3 タバコを吸う彼
彼は周囲から浮いていた。学校でも。この場でも。ひどく透明な空気で、ベンチに座って空を仰いでいた。
高層建造物にかこまれ、駅付近の空は狭い。たしかに山も田畑も建物にじゃまされてのぞめないここでは、空くらいしか、まともに眺められる自然なんてないけれど。そんな理由でなくて、あるいは思慕のように彼は空を見つめていた。
私とおなじ黒のコート。おなじ紺の制服。どかりとベンチにもたれて、その背に腕をのせ、ひとりで。
なにかを思案する顔。
ここまで見てきた、サボりの生徒たちとは違った顔だった。
無意味ではなく、惰性ではない、なにかの事情を悟らせる表情だ。
でも、焦りはない。どこかひょうひょうとした、余裕すら感じさせる自然さで、そこにいた。
(へんなひと)
おとなみたいだ。
いや、だからこそ子供っぽいクラスメイトたちとは、慣れないのだろう。
彼の不登校には意思表示がない。けれど、なにかの意味がある。子供のようなむきやアピールでなく、必然としてそこにいるのだと体現していた。
いまにも翔んでいきそうな、そんな危うさもある。全部を捨てていきそうな怖さだ。なんとなく、そう思った。地上に未練なんてなさそうな。そんな漠然とした不安を、なぜかいだいた。
空を見上げる横顔は、私の好みとは違うけれど、端正できれいだ。意思の強そうな眉ときつい眼線は、例の噂ともあいまって、女子には不評。
転校してきたときにはルックス良と評価していた子も、いまでは「恐い」と震えることもあるとか。……勝手な話。
あんまり私がじろじろ見ていたせいか、彼も私に気づいた。知っている顔だと思ったのだろう。一拍置いてから、「座るなら座れば」とうながした。
私にかけられることばがあるとは思わず、なんとなく躊躇した。まともに視線を合わすのさえ、初めてなのに。
「俺がどいたほうがいい? それとも、どこかツレがいんの」
ふ、と辺りを見まわす視線。けれど、知っている制服なんてどこにもない。知らないひとたちで、ほかのベンチは埋まっている。
うちの学校からでは、ただサボりたいだけならば駅になんて来ない。家にいるか、いちおうはある近場のコンビニにでも行けばいい。
川越えなんてする人間のほうが、めずらしいだろう。
「ひとりなの」
そう答えると、彼は「俺も」と微かに頬をゆがめて笑った。
うながされるまま、ひとりぶんのあいだを空けて座った。なんだか、へんな展開だなと、理性では思う。彼の顔は見ていられなくて、まっすぐ前を向いた。
さらりとした、熱のない、ただ確認だけの質問をされる。
「榛名と、よくいっしょにいるよな」
榛名理子。それが親友の名前だった。彼とはおなじクラスだ。
部活動を引退してから、下校時に私たちはいつも、HRが早く終わったほうが教室のまえで待っている。彼が憶えていたのは、それでだろう。
「……クラスメイトの名前、全部、憶えたの」
「半分だけ」
そっけなく返される。予想よりも多い返事だった。周囲に興味なんてないかのように見えていたので。
彼のイメージなら《孤独》。
そんなカンジ。
いつでもひとりでいる印象だった。それは、クラスでハブられているという意味ではなくて。彼自身が選んで、好んで孤立している感触。だから余計に、浮いてしまうのだろうけど。
彼は私の名前は訊かなかった。「榛名の友達。違うクラス」と分類すればいいだけなのだろう。私もそれでよかった。
彼の指は長い。ベンチの背に腕をもたれているから、私のすぐわきにある。なんとなく、気になった。
最初は体勢が。そのうちに、指そのものが。
指先が香るので、彼がタバコを吸うのだとわかった。
……どうでもいいと云えば、いいことだけど。
学校の北棟。屋上につづく階段の、その鎖されたままの外に向かう扉のまえには、小さく、いびつな跡がある。不規則に、いくつも。
リノリウムが融けた跡。ときおり煤のまじるそれは、まぎれもない、タバコの痕跡だ。
教師がそんなところで人眼を盗んで吸うはずはないので、もちろん生徒がやった跡だ。それも、複数で。
私はタバコの匂いも煙も好きではないので、真似して吸いたいとは思わない。
