第七話 襲撃
昨日の夜は星が綺麗だった。
そんな何処かの本の一文を丸パクリしたような感想が出てしまう程、本当に綺麗だった。
幾億もの星達が夜空で作り出す光のベール。光が少ないこの山で見るその光輝は、普段見る星が濁っていたのかと錯覚する程に鮮やかで美しかった。それを唯香と色々なことを語り合いながら眺めて過ごした。
……筈だ。そのまま眠りに入ってしまったが、確かに直前まで唯香がいた記憶はある。俺の隣で寝袋に身をくるめていた。
なのに、今目覚めると、何故か隣の寝袋は空。ニャン吉の奴は定位置でばっちり寝てやがるのに、唯香の姿は何処にも見当たらない。俺は立ち上がって周囲を見回してみる。すると少し離れた大きい岩の影、そこに人影があるのを見つけた。そこに一応警戒して、音を立てずに歩み寄ることにした。
……近づくとそこには唯香の姿は見当たらない。ただ代わりに、俺より背丈が少し小さいくらいの知らない女性が何故か俺達の使っていた敷物に座っていた。俺に背を向け、やけに体に合わないどこか見覚えのあるミニサイズの服を無理矢理来ている。その後ろ姿は何処ぞの誰かとよく似た雰囲気を感じ、顔が見えないのに直感で感じる。
――彼女、間違いなくどストライクだ。
その腰ほどまで伸びた美しい黒髪も相俟って後ろ姿からして既に魅力的、美しさが垂れ流されているかのように何とも言い得ぬ妖艶で魅惑的なオーラを感じる。
等と考えながら彼女を観察していると不意に、服に彼女が手をかけた。かと思うと同時に服を脱ぎ出した。
寝惚けていた頭も一気に冴え、反射的に顔を逸らしてしまう。
びっ、びっくりしたー! あの女の人、俺が起きてるとも気付かずに急に脱ぎ出すもんだから思わず顔を逸らしてしまった。
しかし――ちくしょう、何やってんだよ、俺は。
何で、こんな人生でも滅多に見ることが出来ない女子の生着替えシーンから目を背けているんだ。バカじゃないのか、これを逃したらもうお目にはかかれないかもしれないんだぞ。
俺は男として、背徳感等に負けず、この映像を脳裏に焼き付ける!
そう思い至り、顔をまた女性の方に向ける。
なっ、なんだと! なんと彼女の上半身はまさかの既に全裸になっていた。当然服を着ていた時以上に妙な艶かさを放つ透き通るように白いその背中の鑑賞を妨害するものは何もない。
だっ、ダメだ、急過ぎる上に想像以上に刺激が強すぎる!
っと思ったのも束の間で、すぐに体の前面、主に胸の辺りに何かを付けたかと思うと、そこから左右を通して、肩から伸びた紐が繋がっている細長い二本の帯を背中で合わせてホックを止めた。
……なんだ、あとは服を着るだけか。さて、もう用は済んだし行くか。
――っと去ろうとしたところで、不意に振り返った彼女と目があった。
バッと急いで服を着る彼女。暫し流れる沈黙。
「……。……やあ、初めまして。今日は良い天気ですね」
「……(プルプル)」
「どうしたの、そんな怖い顔しながら体震わせて? 風邪なら気を付けた方が良いよ」
「……(プルプルプルプル)」
「おっとそうだ、こんな日は周囲を散歩でもしにいこうかな」
「疾太さんのバカー!」
可憐な容姿からは想像できない、予想以上の力で殴られた。
☆★☆★☆★☆
「まだ着替えあるので、あっちで待っていてください。……もう一度覗いたら、命の保証はありませんからね」と全く目が笑っていない笑顔で言われたので、石の上で待つこと五分。着替えを終えた彼女がやってきた。
着替えられた服装は、白いTシャツに上にグレーのパーカーに下はショートパンツといったもの。これもまた似合いすぎているぐらいだ。
「えっと、――さっきは本当にすいませんでした」
立ち上がって、九十度背中を曲げる。これは俺の心からの謝罪だ。
例え最初は意図していなかったとはいえ、いくらこんな綺麗な女子の生着替えを一度見てしまったらもう目を背けることが出来ないのが男として当然なことだとしても、思春期の女の子の着替えシーンを覗いてしまったのは酷過ぎたと思う。
「全く、これだから疾太さんは! ……女子の着替えを除き見るとか最低ですよ」
彼女はプーと膨らんだ顔で怒りを表現している。
「本当にごめん!」
