表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/25

前兆 【M視点】

 エコノミークラスの乗客数は分からないが、ファーストクラスに三人の乗客を乗せた鹿児島行きの飛行機は、羽田を定時に飛び立った。

 客室乗務員が持ってきたアイマスクを装着したのは、水平飛行に移ってしばらくした頃だった。

 とても軽くて、遮光性に優れていた。付けたとたん、目の前は真っ暗。暗黒が広がる闇の世界に迷い込んだような錯覚を覚えた。

 数秒後には夢の世界。

 果たして、どんな夢を見るのだろう。まさか、パソピアのお婆さんや、トリエステは出てこないだろうな。

 そんな事を思いながら、シートをゆっくり倒した。

 しかし、どういうわけか、いつまでたっても眠ることができなかった。

 意識が遠のき始めたと思っていると、それがまた、ゆっくりと戻ってくるのだ。眠りの世界に引きずりこまれそうになる僕を、だれかがそっと引き戻す。そんな感じが繰り返されるだけだった。

 でも、体に異常を感じることも、気分が悪くなることもなかった。しかし、不安はあった。いかなる交通機関の中でも、その気になれば、すぐに眠ることができる僕にとって、初めての経験だったからだ。

 どうしてなんだろう?

 真剣に考えてみた。

 思い当たることが、ひとつ浮かんできた。

 ひょっとすると、アレが原因かもしれない。認めたくはなかったが、可能性がないことはない。

 ファーストクラスの重圧。

 この僕だけが、機内の雰囲気に溶け込んでいない。ファーストクラスという名称に貫禄負けしている。

だが、僕はそれをすぐに打ち消した。

 いや、それはない。あるはずがない。絶対に眠ってやる。爆睡してやる。着陸までずっとそれをキープしてやる。

 そういえば世の中には、不眠症に悩む人が大勢いると聞く。だったらこの機会に、その克服法を見つけてやろう。そしてそれをネットで流してやろう。そうすれば、一人くらい喜んでくれる人がいるかもしれない。

 思い立ったら、即実行。Pの会社に、そんな社訓があるらしい。

 まず、オーソドックスなことから試すことにした。

 ヒツジが一匹、ヒツジが二匹、ヒツジが三匹……

 つぶやくように数えていたとき、待てよ、と思った。

 今いるところは、太平洋上空、32000フィート付近。

 交通機関に、陸、海、空の区分があるのなら、そこには、縄張り意識のようなものが存在していても、おかしくない。

 となると、陸上動物のヒツジはまずい。非常にまずい。ここは空を飛べる動物。つまり、鳥類で数えなければならないはず。

 32000フィートといえば、約一万メートル。そこを時速九百キロ程度で飛行中に、カラスやスズメは似合わない。

 高い空を高速で飛ぶ鳥、それが必須条件。

 それですぐ思い出したのが、ツバメとハヤブサ。でも、どちらも時速200キロ未満だったような気がする。それにこの高度だと、酸素は少なく、気温も氷点下五十度前後。空中に浮かんでいることさえできないかもしれない。

 と、そんなことを考えている途中で、ヒマラヤ上空を飛ぶ鶴の特集をテレビでやっていたことを思い出した。

 世界最高峰の山、チョモランマの上空を優雅に舞っていた鶴。

 あの鶴の名前は、何だったっけ?

 姿形ははっきり覚えている。翼の色は白と黒で、とても気品があった。

 しかしどうしても、その名前を思い出すことができなかった。でも僕は、バカを承知でやってみることにした。昔から言う。何事も、試してみなければ分からない、と。

 ヒマラヤ上空を飛ぶ鶴が一匹、ヒマラヤ上空を飛ぶ鶴が二匹、ヒマラヤ上空を飛ぶ鶴が三匹……

 百まで数えたところで、コンドルに切りかえてみた。しかし、数える毎に、目が冴えてくるだけだった。


 強い違和感を覚えたのは、次の鳥を何にしようかと考えていた時だった。

 自分の体が、グニャリと変形したような感じがしたのだ。

 しかしすぐ、それが錯角だということに気づいた。アイマスクで何も見えなくても、自分の体がシートにしっかり固定されているのは分かっていたし、ジェットエンジンの音も聞こえていた。

 十秒ほどで、普通の状態に戻ったが、脈拍が少し早くなっているような気がした。

 どうしたんだろう? 気のせいだったのだろうか、それとも…… 

 アイマスクをつけたまま、考えているうちに、原因らしきものをみつけた。

 気圧の変化。たぶん32000フィートの高度が関係している。気圧の変化に三半規管がついていけなかったんだ。きっとそれに違いない。

 と思うことで、気持ちを落ち着かせようとしたのだが、よく考えてみると、僕の三半規管は、そんなヤワじゃない。回転椅子に座って、グルグルグルと何十回回された後でも、真っ直ぐに歩くことができる。

とそこで、ぷかりと頭に浮かんできた言葉があった。

 腹式呼吸。

 アイデアが見つからない、考えがまとまらない、藁にもすがりたい、そんなときに、腹式呼吸をすれば、気持ちが落ち着く。費用はゼロ。道具もいらない。いつでもできる。どこでもできる。解決法も見つかる。

 Pは、そのようなことを並べ立てていた。

 でも、そんなことはないと思う。呼吸法を変えるだけで、物事がうまくいくのなら、この世の中に悩み事が溢れているわけがない。どんなに勧められても、俺は絶対にやらない。

 Pには言わなかったことを、頭の中で言った後、考えを変えることにした。

 理由はこうだ。さっきも言ったように、何事も、試してみなければ分からない。

 人間は、好むと好まざるにかかわらず、呼吸をしなければならない。それに、ここは何もすることがない飛行機の中。

 この際、時間つぶしもかねて、本当にそのような結果がでるかどうかを、自分の体で確かめてみよう。と、まあ、そんなふうに思ったのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