偶然耳にしたもの 【M視点】
飛行機を降りるまでは、鹿児島中央駅まではリムジンバス。その後は市電を乗り継ぎ、電停からアパートまでは徒歩。
別に意識もせずに、そう決めていた。
しかし、空港ビルを出たところで、気が変わった。ここ数日、数え切れないほどの幸運に恵まれていたことを再認識したからだ。
今回の招待旅行中、一円も使っていない。その上、高価な映像機器を、タダでゲット。食事は最高。部外者立入禁止の場所にも連れて行って貰った。往復ともファーストクラス。サウナで買った着替えの下着も、Pが支払った。
幸運の独り占めは良くない。誰かにお裾分けをした方がいい。
丁度そのとき、僕の視線の先にあったのは、客待ちのタクシーの長い列。先頭の車の後ろドアは開けてあるが、乗り込む客はいないようだった。
そういえば、ファーストクラスで一緒だった二人は、迎えに来た黒塗りの33ナンバーの後部座席に消えた。
財布の中には、ATMで下ろした現金がそのまま入っている。たまには、人助けになる贅沢をしてもいいのかもしれない。
タクシー乗り場に向かおうとしたとき、誰かの声がした。
何を浮かれているんだ、お前。こんな時こそ、冷静さが必要なんじゃないの? それに今日の予定は、一件だけだろ。急いで帰ったとしても、相手がいなければ、何にもならないんじゃないの?
あたりを見回したが、誰もいない。たぶん睡眠不足が原因の空耳。でも、確かに、そのとおり。
結局僕は、リムジンバスを選んだ。そして最前列に座って、そのまま約四十分間、文字どおり死んだように眠った。
中央駅に着いたら起こして下さいね、
と、運転手に頼んでいなかったら、間違いなく、そのまま終点まで行っていた。
「ありがとうございました」
運転手に礼を言ってバスを降り、しばらく歩いたところで、僕は足を止めた。
何かが、変だった。
と言っても、気分が悪くなったとか、体の調子がおかしくなったというわけではない。
その逆だ。
あまりにも体が軽かった。気づいたら鼻歌を歌っていた。周りの景色が、やけにくっきりと見えていた。
その理由を考えてみた。
たぶん、バスの中で熟睡したからだろう。なにしろ二日間一睡もしなかった。自分では気づかなかったが、体力も視力も、ずいぶん衰えていたはず。それが、元に戻っただけ。
そんなことを思い浮かべながら、地下道に向かって歩き始めたとき、聞き覚えのある言葉が耳に入ってきた。
ジベタリアン?
思わず立ち止まってしまったのは、それが、今日中に顔を出さなければならない店の名前と同じだったからだ。
地べた里庵なんて、そんな風変わりな店は、僕が知る限り、鹿児島市内ではあそこしかない。
声が聞こえた方に目をやると、談笑している二人組が見えた。
彼らの後ろに見える車の屋根には、個人タクシーのマーク。どちらも年季の入った制帽をかぶっていた。白髪の方が紺ズボンに、オレンジのポロシャツ。もう一人は、白ズボンにアロハシャツ。
どうやら構内乗り場で、順番待ちをしている個人タクシーの運転手らしい。
漏れ聞こえてくる声からすると、ジベタリアンと言ったのは、白髪の方のようだ。
しかし、よく考えてみると、あの店は、まだ、オープンしていないはず。聞き間違えた可能性が高いが、僕の知っている店の話だったとすると、このまま通り過ぎるわけにはいかない。
あの店のオーナー夫婦がいなければ、今回の東京行きは、絶対になかった。
僕は少し考えた後、ウエストポーチから携帯を取りだした。そしてメールを確認するような振りをして、彼らの近くまで歩いて行った。
「そいが、わっぜー、おもして店でねぇ」
久しぶりに聞く、ごてごての鹿児島弁に、つい笑ってしまった。
言ったのは、白髪の運転手。顔の皺の多さからすると、還暦は過ぎた感じ。
「そん店ち、どげな店な。よかオナゴが、どっさいおっとな」
こちらは、もう少し若い。でも、五十はとっくに過ぎているはず。二人に通行人の耳を気にする様子はなかった。笑顔を絶やさず、大声で話していた。どうやら、話の内容に事件性はないらしい。
その店のおかみさんの名前が出てきたところで、僕は携帯をウエストポーチに戻して、白髪の運転手に声をかけた。