「ハァ……まあ、反省しているみたいだし許しますよ」
「本当、ありがとう!」
なっ、なんて良い人なんだ! 流石に謝っても許してもらえないだろうなと思っていたのに。本当にありがたい。中身も見かけと一緒で綺麗な人だ。
「それに……」
「んっ、それに?」
「急なことで、かっとなってしまったとはいえ、殴ったのは私も悪かったです。それは、すいませんでした」
ペコリと頭を下げる彼女。そんな、俺が悪いのに許してくれるどころか自分の非も認めるなんて。あれは当然の報いだろと受け入れていたから、別に気にしてないんだが。
しかし、この優しいところはやっぱり……。
「それは良いよ、俺が悪かったんだし。で、ちょっと悪いけど話変えて良い? 聞きたいことあるんだけど」
「えっ、別に良いですけど、何ですか?」
最初見た時から思っていた疑問。いや、疑問というよりほぼ確信しているから、確認の意味合いが強い。突然消えた唯香に、どことなく、否確かに似ている雰囲気を感じる彼女。
「もしかして君は――唯香、ちゃんなの?」
聞きたいことがあると聞いて疑問符が張り付いていた彼女の顔は、徐々に口元が緩み、遂には腹を抱えて笑い出した。
「真剣な顔で聞きたいことがあるって言うから、何かと思えばそんなことですか」
「なっ、そんなことって……」
確かに他から聞いたら意味不明なこの質問も俺にとっては真剣なんですけど。すいませんね、そんなことを聞いて。
しかし今のでより一層確信した。
このキュンとくる美しい笑顔、顔作り、どれもバージョンアップしたとはいえ、俺の知っている唯香の面影が残っている。それに、さっき見たブ、ブラ……下着には見覚えがある。あれは確か前に唯香がデパートで見ていたのと同じものだった……気がする。あれっ、違うか。いや、同じだ。
「当たり前じゃないですか」
「やっぱりか。でも、本当にあの小学生サイズから大きくなるなんて」
「あっ、そっか。私、大きくなってたから疾太さん、気付かなかったんですね。――そんなに私、変わりました?」
「いや、前にもこうなるかもとは聞いてたし、多分そうじゃないかと思ったから確認しただけだよ。大丈夫、あまり変わってないよ」
というのは照れ隠しで、本当は背以外にも変わっていない訳がない。ていうか、寧ろ平然な顔をするのにかなりの労力を使っている。
理想的とはいえ幼さが残っていた前のサイズの顔に比べて、今は大人らしさを兼ね備えて、可愛いというより美人の方がしっくり来る、こちらも百点満点で百二十点の美貌を有している。あと体の前面にある二つの膨らみも凄くなっている。
ただ変わるというのは、自分でも考えていたし話も聞いていたから理解はしていた。それでも、正直懐疑的な部分もあったのが本音だ。だから、いざ目の前にすると少しは驚いてしまった。
「……なんか大きくなったのにあまり変わっていないっていうのは複雑ですね」
少し口を尖らせて、唯香は不満そうな顔をしている。
そんな顔しなくても、大丈夫なのに。子供というカテゴリーが阻害をしていた前のサイズと比べて、今は誰もが見惚れる大人の魅力を放っているのだから。いや、これは主観とかではなく。
「それより、唯香ちゃん」
「……何ですか?」
相変わらず不満気な顔をしながらも、しっかりこちらに耳を傾けてくれる唯香。
その姿が微笑ましくて思わず笑ってしまう。
「その……その姿で疾太さんって呼ぶの、出来ればやめて頂きたいかな、と」
「えっ、何でですか?」
「もう歳は同じなんだし、それに……なんかその呼び方だと、夫婦みたいじゃん」
自分で頬が上気しているのが分かる。自分で言っといてなんだけど、俺結構恥ずかしいこと言ってるな。
見ると唯香も、同じような顔をしている。
「えっと、じゃあ……疾太、って呼べば良いんですか?」
「ぐはっ!」
「急にどうしたんですか!? 大丈夫ですか!?」
くっ、まさかの初呼び捨てが上目遣いでしかも恥じらいながらなんて。そんなの俺の耐久力じゃ、耐えきれる訳がないじゃないか。ダメだ、俺が平常心を保つ為にも呼び捨ては禁止だ。
「大丈夫、大丈夫。気にしないで。――ていうか、やっぱ呼び捨てはダメだな」