けれど、うらやましいと思った。
そうやって逃げる方法を持っているひとを。
理由は違うのかもしれない。反抗などではなく、ただファッションで、そうしているのかもしれない。
法律をやぶること。親や教師が眉をひそめるから。おとなの仲間入りをすること。ただかっこいいから。
なにがそのひとたちの目的なのか、知らない。
だけど、それは現状の不満を因にしている。その不満が逃避を生むのだ。
ひっそりとでもタバコを吸うことで、数分間、押し込められた現実から離れている。
もっとも、それはただのパフォーマンスなのかもしれなかった。わざわざ学校で、跡を残してまで禁をやぶっているからには。
怒られたいのか。心配されたいのか。ともかく教師や親の関心は買うだろう。それが欲しいのか。
だとしたら、寂しいことだと思った。非行に走ることでしか、他者の関心をひきとめておけないのだから。
私が吸うとしたら、制服を脱いで、学校ではないところで、誰にも見咎められない状態で吸うだろう。なんの痕跡も残さず。
しかしそれは、私がタバコの匂いも煙も好むという意義をもってのことでだ。禁止されていることそのものが好きなら、止められず、じゃまされない方法を選ぶ。
無論、そのほうが学校で吸う人間よりタチがわるいに違いなかったが。
沈黙は、私からやぶった。
「おいしいの」
「なに」
「タバコ」
少し驚いた表情をしてから、彼は自分の指に眼をやり、軽く握り込んだ。
「わかんね」
はぐらかすわけでもなく、その解答を彼自身も知りたいような響きで、つぶやく。本当に、わからないのだと思った。
「吸って見せて」
タバコがきらいなくせに、気づくと私はそんなことを頼んでいた。
彼はまたも意外なことを聞かされた顔で私を見て、それから制服のポケットをさぐった。メンソール系の緑が手にのる。
火をつけるさまは、あまり慣れていないように映った。
言訳するよう、彼は指でタバコをもてあそぶ。
「いちど深く吸い込んでむせてから、ただくわえてるだけなんだ。だから、うまいとかどうか、わかんねえ」
だったらどうして吸うのかと、無言のうちにも私の訊きたいことがわかったのかどうか。彼は私に視線を向けず、ただタバコの火を見ていた。その灯がそこにある理由を、考えるように。
煙はゆっくりと彼の指のさきから流れ出ていた。私はその紫煙を見ながら、彼のことばを待った。
「……俺、時計って嫌い。バスとか電車とか、なんで時刻表だなんて、あんな面倒なもん作るんだろうな」
わからない展開だった。けれど、いやなぐあいではない。
意外と、しゃべるひとなんだと思った。ひと見知りもしない。それを知らないクラスメイトは、多そうだけど。
もったいないと感じた。もっと、話せばいいのに。誰とも。
(……時計)
中学の各教室には必ず時計がある。一時限の初めと終わりにはチャイムが鳴るので、生徒は個人で時計を持たなくてもかまわない。
いつもは持たない私は、このとき腕時計をしていた。落ちついたデザインのアナログ時計。誕生日に、親からもらったものだ。
なんとなく、わるい気になって、私は彼の視界から時計をかばった。さりげなく右手を左手首にのせた行動を彼は気づいていないのか、つぶやきは宙にささげられる。
「いまは徒歩だけど、まえの学校では電車通学だったんだ。私立に通ってて、駅、五つぶん。よく乗りはぐれて、遅刻ばっかしてた」
いまでも彼は遅刻が多いが、まだましなのだという。
「時間とか、ひとに区切られんのがイヤで、……いそがされんのが、イヤなのかも」
ゆっくり歩いて学校に来れるいまの状況は、それほど、きらいではないのだと。
景色も、車窓からのぞいていたのとは、まるで異なっている。田園風景なんて、やはり縁がなかったらしい。転入直後の噂で、海の近くから来たと聞いていた。
濃い緑から金色へ。そしていまは、藁をのぞかせながら、茶色い地をさらしている。雪で白くも、霜が陽に光りもした。毎日、違う表情で、田畑はある。
色の変わる稲畑を眺めながら、己のペースで歩くのは、さほど苦ではないと。
