Taxi
夜の町の大通りの道の端を、疲れきったサラリーマンが一人歩いていた。車のテールランプと駅ビルのネオンサインがげっそりやつれた社畜を惨めに照らす。
サラリーマンは鬱々と歩きながら溜め息を吐いた。
入社したばかりのあの頃は違った。ノリのきいた真新しいスーツを着て、懸命に仕事をこなし、休日には酒屋で同期と共に笑いあった。初任給で親に沖縄旅行をプレゼントした時は誇らしく、これからも頑張 ろうと思えた。
しかし今はどうだ。
たまに同僚と呑みに行けば愚痴ばかり、ただただ這いつくばって今日をやり過ごすのに精一杯で明日も見えない。
楽しそうに腕を組んですれ違う若いカップルの笑い声に打ちのめされながら、サラリーマンは俯いて黙々と歩く。
どうしてこうなってしまったのか。自問し、世の中誰でもこんなものだ諦めろと自答する。
やがてサラリーマンは駅の近くまで着くとタクシーをつかまえた。この日もいつものように労働基準法など都市伝説だと言わんばかりのサービス残業を強制され、既に終電は出てしまっている。余計な出費を強いられるが当然会社は我関せずだ。
「どちらまで?」
タクシーに乗り込みドアを閉めると、年配の運転手がのんびりと尋ねてきた。感傷的になっていたサラリーマンは思わず思い浮かんだ事をそのまま口走った。
「希望に満ちた明日へ」
「あいよ、希望へ満ちた明日までね」
言った直後にしまった、と舌打ちをしそうになったが、幸いにして遊び心が分かる運転手のようだった。これが上司なら冷笑されネチネチと皮肉を言われる。サラリーマンはふっと笑い、少しだけ癒された気持ちで真面目に行き先を告げ
ジャキン!
「えっ」
鋭い音と共に突然タクシーの車体横に翼が出た。見た目は滑らかな金属で、飛行機の翼に似ている。続いてトランクががぱりと開き、中から巨大なロケットエンジンが現れ、重々しい唸り声を上げ始める。エンジンのスロットルが上がるにつれて振動しだした車体にサラリーマンは目を白黒させた。
「え? ちょ、これ……え?」
「お客さん、シートベルト締めてね」
「あ、はい」
あまりにも平然とした運転手の声に思わず頷いて言う通りにする。シートベルトを締め終わると、車体は浮き上がって青いシールドに包まれていた。
「そんな馬鹿な」
「はい発車します」
運転手がアクセルを踏むとタクシーは弾丸のように飛び出した。
強烈なGで背もたれに身体を押し付けられ視界がブラックアウトする寸前、混乱するサラリーマンは窓の外を超高速で流れていく光の渦を見た気がした。
「お客さんお客さん、着きましたよ」
「……ハッ!」
サラリーマンは運転手の声で目を覚ました。寝起きの頭でぼんやりと窓の外を見るとそこは自宅の安アパートの前だった。
「……ああすみません。幾らですか」
「千八百円ですね」
代金を払い車外に出ると、運転手は軽く手を振って夜の静寂の中へ走り去った。
サラリーマンはそれを見送り、ガリガリと頭を掻いて踵を返す。
疲労のせいか変な夢を見た。タクシーが変形したり空を飛んだり……どうもタクシーをつかまえたあたりからの記憶が曖昧だった。
首を傾げながら自室の前で鞄から鍵を引っ張り出したサラリーマンは、ポストに新聞が入っている事に気付く。朝に出し忘れたか、と何気なく新聞を取り出し、その日付をチラリと見て硬直した。
日付がおかしい。一日進んでいる。
愕然とするサラリーマンのポケットから着信メロディーが鳴り、染み付いた習性で半ば無意識に電話に出た。
「はい、田中です」
『やあ田中君。人事部の鈴木だ。夜遅くにすまないね。少し良いかな』
「……あ、はい、こんばんは。大丈夫です」
『今日一日電話が繋がらなかったんだが休みだったのかな』
鈴木の言葉に田中は素早く頭を回転させた。田中の記憶が確かなら今日は一日中携帯の電源を入れていたし、電話もした。が、日付進んだ新聞と鈴木の口振りからどうも奇妙な事態に巻き込まれている事を漠然と理解する。有り得ない事だが――――夢ではなかったのかも知れない。
田中はここはひとまず話を合わせるべきだと判断した。
「ええ、まあ。それで何の用件でしょうか」
追求されない内に話を逸らすと、鈴木は声色を柔らかくして言った。
『おめでとう、君は来月部長に昇進する事になった』
「はい? 昇進ですか? 私が? 部長に?」
田中は思わず聞き直した。話が本当ならば普段仕事を押し付けてくる嫌みな上司を追い抜く数段飛ばしの大抜擢だ。
『驚くのも無理は無いが本当だ。現部長の佐藤君は来月から本社へ異動になるんだが、彼は以前から君を高く評価していてね。是非にと推薦があった。普段から安定して結果を出しているし、勤務態度も真面目だ。私も適任だと思っている』
「……ありがとうございます」
事実がゆっくりと脳に染み込み、今までの辛く長い苦難の日々が報われた感動で田中の声は震えた。それは電話の向こう側にも伝わったようで、鈴木はもう一度祝いの言葉を送ると詳しい事はまた明日、と言って電話を切った。
田中は手の中で沈黙した携帯電話を見て、脇に挟んだ新聞を見て、タクシーが走り去った夜の暗闇を見た。
あのタクシーは本当に――――
「ありがとう」
田中は小さく呟くと、ドアを開けて足取りも軽く自室に入った。
サラリーマンは希望に満ちた今日を歩み始めた。