「じゃあ、どうすんですか?」
「もう唯香ちゃんが呼びやすいように呼んでくれれば良いよ」
「……じゃあ、疾太さんで」
「ぐはっ!」
「どうしろって言うんですか!」
くぅっ、やはり意識してから改めて言われてみると、威力が絶大過ぎる。……けど、言われ慣れてる分呼び捨てよりは幾分かマシか。
仕方ないからそれで妥協するか。
「いや、良いよ、さん付けで」
「分かりました。じゃあ、私は呼び捨てで唯香でお願いします」
「えっ、それじゃないと駄目?」
「はい、駄目です。唯香ちゃんだと子供扱いされているみたいで嫌です」
そんなこと言われても唯香、か。なんか今まで呼んでいた呼び方以外で呼ぶのは少し照れくさいな。
「まあ、分かったよ。唯香ちゃ……唯香」
「はい! じゃあ、朝食にしましょうか、疾太さん」
「ぐはっ!」
「だからどうすれば良いんですか!」
てな感じの朝の一悶着を終えてから、俺達はまず朝食の準備に取り掛かかった。っと言っても、やるのは袋から出すだけ。昨日の内に今日の朝の分までは買っておいたから抜かりはない。
後の食料は、同じ箇所に居続ける訳にもいかないので今日もまた移動するだろうから、その際にまたコンビニにでも寄って買えば良いだろうという考えだ。
「ほいっ」
唯香曰く流石に朝だから抑えたということで、バターロールパン、クロワッサン、サンドイッチ、唐揚げ弁当、のり弁当、おにぎり三個、ヨーグルトを手渡す。……って、やっぱ多っ! どこが抑えているんだ。しかも、なんか色々被っている気がするし。
「いっただっきまーす!」
体が大きくなっても相変わらずの無邪気な声でそう言うと、唯香は手に持った食料を一気に口に入れ始めた。余程お腹が空いてたようだ。いや、本当に下手すれば引いてしまうぐらい、普段より凄い勢いだ。しかし、これも体が大きくなったことと関係しているのだろうか。
それに――
「疾太さん、これおいしいですね」
相変わらず幸せそうに食べている。それを見るとこっちの食欲も増してくる。
ニャン吉はまだ寝てるし、後で餌を与えれば良いだろう。
ということで俺も買った弁当の蓋を開けて、早速食べ始める。
「うん、まあおいしいね」
まあ確かに美味い。それは認める。
でも、やっぱり冷えている。一晩明けたから仕方ないけど、味は完璧には程遠い。米とか硬いし。
そうやって多少の会話を交えた後、不意に静寂が訪れる。ただその静寂は居心地の悪い、安心の無いものでは無い。長閑な山の雰囲気に合う、心地の良い静寂。唯香は食べるのに集中して、俺もこの若干落ちた美味な食品を味わいながらこの静けさも味わっている。
聞こえてくるのは鳥の声や風の音だけ。それも聞こえているといっても儚く、静かなことこの上無い。周りを見ても木ばかり。街の喧騒、汚い空気、並ぶ住宅。そんな普段当たり前になっているものは一つもなく、当たり前からかけ離れた空間にいるのに全く違和感は無い。寧ろこれをずっと味わっていたいと思える。本当に静かだ。
でも、その平穏はすぐに崩れ去った。
――俺達が歩いてきた方向から黒い車が走ってきた。
それを見た瞬間、唯香の顔の色が変わった。
「疾太さん、早く逃げましょう! ニャン吉も!」
それまで手を付けていた弁当を突然置いて、俺の手首を掴んで引いてきた。
ニャン吉も首を触られ、ビクッとした後着いてくる。
「ちょっと待って、唯香。どうしたの?」
俺も逆の手に持っていた弁当を置いて、引かれた為走って着いていく。
どうしたのと聞いたが、冷静に自分の頭で状況を分析する。唯香はあの黒い車を見た瞬間、血相変えて逃げ出した。ということは、答えは一つだ。
「あの黒い車、敵の物です」
やっぱりな。でも、どういうことだ。
「でも、唯香は敵を感じることが出来るんじゃなかったの。なんで、車見るまで気付かなかったのさ」
「それは――」
等と話している内に車はどんどん近づいてくる。最初から分かっていた。車に人の足が敵う訳がない。しかもスピードは確実に百キロは出ていた。それでも、無駄だと分かっていても咄嗟に唯香は逃げてしまったのだろう。でも、勿論すぐに追い付かれた。