「俺のクラスのさ、赤城、わかる?」
不意に向けられた眼線に、うなずく。
「めだつから」
いつでも元気のいい生徒だ。体を動かすことが好きで、休み時間には、たいてい外に出ている。
一年のときには、おなじクラスだった。いまはクラスが離れたが、学校に来れば、自然と眼に入る。
小さい体で、けれど存在感は圧倒的だった。光のなかにいるひとだと感じる。思いだす顔は、笑顔だ。いつも、場の中心になって、みんなをひっぱっている。
赤城くんのイメージは、《天真爛漫》。
「あいつに云ったらさ、わがままだって怒られた」
ぼやく彼に、容易にそのときの様子が想像できてしまい、笑えた。
赤城くんは気性がはっきりしていて、なによりまっすぐだ。決められた時間を守ることは、考えるまでもなく、あたりまえなのに違いない。
迷う必要も、疑問を呈する必要もないのだ。きっと赤城くんは、卒業式で皆勤賞をもらう。
無遅刻無欠席の証。
私と、この彼とには、贈られない賞だ。
「せかせかしてるよな、あいつ」
遠い世界をうらやましがるような、弱いつぶやきを彼は落とした。
「疲れないのかな」
それは問いではなくて、彼も私に答えなど期待していない。私も、答えを探そうとはしなかった。
休み時間という限られた短い分数を遊びで消化する赤城くんは、その休みをただ安穏とすごすことを無駄だと思っているのかもしれない。
けれど、いま、目の前にいる彼にとって、いつでも「行動」していることは、休みの有意義なつぶしかただとは思えないのだ。
遠い眼をして、また彼はタバコをくわえた。軽く息をつくと、その息に煽られて煙があがる。
「満員電車ってやつが、これまた嫌いでさ。なんであんなもんが存在してんだろ」
彼の憎む満員電車というものを、私は体験したことがなかった。通学はずっと徒歩で、どこに行くにしても、たいして電車を利用しない。自転車で駅まで出てしまえば、たいていはこの街で足りる。
でもなんとなく理解できる気がした。小学生のときに行った万博や某Dランドを思い返せば、うなずけた。あれが車両につめられているのを考えれば、毎日でなくともうんざりする。
その私の非日常が、彼にとっては日常だったのだ。
あらためて、彼は異分子なのだと思った。私の知らない世界を知っているひと。遠くから、来たひと。
彼はわずかに眉を寄せた。
「息がつまる――」
しかしそうだ、その遠い世界でも、彼は異端なのだ。透明で、空を見上げながら、日常から乖離する。
彼本来の世界はとても大きくて、日常の窮屈さにつぶされそうになっている。
息ができないのは当然だった。
彼の吸う空気はもっと広いところにあって、こんな地上では足りないのだろう。そう思った。満員電車なんて、なおさらだ。
また彼がタバコをくわえ、白い息を吐いた。
「だから、こうして、……こうすると、俺が息をしてるのがわかる」
さみしいことばだと、思った。
煙が、宙を舞う。
「そのために吸ってんのかもしんね」
耳許で、鳥のはばたきを、聞いた気がした。
夏休みをまえに、たいていの三年は部活動を引退する。夏の大会がある運動部などでは大会後になるが、二学期には響かない。
二学期からの転校生だというのに、それでも彼は部に入らされた。週にいちど、時間割りにクラブ活動の時間があるからだ。
彼が選んだのは美術部だった。じっさい、中途入部ができそうなところは美術部と家庭科部くらいしかなかった。文化部は少なく、結束の大事な運動部に、試合に出もしない三年生が途中加入できるはずもない。
「タバコだったんだ」
ぽつりと、私は声を落とした。
脳裏にあったのは、意外な展開だった。
なに、と彼がこっちをうかがう。
「カーテン」
噂が本当だとは思ってもみなかった。疑ってみたりなんて、いちどだってなかったのに。不思議と、なっとくできてしまった。
ああ、と彼が苦笑する。
「あれは失敗だった。音楽室にいたやつらがベランダから越境してきて。俺のタバコだけなら隠れなかったんだけど」
