逆さに進む針と、選ばなかった側の夜
店の扉を押した瞬間、外の湿った夜気が背中から切り離される。
代わりに纏わりつくのは、馴染んだ酒の甘さと、年月を吸い込んだ木の匂い。微かな焦げた香りが、神経をほどく。カウンターは低く長く、指先でなぞればわかる程度の使い込まれた艶。壁には古いジャズのレコードジャケットや、どこかの港町のモノクロ写真。統一感はないのに、妙にしっくりと収まっていた。
笑い声は低く、短い。話している内容も、外では値のつく話ばかりのはずなのに、ここではただの世間話みたいに扱われている。
カウンターの内側に立つと、世界が一段、静かになる気がした。
「氷、足りてるか」
隣でグラスを磨くバーテンダーのおっちゃんが、目を上げずに言う。
「はい。さっき補充しました」
「よし」
短い。でも、それで十分だ。この店に来るようになってから、余計な言葉を使わなくなった気がする。言わなくても伝わる事が増えたのか、それとも、言わない方がいい事を覚えただけなのか。
この店で、極たまに働いているのは、友達に誘われたのがきっかけだった。
『うち、パパの店だからさ。ゆるいよ』 その言葉を、そのまま受け取っていた頃の自分を思い出すと、少しだけ苦笑したくなる。
フロアでは、ドレス姿の子達が笑っている。その中に、見知った顔が混じっているのが、不思議な感覚だった。大学で見かける時と、同じ人間には見えない。
笑い方も、視線の送り方も、全部が違う。
自分はその外側にいる。カウンターの内側に立ちながら、どこにも属していない感覚だけが、はっきりしている。
扉が開いた。カランとベルが鳴る。
それだけで、空気の密度が変わる。
視線が自然と向く。
入ってきたのは、スーツの男が三人。中央の男に、まず目が引き寄せられる。年配。だが、衰えは感じない。背筋がまっすぐで、歩幅は一定。無駄がない。
着ているスーツは、派手ではないのに、質の良さがわかる。生地の落ち方が、違う。靴も、音を立てすぎない。それなのに、一歩ごとに存在が刻まれていく。
両脇の二人は、その男の輪郭をなぞるように動いている。主役と、それに付随する影。
カウンターに座ると、男は背もたれに頼らない。ただ静かに、そこにいる。
「いらっしゃいませ」
バーテンダーのおっちゃんの声が、ほんの僅かに低くなる。
ウイスキーの注文。迷いがない。銘柄を聞いた瞬間、値段が僕の頭に浮かぶ。それでも、顔には出さない。
グラスを差し出しながら、視線を流す。自然、男の手元が目に入る。年齢相応の皺。だが、指先は整っていて、動きに無駄がない。薬指に太めの金の指輪。手首にもごつい金のブレスレット。ただの客じゃない。思わせる何かが、細部に滲んでいる。
「ねえ、これ見てよ」
横から軽い声が入る。連れの一人が、フロアの女の子を呼び止めている。
その声に、周りの視線がわずかに流れる。
「あげるよ。ヴィトンの財布」
「え、ほんとに? うそ、いいの?」
女の子の声が弾む。
そのやり取りを聞きながら、僕は氷を足す手を止めない。軽い。あまりにも軽く、価値が行き来している。すごいとは思う。同時に少し距離を感じる。自分の生活とはかけ離れた会話が、TVの向こうのトレンディドラマの一場面のように感じた。
その時、視線が刺さった。
顔を上げる。
中央の男と、目が合う。逃げ場がないと、一瞬でわかる視線だった。
「君」
低い声。響きが、店の空気を一段下げる。
「ヴィトンの財布は、欲しいものかな?」
試されている。
そう直感する。軽く答えればいい質問のはずなのに、言葉を選んでいる自分がいる。
「・・・そうですね」
一拍置いてから、口を開く。
「欲しいかと聞かれれば、欲しいです」
嘘ではない。だが、それだけでもない。
男は小さく頷いた。
「では、」
僅かに身を乗り出す。圧が、距離を詰めてくる。
「何か、他に欲しいものはあるかな?」
逃げ道が、ない。
バーテンダーのおっちゃんがすぐ横に来たのがわかる。何も言わないが、空気が変わる。ここでの答えは、たぶん記憶される。何を選ぶか。どう選ぶか。
頭の中に、幾つも浮かぶ。
