4 受験と友達、そして海
彼について知っていることは少ない。べつにこれまで、たいして興味もなかった。
でも、なんとなく、いまは知りたい気がした。彼の、もっと深いところを。
でも、訊ねて答えてもらえることでもない。けっきょく、するのは当たり障りのない質問だ。
「神奈川から来たって聞いたけど……横浜?」
その土地に行くのを考えていたせいもあって、じつに安直なことを訊ねてしまった。やたら田舎者の思考な感じだ。けれど彼は笑わず、律儀に首を振った。
「ちがう、藤沢。辻堂、西海岸」
海の近くで育ったんだ。本当に、私とは違う世界で。想像もできない、遠い土地。関東地域内なんだから、距離にすればそんなでもないはずなのに。知らないことが、未知であることが、意識を遠く隔てさせる。
「どんなところ」
「安い自転車買うと、二日で錆びるようなとこ。放っておくと高いバッグの金具も十日で潮吹く」
……わからない。投げ出すような答えは、まじめに返答する気がないからだろうか。
でも、いいなと思った。港でなくて砂浜も。進路を変更しようか。彼が道を教えてくれるのならば。
「どうやって、行くの。いまから日帰りで戻ってこれる?」
回答はなかった。ふと、彼が問いかけてくる。あらためて気づいたように。まじまじと、私を眺めて。
「なんで、ここにいんの。あんた、そういうタイプにも見えないのに」
それは、理子を通して私を見ているからだ。理子はしない。こんなこと。
立ち止まって、ただ空を眺めるような。
そうしながら、足許の闇に怯えるような真似。しない。
「……受験、もう終わった?」
もう三月だ。私立の試験は終わっている。とうに推薦試験の結果も出た。
合格したひとがあまりそれを振りまかないのは、まわりに気をつかうよう、先生たちが云っているから。
公立の試験は来週だ。その一週間後には卒業式。翌日が合格発表になる。
「まだ。公立も受けっから。ヤんなるよな、俺、ア・テストだって受けたのに。全部、無駄」
聞き慣れない響きのそれは、彼のいたところで高校受験に必要な試験だという。どんなものだか、まるでわからなかった。ここらには似たものもない。さして知りたいとも思わなくて、訊かなかった。彼も説明をする気はないらしい。私のほうに話を向けた。
併願が可能なので、ここらでは、公私の両方を一校ずつ受けるひとが多い。私も、私立の……すべり止めは合格していた。
「受験が、理由?」
「……半分ね」
問題は、合格するかどうかじゃない。
そこに行きたいかどうかなのだと、誰にも話せずにいる。
偏差値でランクが合うからといって、その学校が行きたいところかどうかは、違う話じゃないだろうか。
……生意気な発言だけど。
「流されてるみたいなカンジ、する」
自分で歩いていない。
そうだ、志望校行きの電車。切符も勝手に押しつけられているような。
だから、自分でちゃんと切符を買って、どこかに行きたい気がしたんだろう。
遠くの海へ。
「自分で、選びたいのに」
できないのは、なぜだろう。誰かの顔色をうかがって、意見を云わずにいる。
――頭がいいとか、しっかりしてるとか。云われるのが好きじゃない。
私はただ、臆病なだけだ。
イイコでないと、誰からも顧みられないんじゃないかと、怯えてる。
あいつはダメだと、思われたくないのだ。
嘘をついてでも、存在を否定されたくない。
卑怯だ。取り繕うことばかり多くて、本音がない。どこかに隠れたままだ。
いやなのに。
ときどき、叫びだしたくなる。
違うのに。虚構なのに。ただの外側なのに。
自分で望んで、演じているくせに。
誰も本当の自分を見てくれないことに、どうしようもなく叫びたくなる。
こんな、欺瞞ばかりで。
生きていることすら無意味に感じられて、しようがないときがある。なんて。
……そんなの、誰にも相談できない。
それは一瞬の隙をつくような思考で、いつもいつも思っているわけではなく、考えた端から塗り替えられていくものではあったけれど。だからこそ余計に。云えなかった。
真顔で語られても、誰もが困るだろう。困惑するか、冗談だと笑うか。それも、わざと冗談だと片づけられる可能性が高い。反対に重く受け止められたとしても、私も困った。