彼がどうして学校に残っていたのかはともかくとして、その時刻に音楽室にいたなら、部の後輩かもしれない。ときどき左右に位置する家庭科部や美術部のほうへと逃げては、持参したお菓子を食べたりする部員がいた。もちろん、禁止されている。
だが、彼は深く吐息した。その口からこぼれるのは、そんなかわいい話ではなかった。
「そいつら、いきなりヤリはじめんだもんよ。マジどーしよーかと思った。うち帰れよっつーカンジ」
……なにをつっこんでいいのか、わからなかった。黙ってあらぬ方向を見遣れば、かえっておもしろがって彼が顔をのぞきこんでくる。
「さらにびっくりすることに、そいつら両方、男なんだよな。心当たり、ある?」
あると答えれば満足するんだろうか。私の後輩に男は少ない。ちらりと頭をかすめていったのが、おそらく正解だろう。
あるんだな、と思った。
そういうこと。
しばらくまともにその後輩たちの顔が見られなさそうだ。二週間もすれば卒業だから、いいけども。
彼が私に問うたのは、理子がおなじ部なのを知っているからなんだろう。それもまた意外な気がしたが、確認はしなかった。
私が軽くうなずくと、彼は頭の後ろで両腕を組んで、空を仰いだ。
私も、空を見た。
春らしい、落ちついた色合いの青空だ。雲も少なく、冷えた空気に凍てついて、ゆらがない。
その青を眺めながら、どうも彼は、その日のことを思い描いていたらしい。
「すげえ驚いて、窓枠にタバコ落としたのも気づかなかった。……見入っちゃって」
……わからないひとだな。
むしろ私には、彼の行動のほうが衝撃的だ。問う声音には、驚愕と呆れとがまじった。
「隠れたまんま、見てたの?」
「最後まで、全部。なんか、キョーミあって」
性的なことに興味があるのは、中三男子として正常かもだけど。
男同士のそれを見ていて、楽しかったのだろうか。
けれど、さらっと執着もなさそうに口にされると、こっちは「ああそう」となっとくせざるを得ない。
深く考えないことにした。火事なんて、どうでもいい。燃えたカーテンは、消火済みの状態で発見されたのだし。
ようするに、気づいた彼が手を打ったのだろう。美術室は窓際にずらりと蛇口が並んでいる。水を使うことが多いためだ。カーテンはシンクに浸けられていたらしい。
それに、真相が闇のなかな理由もわかった。タバコよりなにより、そのふたりの話をできないのだ。ボヤがあって、いちばんひやりとしたのは、その後輩たちだろう。とりあえず後輩のためにも、私は貝になる。これまで沈黙を守っていたからには、彼も無責任に噂をまくつもりはないようで、安心した。
それよりも、気になることがある。
「絵が、一枚なくなってるって聞いたけど」
作品に火はまわらなかった。けれど調べてみれば一枚ない。それは彼のものだった。
秋の写生大会で描いた、彼の作品。型破りのため賞には入らなかったが、優秀だと美術室に貼られていた水彩画。
「持って帰って、あとで燃やした」
教師の質問には不明で通した彼が、素直に口を割る。不思議だった。
「――もったいないね」
きれいな絵だったのに。
どこが、という顔を彼はした。
写生大会は当然、眼に入る景色を描くものだ。たいていが山や川を描く。あと田畑と。
それ以外にないからだ。線路はあっても、電車は絵のために止まっていてくれない。そもそも一時間に一本の通過をとらえるのも難しかった。四両以上にはならない、利用者も少ない地方車線だ。
彼は田畑を描いた。金色の稲畑。まっすぐつづく畔に用水路。畑に落ちる鳥の影。けれど、彼の絵に鳥はいない。鳥を措けば、彼が見上げる空が鏡ならばこうなるという絵。その絵こそが、鳥の視点なのだ。
鳥瞰ということばを、初めて知った。
(……鳥に、なりたいのかな)
空を見上げるのは、やはり、そこに行きたいからだろうか。
絵を見たときに、思った。
(彼には想像力という翼がある)
(その翼でなら、高く翔べる)
空でなら、ちゃんと呼吸ができるんだろう。
息苦しい地上なんかより、よほど自由に。
「どうして、燃やしたの?」
問いに、応えはなかった。
私に教えたくないのでもなく、本人にもわからないのかもしれないと、思った。