お金。大学の学費も高い。生活費も勿論必要だ。黙って食卓に座っていれば、タダでゴハンが出てくるなんて事はない。仕送りだけじゃ足りなくてバイトを増やせば、その分、講義を削る事になる。飲み会だって、断ってばかりじゃ浮く。付き合いは、簡単に切ればいいほど簡単じゃない。
車。大学で、初めて生でガルウイングの車を見た。やけに静かにドアが上がって、周りの空気だけがざわつく。乗っていたのは同じ学生だった。同じはずなのに、決定的に違う。
ブランドもの。ヴィトンの財布だけじゃない。ティファニーのオープンハート。ドルチェ&ガッパーナのサングラス。クロムハーツの指輪。ナイキのスニーカー。雑誌で見た通りに揃えれば、少しは近づける気がした。
どれも、間違いじゃない。でも、どれも自分の言葉じゃない気がする。
喉の奥で、別の言葉が形になる。
「・・・ムーンフェイズの時計が欲しいですね」
言った瞬間、しまった、と思った。
場に似合わない言葉を置いた自覚が、僅かに遅れて追いつく。
空気が、ほんの少しだけ揺れた。
「ムーンフェイズ?」
案の定、連れの一人が反応する。軽い声。だが、拾い方が早い。
「なんだそれ」
馬鹿にしたような軽い笑い声。
その声に、中央の男の視線が動いた。
僕の喉の奥が、急激に乾く。説明すべきか、引っ込めるべきか、一瞬で判断がつかないまま、言葉だけが浮く。
「何の事かわからない大人は、黙っていなさい」
温度が、一瞬で下がる。さっきまでの軽さが、切り捨てられる。ああ、やっぱり、と思う。
連れの男は、何も言わない。言えない、の方が近い。さっきまでの空気に戻ろうともしないあたりが、中央の男の背景を物語っている。
男の輪郭がよりはっきりする。ただの金を持っている人間じゃない。どこで線を引くかを、自分で決められる人間だ。
「買ってあげると言ったら、どうする?」
再び、こちらへ。
逃げる事も、媚びる事もできる。どちらも簡単だ。でも、そのどちらも選びたくないと思っている自分がいる。
視線が、逃がさない。
試されている、というほど露骨じゃない。けれど、外した瞬間に何かを失う気がして、逸らせない。
「遠慮しておきます」
はっきりと言う。
「後々、怖いので」
正直に言った瞬間、場の空気がわずかに動く。
隣にいる連れの男達が、小さく息を飲む気配がした。誰も口を挟まないが、視線だけがこちらに寄る。
言い過ぎたかもしれない。今さら引っ込めることもできないまま、言葉だけが前に出る。
「家族に、よく言われているんです」
続ける。自分の言葉だけで立つには、少しだけ足りない気がして。
「ただより高いものはない、って」
言葉にすると、少しだけ安心する。自分一人の判断じゃない気がするから。
沈黙が落ちる。
長くはないはずなのに、間が持たない。
グラスの中の氷が鳴る音だけが、やけに近く聞こえる。
視線が外れない。値踏み、とは違う。けれど、何かを測られている感覚だけが、じわじわと残る。
連れの男達は、さっきまでの軽さを消していた。誰も口を開かない。ただ、このやり取りの行き先だけを見ている。
男は、しばらく黙っていたが・・・やがて、口元を緩めた。
「いい家族だねぇ」
その声には、さっきまでとは違う温度があった。ほんの少しだけ柔らかい。
「大事にしなさい」
「はい。ありがとうございます」
頭を下げながら、胸の奥に残っていた力が、ゆっくりと抜けていく。助かった、というより・・・ぎりぎりで、踏み外さなかった、という感覚の方が近かった。
「ところで」
男がグラスを傾ける。
氷が、静かに鳴る。その音だけが、やけに澄んで聞こえた。
「君は今、時計をつけているね」
「・・・はい」
「ムーンフェイズに興味がある君は、どんな時計を?」
試しは、まだ終わっていない。そう感じた瞬間、背筋に薄い緊張が走る。
さっきまで緩んでいたはずの空気が、また静かに引き締まっていく。
少しだけ迷う。見せるべきか、隠すべきか。だが、隠す理由もない。
袖をめくる。
現れたのは、大きめの文字盤。どこか子供っぽくて、安っぽくも見えるデザイン。秒針は、恐竜のシルエット。カチ、カチ、と規則正しく動いている。
一拍の間。
そのわずかな空白に、周りの空気が寄ってくるのがわかる。
視線が、手元に集まる。
「・・・は?」
隣の男の方が思わず声を漏らす。
「怪獣の玩具じゃないか」