俺達を轢く勢いで近づいてきた車は、俺達の横擦れ擦れを通って、反転。こちらに向いて止まった。
「あっ、危ねえ……」
マジで今ぶつかると思った。あのスピードで轢かれたらおそらくただでは済まなかっただろう。心臓の高鳴りが止まない。
「大丈夫、唯香?」
隣を見ると、唯香は諦念を感じる溜め息を吐いていた。だが、俺が見ていることに気付くと、ニコリとこちらを安心させるような笑顔を向けてきた。
「私は大丈夫です。それより疾太さんが無事で良かったです」
その言葉を言い終わると同時。ガチャッと音がした。
すぐに車に向き直ると、運転席側のドアが開いていた。そして中から人が出てきた。
「やあ、明日香。久しぶり、だね」
中から出てきたのは黒スーツに身を包み、スラリとした体型と顔をしたハンサムという言葉が似合う整った顔立ちのおっさんだった。
出てきて早速のその台詞なのだが、気になった部分が幾つかある。まず明日香って誰なのだろうか。――そして、それを唯香の方を向いて言っているのは何故なのだろうか。
ふと再び隣に目をやると、唯香はまた溜め息を吐いていた。
「明日香って誰のことですか? ていうか、あなたは誰なんですか?」
同じ疑問を唯香も口にする。
しかし、なんだ。気のせいか今、若干棒読みだったような。
「まあ、そうだろうね。君と最後にあったのはまだ君が赤ん坊だった頃だから、覚えてないのは当然だ。それに何だかんだ色々あって、君を捨てたから私が名付けた明日香という名前も今はもう別のものになっているのだろう」
なんだと……! 今、何だかんだって言ったか……? この場面で何だかんだなんて適当な理由を付けるというのか。
でも今ので確信した。なるほど、これは妄想のシナリオの一つということか。諦念めいた溜め息はもう少しで敵に追い付かれることが分かっていた。棒読みは全てシナリオ通りで分かっていた唯香には何も驚きが無かったからだろう。用意された台本を読むだけの、言わばお芝居みたいなもんだからな。それでも必死にシナリオ通りにしようとしているのは流石だぜ、唯香。
対して、俺の妄想力って……。
「それって、マサカ……」
あっ、棒読みが酷くなった。
「そう、私はお前の父親だ!」
あー、もうどうなってんだ俺の妄想力は! なんてクソ展開してんだ、これ。
「エー、ワタシニチチオヤガイタノカ……」
あー、もう唯香完全に棒読みだし。感情一切無いし。
「そうお前は私のことを知らない。だが、私はお前の能力は分かっている。どうせこのまま人数を使って追い詰めていけば捕まえられるのだが、面倒だからボスである私だけで来た」
なんか聞いてもないこと解説しだしたし! こいつボスだったし!
でも、なるほど。ようやく理解はした。唯香は自分の能力を、危険と判断した相手の位置を掴むことが出来るものと言っていた。つまり敵とは言え、会ったこともない奴を感知は出来る筈も無いってことか。だから、父親の接近に気付けなかったんだな。
「それと勿論、もう一つの能力も理解しているよ、明日香。だから単刀直入に言う――私に着いてきてもらおうか、明日香!」
「もう一つの能力?」
そっちに関しては全くの初耳だぞ。
でも、父親の口振りから察するにどうやらその能力が唯香が追われる理由の本命らしい。
そういえば俺が妄想したシナリオだからってことで納得してしまって、唯香が狙われている理由ってものを全く気にしていなかった。その理由、つまりは能力とは何だったけな? くぅ、全く思い出せない。
「嫌です!」
そこははっきり、自分の意志を見せて声を挙げる唯香。
「嫌、か……。何故だい?」
男は静かに、子供を宥めるように言う。
「現状が気に入っているからです。このままあなたに着いていけば失いたくないものを失ってしまうことになるから……」
「唯香……」
俯いている唯香の表情は分からない。一体どんな顔をしているのだろうか。
でも、俺は自分が今どんな顔をしているかは容易に想像できる。現状が気に入っているというのを聞いて、唯香は俺と同じ気持ちだと知って喜んでいる。
「それに何より、会っていきなりお前の父親だとか言い出す怪しいおじさんに、ほいほい着いて行く訳無いじゃないですか」
超正論だ!
