消した。
健康診断は先月受けたばかり。どこにも異常はなかった。血管年齢は二十歳以上も若いと褒められた。親、親戚に脳梗塞や脳溢血で倒れた人間は誰も居ない。
とりあえず落ち着きは取り戻せたが、気になるものがあった。
つい先ほど頭の中で光った白い光と、直後の夢。その二つがまだ脳裏に焼き付いている。
今見た夢と言うのは、自分の念願が天に通じた夢。まさに夢のような夢だった。
だが彼は、そこで気がついた。
今は、そんなことを考える時ではない。停車中でも乗客がいなくても、居眠りしてしまった時点で、タクシー運転手としては失格。客の命を預かっているんだ。初心を忘れず、もっともっと気合いを入れて運転しろ。
だが、自分を叱責しながらも、頭の隅に浮かんでくるものがあった。
今のは、夢ではなかったのかもしれない。本当に、肩こりが解消しているかもしれない。
一旦、そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。
可能性は低い。極めて低い。だが、ゼロではない。
運転手は、直ちに検証に取りかかった。
ほんの少し、体を左右に動かすだけで、結果を知ることができるからだ。
運転手の頬に、すぐに笑みが浮かんできた。
しかし、喜びのそれではない。自嘲の笑みだ。乗客がいなかったら、間違いなく、深いため息が出ていた。
やっぱり夢だった。その証拠に、両肩、首筋、脇の下、腰、体中がガチガチに凝り固まったままだった。
そりゃ、そうだろう。いくらなんでも、長年連れ添った頑固な肩こり体質が、一瞬で消滅するはずがない。それに人間なら誰でも、年とともに五感の全てが退化していくようにできている。だんだん耳が聞こえなくなっていくのも、補聴器を忘れたのも、年のせい。
頭の中でグチっている最中に、背後から声がした。
「どうして、あの店をご存じなんですか?」
声の主は、分かっていた。それに、大声でも、突飛な質問でも、唐突な問いかけでもなかった。
にもかかわらず、運転手の体が一瞬ビクッと震えたのは、補聴器をつけていないのに、相手の声がくっきりと聞こえ、かすかな訛りまでもが、はっきりと聞き取れたからだ。
音量自体は、還暦祝いにもらったデジタル補聴器と変わらなかったが、音の明瞭度となると、補聴器は相手にもならなかった。
そう、この運転手は、聴力の低下にも悩んでいたのだ。
ひょっとすると、あの閃光のおかげで、微妙な音の違いを聞き分ける能力を授かったのかもしれない。
荒唐無稽な考えだということは分かっていた。だが、とりあえずそう思うことにした運転手は、改めて、バックミラー越しに乗客を見た。
駅の駐車場で声をかけられたときは、関東方面からの旅行者だと確信した。でも、今の短い言葉の中に、ほんのわずかな鹿児島訛りがあった。数値で言えば、三百分の一程度だろうか。
今回だけは、自分中心でいこう。客の質問に答えるのは、そのあと。
これまで何回か、接客の良さで表彰を受けたことがある運転手が、そんなふうに心を決めたのは、とても人の良さそうな顔をした乗客だったからだ。
仮に東京生まれの東京育ちだったとしても、絶対に怒らない。笑い飛ばした後で、どうしてそう思ったんですか、と質問してくるぐらいだろう。
覚悟を決めた運転手は、笑顔を作ってからバックミラーに映る乗客に訊ねた。
「お客さんは、こちらの方ですよね」
すかさず軽快な声が返ってきた。
「はい、そうです」