その言葉に、指先がほんの少し固まる。否定はしない。実際、そう見えるだろうから。
だが・・・自分の中にある何かが、それをそのまま受け入れるのも違う、と言っている。
「黙りなさい」
低く、鋭い声。男が遮る。その一言で、空気が切り替わる。
軽口を挟んだ男が口を閉じるのが視界の端でわかる。
男はそのまま、じっと時計を見つめる。視線が、細部をなぞっていく。秒針。文字盤。配置。ただ見るというより、確かめるに近い。
にいっと、口元が歪む。その笑い方に、妙な引っかかりを覚える。
改めて自分の時計を見る。秒針は、逆に動いている。文字盤の数字も、すべて反転している。最初に見た時、意味がわからなかった。でも、なぜか気に入って、買った。今、その理由が少しだけ言語化される。普通じゃないからだ。
「いい時計してますね」
男が言う。その言葉に、軽さはない。評価とも違う、何かを含んでいる。
「・・・ありがとうございます」
「価値がわかる人にこそ、価値のあるものを贈りたいと思ったのですが」
少しだけ、間。
その間に、周りの男たちの視線が、再びこちらに集まる。さっきまでの軽さは消え、ただ結果を待つ空気だけが残る。
男の視線が、柔らぐ。
「今回は、やめておきましょうか」
終わった。
「気持ちだけ受け取っておきます」
自然に、そう返していた。
男は満足そうに頷く。それ以上は、何も言わない。グラスに口をつける。その仕草一つで、場の主導権がどこにあるのかがはっきりわかる。
張りつめていた空気が、ゆっくりとほどけていく。誰かが小さく息を吐き、別の誰かがグラスを置く。
夜は、何事もなかったかのように流れていく。
音も、匂いも、笑い声も。さっきまでとは、ほんの少しだけ違う顔をして。
●●
気づいた時には、店内の時計が十一時半を指していた。もう、帰る時間だ。
さっき見たときは、まだ十時台だったはずなのに。針の進み方に、うまく説明できない違和感が残る。
カウンターの内側でグラスを拭きながら、もう一度だけ確認する。やはり、十一時半。
時間だけが、どこかで飛ばされたような感覚。客の声も、音楽も、変わらない。なのに、自分の中だけが少し遅れている。
横を見ると、バーテンダーのおっちゃんがシェイカーを振っている。そのリズムに紛れるように、一瞬だけ目が合った。言葉はない。だが、それで十分だった。
軽く会釈する。
カウンターの奥から、自然な動きで抜ける。誰にも気づかれないように。店の奥、関係者しか使わない扉を開ける。
そこは裏口ではなく、小さな部屋だった。空気が違う。店内の甘い匂いは消えて、代わりに乾いた紙と金属の匂いがする。
蛍光灯の白い光。無機質で、温度がない。中央に、古びた机。その横に、背の低い金庫。
机の向こう側に、男が一人座っていた。背もたれに深く体を預けるでもなく、かといって前のめりでもない。
ただ、そこに『据わっている』。
こちらを見る目が、わずかに細くなる。
「ご苦労さん」
短い言葉。
労いというより、確認に近い響き。
「・・・お疲れ様です」
軽く頭を下げる。距離の取り方が、カウンターとは違う。ここでは、自分は働いている側だと、はっきりわかる。
男は引き出しを開けると、茶色い封筒を取り出した。無造作に見えて、手つきは正確だ。
封筒の口が少し開いていて、そこから紙幣の端が覗いている。机の上を滑らせるように、こちらへ差し出す。音が、やけに小さく響く。
手を伸ばす。
「・・・ありがとうございます」
受け取る。指先に伝わる紙の感触が、妙に現実的だ。
そのまま、ほんの一瞬だけ中を確認する。
・・・多い。すぐにわかる。指が、そこで止まる。
封筒の重みが、予想と違う。
「あの」
顔を上げる。
「一万って聞いてたんですけど」
声は落ち着いている。
だが、内側では小さく波が立っている。
三枚。どう見ても、三万ある。
男は、こちらの顔を見たまま、何も答えない。否定もしないし、説明もしない。ただ、そこにある事実を、そのまま置いている。
机の上の木目に、視線が落ちる。受け取れば、それで終わる。何も言わなければ、なかった事になる。けれど、そのなかった事が、どこかに残る気がする。
「時計、買ってもらえばよかったのに」
男が、ふと口を開く。
「・・・もったいない」