「……それから、私の名前は唯香です」
ニッと自身に満ちた顔で唯香が言う。そう、俺の母親が命名した立派とした名前だ。明日香なんて奴を俺は知らん。
「……そうか、唯香か。じゃあ、唯香。もし、断れば君は辛い思いをすることになると言っても、その答えは変わらないかい」
「変わりません。いや、唯香がなんと答えようと俺が認めません。ということで、どうぞここでお引取りください、お父様」
「疾太さん!」
「ニャー、ニャー!」
ニャン吉も講義を入れてくれているようだ。流石、こいつも分かってるぜ。
にしても、相変わらず諭すように言うクソ親父につい割り込んで言葉が出てしまった。しつこいんだよ、親バカですか、あんたは。
「ちょっと黙っていてくれないか。私は唯香と話しているんだ」
「――いえ、疾太さんの言う通りです。私の気持ちは変わりません」
お互いに向き合ってニッと笑い合う俺と唯香。流石、俺の好きな性格を心得てるな。
「ふむ……。疾太、といったか。君は随分唯香に気に入られているんだね」
「はあ……そうだと嬉しいですね」
なんだ、急に。自分が嫌われてるからって僻んでるのか。
「君と唯香の関係等知らないし興味も全く無いが、ただ唯香は君といる今が気に入ってるらしい。その所為で、私に着いて来たくないと言っている」
「はあ……」
だから何だよ。ていうか、それ以前にあんたみたいな怪しい奴に「来てください」、「はい分かりました」なんて着いて行く奴がいる訳ないっつうの。
「となると、仕方ないな」
仕方ない? 一体何の話だ?
「――君には消えてもらうことにするよ」
「ハアッ!」
聞いた瞬間は理解出来なかった。俺が消えるという言葉の意味が分からなかった。でも出てきた、男がスーツの裏に隠し持っていた銃をこちらに向けてきた時一気に理解した。
――俺を殺す気か。
「うわあぁー!」
「疾太さん!」
銃を向けられ狼狽している中で唯香の声が聞こえ、次の瞬間には体が倒れていた。それと共に響く銃声。
「唯香……?」
「良かった……。間一髪でしたね、疾太さん」
俺の体に横から抱きつく形で一緒に倒れている唯香が、安堵の息と共に言葉を発する。
その状態で、俺が元立っていた場所を見る。そのすぐ後方に聳え立っていた木にははっきりと弾痕が見てとれた。
血の気が引いていくのを感じた。
「さて、これでもまだ答えはさっきのままかい、唯香?」
言葉に反応して男に目をやると、再び銃口を向けてくる。
やばい。マジでやばい。この体勢のままだと躱しようがない。逃げようと動き出そうとしても、その瞬間を狙われて撃たれてしまうだけだ。――それに唯香まで撃たれてしまう。俺は体が硬直したように動けない。
そして、銃声が響く。
「くっ、…………んっ?」
当たった感じがしない。どこからも出血はしていない。
もしや唯香に当たったかと危惧したが、顔を見ると怪訝そうな顔をしているのでそれは無い。
外れた、のか……?
「今のは警告だ。わざと外した、次は撃つぞ」
地面を見るとすぐ横に小さい穴が空いているのが見えた。正にあと数センチで当たっていた。
「唯香! 撃たれたくなかったら、さっさとこっちに来なさい。……お前じゃない。仲間が、な」
「それはダメです!」
バッと両手を開いて、俺を隠すように前に立ち尽くす唯香。
「疾太さんは、撃たせない!」
「何やってんだ唯香、危ないぞ!」
相手は唯香を欲しているから殺しはしない。それは唯香も計算済みの行動だろう。でも命さえ取らなければ、逃げられないようにダメージを負わせてくる可能性というのは充分ありえる。
これは危険な行動だ。
「私は大丈夫です! 疾太さんは逃げて下さい。後で必ず追い付きますので」
何言ってるんだ、女が成人男性の脚力に勝てる訳が無い。そもそも相手に車に乗られたらアウトだ。すぐに追い付かれる。
「残念だ。実の娘だけには手荒な真似はしたくなかったんだが……」
そう溜め息混じりに言った男は、迷い無く銃を唯香に向けた。
「ダメだ、唯香、撃たれるぞ! 一緒に逃げよう」
「それは面倒だな。足でも撃って動けなくしようか。そしてその後にゆっくり、後ろの男の心臓を撃ち抜いてあげるよ」
背中にぞくりと、感じたことのない悪寒が走る。
やばい、本気だ。今度は威嚇でも警告でも無い。
――本当に撃たれる!