ようするに、口にすることさえ無意味だ。なんの発展性もない。かえってしこりを残すのならば、沈黙したままのほうが、よほどましなはずだった。
誰も、本当には、わかりあえない。
そう思う。
だから私は、理子にも云わない。
理子は私のことばを理解しないだろうし、私も理子の思いを理解できない。
仲のいい友達は、いっしょの学校に進まなきゃだめなんだろうか。
いつもいっしょにいることが、友達の証だとでも云うのだろうか。
物理的な距離が、心の距離だろうか。
私には、わからない。
どんなに近しくても。理子とも。兄とも父とも母とも、だめなのだ。
そんなことを口にしたら。彼が、
「さみしいの?」
それは揶揄もなにもない問いかけだったので、不思議と私もなっとくしてしまった。私はさみしいのかもしれない。理解しあえないのが。
心で語れないことが。
「それとも、泣きたいの」
どっちだろう。
私は泣きたいんだろうか。さみしいだけなんだろうか。
彼のことばはどちらもしっくりと胸に落ち、矛盾なく融和した。哀しいような、せつないような、さみしいような。泣いて、わめきちらしたいような。おかしな気持ちになった。
「泣いたほうが、ラクだよ」
そう云って彼は、タバコをくわえた。彼の呼吸にあわせて煙が形を変える。空に白く流れていった。
泣けないよ、と思った。
こんな、ありふれたさみしさで、泣けない。誰にだって、よくある話だ。
トモダチ、と不意にその単語がどこかをよぎった。彼が駅にいる理由。わざわざ川越えをしたのは、行きたい場所があるからなんだろう。
「会いに行くの」
主語のない問いかけに、それでも彼はうなずいた。てらいもなく、これまでもそうだったように、軽く。
「大事な友達?」
「そう」
「知ってるの」
「今朝、思いついた」
だから資金がないのだと、彼は困った顔をした。
「行けるけど、帰ってこれない」
まあ、帰れなくてもいいけど、と彼はつづけた。
それは嘘だ。
家出の覚悟がついているのなら、私とこうして話している余裕なんて、ないはずだ。
迷っているひまなんて、ないはずだ。
衝動で駅まで来たはいいけれど、本当に実行するかどうか、あらためて考えているのなら、彼は戻ってくるつもりでいるのだろう。この街に。
受験をするとも云っていた。
「……この街、すき?」
ふ、と彼が微かに笑った。
「あんたは、きらいなの」
わからない、と首を振った。自分の気持ちは見えなかった。わからない。
ここから逃げたいと思った。違う場所に行ってみたいと。でもそれは鬱屈からの逃避と、微かな好奇心でしかなくて。
ただ少し、自分で歩いてみたかっただけ。自由に。
もちろん家に帰るつもりでいた。家出をしようとまでは思ってなかった。そんな度胸もない。けれど。
いまは、わからない。
彼と目的地がおなじなら、いっしょに往って、そのまま帰らなくてもいいような気になった。
……彼には迷惑だろうか。
「海が、見たくて……」
「山がキライ?」
わからない。肯定も否定もできずに、黙ったままいた。
「内陸にもいいところはあるぜ」
数か月暮らした土地を彼は愉快げに語った。くわえたタバコが口許でゆれている。
「まず、津波の心配がない」
海がないから当然だ。……笑うところなんだろうか? 違うみたいだけど。つっこめずにいたら、彼がつづけた。
「ここらはとくに地盤が固いらしいから、地震もあんまりない。だろ?」
たしかに、あったとしても震度は低い。私は震度二以上のものをまだ体験していなかった。これはたぶん、幸せなことなんだろう。
でも、もう少し北に行けば雪の多いところがあって、そこでは大雪警報も出るし、雪崩があったりするし、全体的に山にかこまれた盆地のせいで夏はひどく暑いし冬はこれでもかというほど寒い。いつ動きだすか知れない火山もある。山から下りる風は強いし、雨季には雷もひどい。
「海も、いいところばかりじゃないぜ。潮臭いし。空気がべたべたする。さっきも云ったろ」
そうなんだろうなと思う。ないものねだりをしているだけなのだ、要は。そばにないから、欲しがっているだけ。
……甘えなんだろうか。
どこかへ行くことじたいが目的だから、海にこだわらなくたっていいのに。いちど海と決めてしまったものをひるがえすのは、なぜか難しかった。