軽い調子。だが、さっきのカウンターのやり取りと、確実に繋がっている。
「さっきも言いましたけど、」
一拍置く。
「怖いからいいです」
言葉にすると、妙にすっきりする。飾らない分だけ、自分の輪郭がはっきりする。
男は、わずかに口元を歪めた。
「三万も、似たようなもんだと思うけどな」
視線が、封筒に落ちる。その言葉で、改めて重さを意識する。確かにそうだ。理由のない上乗せ。意味のないはずがない。
指先に、力が入る。返すか。一瞬、その選択肢が浮かぶ。だが同時に、さっきの視線が蘇る。
あの男。
あの問い。
これは、その続きだ。何を受け取り、何を拒むか。
封筒を、ゆっくり持ち直す。
「・・・じゃあ」
視線を上げる。
「これは、働いた分として受け取ります」
言葉を選ぶ。
「それ以上の意味があったら、困るので」
男の目が、猫みたいに細くなる。測っているのか、ただ面白がっているのか、その境目が読めない。
「余計な事は考えない、か」
「考えないんじゃなくて、わけてるだけです」
口にしてから、自分でも少し意外に思う。だが、そのまま続ける。
「混ざると、たぶんわからなくなるので」
男は一瞬、何かを確かめるようにこちらを見る。
視線が、封筒に落ちる。そしてまた、こちらへ戻る。
「なるほどな」
短く言って、わずかに口元を緩めた。
「そういう受け取り方なら、好きにしろ」
それだけ言う。それ以上は、何も足さない。
封筒は、手の中に残る。薄いはずなのに、妙に存在感がある。蛍光灯の光の下で、その色がやけに現実的に見える。
背後の扉の向こうから、微かに音が漏れてくる。
笑い声。グラスの音。音楽。同じ店の中なのに、ここは別の場所みたいだ。
封筒をポケットに入れる。その動作が、一つの区切りになる。
そのまま、店内には戻らない。来た時とは別の扉を開ける。細い通路を抜けると、外気が流れ込んできた。
夜の空気は、少し冷たい。アルコールの匂いが、ようやく体から離れていく。
裏口の鉄の扉が、鈍い音を立てて閉まる。それで、あの店の音は完全に途切れた。
●●
そのまま、バス停のある方向とは逆へ足を向ける。理由はない。ただ、まっすぐ帰る気にならなかった。
靴底がアスファルトを叩く音が、やけに規則的に聞こえる。少し歩いて、交差点に出る。
信号は青から点滅に変わりかけていた。ふと、足を止める。何気ない動作のはずなのに、体が先に反応している。
ちらりと、後ろを見る。誰もいない。それでも、視線だけが一瞬、残る。
信号が点滅を始める。
その瞬間、考えるより先に体が動いた。地面を蹴る。短く息を吸って、走る。横断歩道を一気に渡り切る。間に合うとわかっていても、少しだけ速度を上げてしまう。
渡り切った後、わずかに息を整える。
胸の奥に、昔と同じ感覚が残っている。癖みたいなものだ。小学校1年の頃から、鍵っ子だった。家に帰ると、いつも一人だった。ランドセルを背負ったまま、玄関の前でそっと一度だけ周りを見る。
誰もいないのに、「ただいま」と言う。勿論、返事はない。
それでも、言う。
あの時から、変わっていない。今も、同じ事をしている。交差点を抜けて、小道に入る。街灯の数が減って、影が濃くなる。
遠くから、足音が聞こえる。不規則なリズム。酔っ払いだと、すぐにわかる。近づいてくる気配に、自然と進路を変える。
・・・左へ曲がる。
少し歩いて、もう一度左。細い路地に入ると、音が一気に遠ざかる。
右。
視界が開ける。大通りの明かりが、少しだけ眩しい。そこで、ようやく足を緩める。無意識に選んだ道。特別な意味はないはずなのに、体が覚えている動き。
顔を上げる。
遠くに、最終バスのライトが見えた。
時間が、急に現実に戻ってくる。
ポケットの中で、封筒の角が当たる。その感触に、わずかに意識を引き戻される。足が、自然と速くなる。小走りになる。
一度だけ交わった視線の感触だけが、残っている。あの人は、最後までこちらを店員として見なかった。
評価していたのか。
測っていたのか。
あるいは、その両方か。
自分が何を選ばなかったのかだけが、妙にくっきりと残っていた。
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