「唯香、早く逃げよう!」
「ダメですよ、どっちみちこのままじゃ逃げ切れない!」
「それが一番良い。でもごめんな、唯香」
男は引き金に指をかけ、撃つ体勢を整える。
そして――
「ニャアー!」
「ちっ、何だ一体!」
一気に接近したニャン吉が、男の顔目掛けて飛び掛った。
「「ニャン吉!」」
俺と唯香が同時に叫ぶ。だが、男はその攻撃を間一髪で躱した。
なにっ! 何て反射神経してやがんだ、あいつ。猫の素早い不意打ちを避けれるもんなのか。
でも今のを躱されたのはきつい。
「何なんだ、この猫! 邪魔くさい」
今度は完全にニャン吉に照準を合わせる男。だが、ニャン吉の奴は自分の命が狙われていることを知ってか知らずか、相変わらず男を睨み付けている。
「危ないよ、ニャン吉! 早く逃げて!」
唯香がニャン吉の元に向かおうとする。
それじゃ、意味が無い。
俺は言葉で唯香を制する。
「ダメだ、唯香! ニャン吉は猫だしこれは意図してでは無いと思うけど、何にしろせっかくニャン吉が作ってくれたチャンスだ。そして多分、これが最後のチャンスだ」
「でっ、でも……」
唯香は俺、ニャン吉と交互に目をやって逡巡している。その気持ちは分かる。正直これはニャン吉を囮にするという気持ちの良い作戦ではない。ニャン吉の命が危険だ。でもこれが今俺達が逃げることが出来る最初で最後のチャンスだ。
唯香はそれを数秒続けた後、意を決した表情になるとこちらに向かってきた。
「分かりました、逃げましょう」
「そうはさせるか!」
それを確認すると男は三度唯香を狙いだす。
クソっ、ダメか。チャンスというにはあまりにも短すぎた。やばい、今度こそ撃たれる。
「ニャー!」
「ちっ、邪魔くさい!」
もうダメだと諦めかけていたその時、ニャン吉が男を後ろから攻撃してくれた。背中に爪を立てられた男は一瞬苦痛の表情を見せる。
それは確実に相手の意識を向けさせることが出来るが、つまりその分だけ自分が狙われるリスクが高まる。
ニャン吉の奴、まさか本当にこの状況を理解しているっていうのかよ。
「――クソー!」
「……くっ!」
唯香は戸惑いながらも俺に着いてくる。俺達はひたすら走る。後はあいつが逃げ切ることを祈るしかないから。
「ニャン吉、私達先に行くからニャン吉も早く追い付いて――」
背後から、銃声は確かに聞こえた。
「ニャン吉!」
銃声は聞こえてきたのに、ニャン吉の声は何も聞こえてこない。
振り返って引き返そうとする唯香の腕を掴み、そのまま引いていく。
「離してください、疾太さん! ニャン吉が、ニャン吉が倒れてます! 血を流してるんですよ! 早く助けないと死んでしまいます」
分かっている。今、見えた。
「……助けにいったら、確実に捕まる。そしたら、何もかも無意味だ」
だから、逃げ続けるしかない。
唯香の腕は震えていた。それに、俺も――。
クソっ、クソっ、止まらねえ。震えも足も止まらない。
「ニャン吉……」
唯香の声は震えていた。ギュッと、もう体が大きくなって着けられなくなったブレスレットをポケットから出して握っている。
俺は勘違いをしていた。
楽しんでいたんだ、このシナリオを進めることを。敵が銃を持っていると聞いて恐怖するどころか、楽しんでいた。ヒーローになれるとか、自分が特別な経験をしているとかそんなことばかり考えて勝手に一人で浮かれ上がっていたんだ。自分は無力なその他大勢の一人という事実は変わらないのに、どこかやれる気分になっていた。
いや、そもそも俺は唯香に妄想したことが現実になると言う言葉を聞いて、どこか現実から切り離し夢見ている気分になっていた。誰かが死ぬことなんてあり得ないことだと勝手に思い込んでいたんだ。
でも、今俺の所為で命が一つ失われる。血が、流れた。動かなくなっていた。その現実を見て、心の底から恐怖心が沸いてきた。今更自分の命の危機ってもんにビビッてやがるんだ。
――俺は、本当に馬鹿野郎だ。
「待てっ! 警察には何も喋るなよ。もし何か喋ったら、お前の家族を見つけて殺す!」
後ろから声が聞こえてきた。俺達は反射的に木が無数に並んでいく中に向かって行った。このまま逃げ切れるかは分からないし、大体進むべき道も分からない。でも、ここを通らないといずれ追い付かれる。
「……ごめん」
俺のその一言を最後に、俺達はひたすら無言で進んでいった。