少しの沈黙のあと、脈絡なく彼が話しはじめる。そういう話法のひとなのだ。
「鳥ってさ、自分がどこにいるか、わかるんだって。方向。どっちをめざしてんのか、ちゃんと知ってんだって」
すげえよな、と。ぽつりとつぶやく。
そうね、と返した。鳥が方向音痴だったら、渡り鳥も伝書鳩もいないことになる。
「なんで、人間にはそういう機能、ついてねえんだろ。自分がどこにいるのか、どこに向かうのか、わかんないなんて――」
へんだよ、とまでは彼は云わず呑み込み、ただ煙を吐いた。
「……まえにも、云ったことある、これ。そしたら」
吐息とともに語られるのは、彼が会いに行きたい友人のことばらしい。そうなのだろうと予想がついた。
ぎゅうと、ベンチわきにある円筒の灰皿にタバコを押しつけ、彼がつづける。
「意思があるからだって」
力強い、ことばだった。
「人間には意思があるから、自分で選んで道を行けるから――征きさきを決められるから、そんな能力は要らないんだって」
……鳥にはなりたくないひとの、ことばだ。
それを彼は、どんなふうに心に染みさせたのだろう。恐くはなかったんだろうか。
打ち砕かれた気が、しなかっただろうか。自分自身が。否定された気持ちには。
でも、会いに行きたい友達なら、好きなんだろう。その友人の強さが。まっすぐさが。
なんとなく、赤城くんのことを思いだした。きっと彼も、自分の友人と似ていると感じていたに違いない。
うらやましい、まぶしい強さだ。
私には、ない。彼にも。
理子や、赤城くんや、その彼の友人にはある強さ。
流されずに、己で進んでいく力。
鳥の翼を夢見ない。必要もない。
なんだか、自分が恥ずかしくなった。ひどく子供で。
私は、口で選びたいと云いながら、本当に、自分でも何度も考えたように、逃げているだけなのだ。征きさきすらも、彼に頼ろうとしている。
……こんなんじゃ、だめだ。
意味がない。
現実から逃げたくて、別の場所に行ったからって。別の誰かになれるわけじゃないのに。このさきにも「私」はつづいていくのに。一瞬の逃避で、なにが変わるというんだろう。楽に呼吸をしたいからって。
なにを勝手に、期待しているんだろう。
「……ひとが、増えてきたな」
彼がつぶやく。私は声につられ、うつむいていた顔をあげた。目の前を数人、重そうなケースをかかえたひとが通過する。あきらかに不登校の中高生とは違う。肩からさげられたその銀色の箱には、どうもカメラが入っているようだった。中年の男性が多い。
彼らはベンチに座るサボりの子供たちになど、見向きもせず、駅へと入っていく。駅からこの広場へ出てきて、駅の外観をたしかめ、そうしてから戻っているのだ。何人かは駅舎を写真に収めていた。近場でいきなりフラッシュがたかれて、びっくりした。
「なんかあんのかな。……移動するか」
問いかけには、首を振って応えた。移動できない。征きさきがわからない。ベンチに腰が根づいたように、なんだか動けなかった。どこにも行けない。
私は電車にあまり乗らないため、この駅に思い出はほぼない。せいぜい街に買い物に来たとき、駐輪場を利用するていどだ。あと駅ビルと。
駅ビル内には理子の好きなかわいい服や靴をあつかった店がある。もっとも、バイトもできず小遣いも少ない中学生の身では、ほとんど服や靴は眺めるだけで、けっきょく買うのは参考書や安い雑貨が関の山だったけれど。
そろそろ駅ビルの開店時刻になるはずだ。理子は高校生になったらどこでもいいからとにかくバイトをすると、店に来るたびに熱意を燃やしている。バイトの第一希望はもちろんその服屋だ。
私の駅に対する認識なんてこんなものだ。車線がいくつあるのかも知らない。十を越えるのか、少ないのかも。この駅の由来や、催し事にも興味なかった。今日、なにがあるのかもわからない。
三脚や大きなケースをかかえたひとが増えるにつれ、周囲のベンチにいた高校生たちも立ち上がり、一部はおじさんたちについていった。また一部は駅ビルに向かったり、付近のファーストフード店へと足を向けている。そのうちに、広場にいるのは私と彼とのふたりだけになった。
ア・テストは、昔、神奈川にあったアチーブメントテスト。1997年に廃止。
この話は90年代です。スマフォどころか、中学生はケータイ持ってない時代。




