そこ、にいる
夜の〇〇ダムには、音がない。
波もない。風もない。虫さえ鳴かない。
まるで、水そのものが呼吸を止めているようだった。
少年はスマホを手に、湖岸のコンクリートの端にしゃがみこんだ。
生配信中のスマホの画面には視聴者からのコメントが流れている。
「マジで行ったんか!w」
「やばw 夜の〇〇ダムとか、マジで呪われるぞ」
「例のやるんでしょ?」
「なんか、そのダムって、昔は村があったらしいね」
「え、埋め立てられたってこと?」
「なんかやべーな」
画面の奥、薄い霧が湖面にかかっている。
山の影が歪んで揺れて見える。
少年はにやりと笑って言った。
「じゃあ、今から配信やるね。今日の配信は、心霊スポットでお馴染みのここーー〇〇ダムです。ここで声が聞こえたら、三回目までは無視する。四回目に振り返ると幽霊に会えるっていう都市伝説が本当か、試してみたいと思います!」
少年は立ち上がり、湖に背を向けて、静かに目を閉じた。
**
ーー十分
ーー二十分。
ーー三十分。
何も起こらずに、視聴者数は次第に減っていく。
バカバカしいという視聴者が抜けていくのだ。
そのときだった。
「……ねえ」
少年は肩を震わせて、声を出さずに笑った。
スマホを少し持ち上げて、実況を続ける。
「……みんな。今、なんか聞こえた気がする……けど、まだ一回目。ルール通り無視していきます」
ーー沈黙。
「……こっち、見てよ」
今度は明確に聞こえた。
男子どもと女の中間のような、湿った声だった。
まるで、水の中から響くような、くぐもった響き。
「……これはヤバいな。ちょっと背筋ぞくっときた。けど……まだ二回目。もう一回、聞こえるまで無視するね」
次第に霧が濃くなる。
気温が落ちてきて、吐く息が白い。
そして、三度目の声が聞こえた。
「……なおや、くん」
少年の背がわずかにこわばる。
スマホのカメラが微かに揺れる。
「……今……名前……呼ばれた」
その瞬間、コメント欄がざわつく。
「え?今、映ったよね?」
「ねえ、水の中ーーなんか光ってない?」
「うわ!まじで映ってるじゃん!」
コメントを見て、少年は振り向きかけた。
その時、四度目の声が、すぐ耳元で囁かれた。
「……待ってたよ」
直後にスマホは地面に落ち、カメラは月明かりに照らされた湖面を映し続ける。
そして、ゆっくりと――何かが、水面から“浮かび上がって”くる。
それは、濡れた髪の少女だった。
顔は白く、目だけが大きく見開かれ、笑っていた。
その背後に、水の奥、朽ちた柱と、屋根と、瓦が揺らめいている。
沈んだはずの村。
その家々の中に、灯りが一つ、二つと、点っていく。
まるでーー帰ってきた子どもを迎えるかのように。
***
翌朝、視聴者の何人かが〇〇ダムを見に行ったらしいが、少年のスマホだけが湖岸に落ちていたそうだ。
電源は生きており、アーカイブ動画が保存されていた。
再生すると、ラスト数秒ーー水面に浮かぶ映像の中で、カメラが小さく揺れた。
その奥で、カメラ越しに何十という顔がこちらを見上げている。
全員が歯を見せて笑っていた。ただ、笑っていた。
それを最後に、再生は止まった。
動画は、それきり再生できなくなった。
今でも、夜の〇〇ダムには光が灯ることがあるという。
もしかするとーー水底の村の住人たちが、今でも誰かの帰りを待っているのかもしれない。




