15(終)
えっと、なんというか、白石さんが僕のワイシャツの袖を掴んでいる。
そんなバカな。
「白石さん……?」
彼女は立ち上がっていた。
ほんの数秒前までは梃子でも動きそうになかったのに。
そして、あの細い腕がそうしているとは信じられないぐらい強い力で、僕の腕を引っ張っていた。
彼女が能動的に僕に働きかけようとした――それだけでも驚きなのに、次に彼女が起こした行動は、僕の短い人生の中で一生忘れられない出来事だろう。
「……アマ」
この一か月ほどで、初めて彼女が発した言葉。
「アマ……?」
僕は頭が混乱して、オウムのように繰り返すしかない。
「Ama kayman jamunchu...」
――それは、日本語ではなかった。
僕が聞き取れたのは最初のそれだけだった。
白石さんは普段の様子からは考えられない勢いで、流れるようにしゃべりだした。
聞いている感じだけでは全く何語なのか見当もつかない。やたら鼻が詰まったような、喉の奥を使うような奇妙な発音が耳につく。とにかく英語や僕が知っているほかの言語と完全に異なる言語だということしか分からなかった。
僕ははじめ、何が起こったのか全く理解できなかった。
彼女はずっと何かを訴えていた。
怒涛のように押し寄せる意味不明ななにかが、僕の脳を浸蝕していく。
「待って!!」
僕は彼女の手を勢いよく振り払ってしまった。
「ごっ、ごめん」
僕は彼女の方へ向き直って謝った。
彼女は急に豹変した僕を見て、しゃべるのを止めた。
そしてまた申し訳ない顔に戻って怯えていた。
もうそれ以上聞きたくないという、よく分からない衝動に駆られたのだ。
頭を掻き毟ってしまいたくなるような焦りが、受け入れることのできないほどの恐怖にも近い感情が、僕の胸を満たしていた。
いったい何が起きたんだ?
僕は一旦落ち着いて、冷静に考えることにした。
考えろ、考えるんだ。
冴えない思考を巡らせながら、今しがた発生した謎の出来事の正体を必死で突き止めようとした。
白石さんがこれまでずっと固く口を閉ざし、あたかも失語症になったかのようにふるまってきたこと、
彼女が時折見せる、困惑したような苦しそうな顔、
そして今、彼女が突然謎の言語を喋り出した理由――。
――そうか。
僕は、わかってしまった。
しばらく考えているうちにおぼろげながら今起きている事実の概要を掴みとることができた。
僕のひらめきが正しければ、彼女は失語症になんてなっていない。
むしろもっと常識を超えた何かが、彼女の身に起きていた。
彼女は事故に遭ったせいで日本語が話せなくなったのだ。
そして代わりに、この何語かも分からない言語を獲得した。
そう考えると、今まで起きた全ての出来事の意味が変わってくる。
彼女がずっと喋らなかったのも、申し訳なさそうな顔をしていたのも、全部そういうことだったんだ。
だから僕や吉久保さんに会ってもずっとしゃべらなかったのだ。
でもそれじゃあ、彼女はいったい、何者なんだ……?
僕は彼女と向かい合ったまま、その場で途方に暮れていた。
さっきの推測だけでは解決しきれない疑問が次から次へと湧き上がってくる。
一瞬の間に僕は、自分が到底一人で抱え込みきれないほどの何かに直面してしまっているということに気づいた。
外は春の陽気でこんなにも暖かいのに、僕は吹いてくる微かな風にさえ寒気を感じる。
僕たちのすぐ傍らには、咲きはじめの紫陽花の赤い花。
普段なら美しいはずのそれはまるで毒花のように不気味に微笑んでいた。
***
以上が、僕が「術後経過」というノートの形で高校二年生の春に起きたこの出来事をまとめることになった経緯である。
もっとも、真実は思ったよりも悲しく、それでいて現実的なものだったが。
思わぬ展開になってきました。
一冊目は以上で終了です。
二冊目はこちらから。「言葉だけが 二冊目(連載中 未完結)」
http://ncode.syosetu.com/n3179bj/1/