1 家の外へ
青い空を鳥が翔んでいた。
まだ田おこしされていない田圃のうえで、ゆるやかに旋回している。ぴち、ぴちちと鳴き声。雛に餌を運んできた、ひばりだった。
朝のまだ冷えた空気に、澄んだ声が響く。
視界につづく土だけの田畑は、暖かくなりつつある太陽の光にさらされ、霜が溶けたばかりで黒っぽい。黒い土のあいだから変色した藁の一部がのぞき、もぐらの跡のように地をでこぼこにしていた。田によっては、いまだ一月にした、どんど焼きの名残りがある。もう数日もすれば、苗が植えられるはずだ。
田圃のわきを歩きながら、ひばりを見上げ、私はため息をついた。白く、息が空気ににじんでいく。
三月、最初の土曜日。今日、私は学校に行かなかった。エスケープと云えば聞こえはソフトだが、つまりは学校から逃避しているだけだ。家からも。
私より三歳年上の兄は、いま戦争の真っ最中だ。頭に受験と名のつく争い。
そして、それは中学三年の私にも当てはまり、そのせいか、なんとなく家の空気がおかしかった。
兄は食事ちゅうも参考書を離さず、私がテレビをつけていると、バカにするよう鼻で笑った。父は無言で私たちに「期待」という名の圧力をかけ、母は母で、誰ひとりしゃべろうとしない食卓に対して、半ばヒステリーを起こしていた。原因はほかにもあるだろうが、彼女のことなんて私は知らない。
私は疲れていたのだ。家でも学校でも。
どこか、誰にも干渉されずに、羽をのばせる場所に行きたかった。呼吸のできるところ。
目の前の現実を感じない、遠い場所。
ひと月ばかり、ずっと私はそういった「逃げ場」を探していた。
家出も考えないでもなかったが、出ていってどうなるわけでもない。一日もせずに連れ戻されるのがオチだ。
誰にも気づかれず、少しの時間だけでいいから、自由になりたかった。現実を別の次元のこととして考えられれば、それでよかった。
学校に行かなかったのは、それだけの理由だ。
いつも家を出る時間に、制服を着て、学校で許可されたダッフルコートを羽織って、外に出た。
やぼったい紺のブレザー。スカートの丈は膝下五センチ。えんじ色のタイ。黒のコートはボタンも黒。靴下は白。靴だけは派手でない限り自由。いつもどおり、白のデッキシューズを履いた。
行ってきますと玄関で声をかけ、気をつけてねと居間が答える。だいじょうぶ。母は私のベッドの下をのぞかない。通学鞄を発見なんてしない。だいじょうぶ。何度もそう唱えて、家をあとにした。
私はわりと優等生というヤツで。学校をサボるなんて、初めてだった。
最初からそのつもりでいたのに、玄関を出たときには、罪悪感めいたものを感じた。
コートのポケットに財布を入れて、それだけで。鞄もなにも持っていないのを誰かに見咎められるかもと、心配したりもした。
本当に、呆れるほど素人なのだ。手際もわるい。時間配分も、読めてはいなかった。
けれど、とりあえず、私が行くところは決まっていた。
最終的な目的地を、私はまだ決めかねていたが、まず駅に行こうと思った。ここから離れて、遠いところに行こうとするなら、当然、中継として必要な場所だった。
私の家から駅までは、三十分くらいは歩く。学校はその半分くらいだ。方向がおなじなので、かえっていつも通る道はたどれなかった。
誰かに見つかるのを考慮して制服なのだが、本当に見つかって学校に連れられたら意味がない。意識的に、ひとの通らないところを進んだ。どうせ、どこも田畑がつづいて、距離があったとしても、見渡せるのだけれど。
駅は、川の向こうにある。
河川敷もふくめるのなら幅広い。架かる橋はほとんどが長く、ゆったりと蛇行する川は、そのうちに利根川と合流する。
その流れの左右では、ずいぶんと落差があった。
かたやビルの居並ぶ市街地側。かたや、のぞむ限り田畑のつづく私の生活範囲。学校は、田圃の真中にぽつんと建っている。えらく牧歌的で、ほほえましい。
東京から電車で二時間。
そこが、私の住む市だ。どことなく田舎。それとなく都心に近い、微妙な地方。新幹線も通っている。
新幹線では一時間。私はほとんど乗ったことがない。走っているところは、よく眺めている。夜に見るのが好きだ。
夜、暗くなると、一キロほど離れたところから高架を見る。田圃だらけで、視界をじゃまするものはない。高架も、車体も見分けられない、闇。街灯もまばらな漆黒の世界に、光る窓が走る。
とてもへんで、おもしろい。それに、きれいだ。そのまま宙に浮くのではないかと、いつも思う。
遠くへ征く、列車。その速さと自由さで、星の海まで渡るような――そんな錯覚。
昔に視たアニメの影響だろうか。壮大なオープニングテーマを、窓を見ながら、ときおり脳裏によぎらせたりする。
子供っぽいなと、ちょっと笑った。
田圃の畔をいくらかじぐざぐに進んで、そのうち、車の入れない狭い道に出る。舗装もされていない、土の通り。道のわきには小石がごろごろしている。
その奥には年中いつでも刈られない枯れかけた草が、けれどぼうぼうと生えていて。その隙間からは、新しい緑が微かに芽生えようとしていた。
丈高い草木は、ほとんどが私の肩を越す。もうここまで来れば、近所のひとには見つからない。ここを道なりに行けば、めざす川原に着くはずだ。
大橋を渡れば、すぐに駅に出られるけれど、そこは学校の裏手にある。学校に近づきたくはないため、少し距離のある橋を使うつもりだった。
学校に近寄りたくないのは、見咎められることもそうだが、なにより、私が負けてしまいそうなのがわかっていたからだ。
……哀しいけれど。人間の心は弱い。ちょっとしたことで揺らいでしまう。学校が目の前にあったら、私は、その圧迫にきっと押されてしまう。抗えずに。痛む胸にも嘘をつきながら。
遅刻しました、スミマセン、と教室に入る。すごく簡単だ。それだけで、私が悩んでいたことが終わる。少なくとも、表面的には。
こうして立ち止まり、横道に逸れたことも、みんな、なかったことになる。
あえかな抵抗も。
大きなもののまえでは、本当に微かでしかない。
私専用の座席に座れば、あとは勝手に列車が動く。在籍中学校発、志望校行き。その列車はかなり揺れが激しいので、希望の駅に着くまでに、けっこうな人数が振り落とされたりする。少しでも多くの乗客を落とさないよう、運転手も車掌も必死だ。
そんななかでも余裕をもってシートに座ったまま、本を読んでいたり、眠っていたりする乗客もいる。支柱につかまったり、窓にしがみついている者からすれば、まるで悪魔のような輩である。
そして私もやはり、その悪魔の一員なのだ。
振り落とされない自信があるなら、本当は悩む必要なんてないかもしれない。事実、運転手たる先生たちは声をそろえる――「おまえなら、だいじょうぶだ」。
私もできるなら、傷つきたくないと思う。
高望みしようとは思わないし、だからと云って自分を過小評価しようとも思わない。分というやつがある。高すぎず、低すぎず。そういった点に置いて、私は安全圏にいた。志望校は誰にも――親にも教師にも成績的に無難だと判断されるところだ。
しかし、その安全地帯にも最近、危険が迫っている。私の足許に、ぽっかりと黒い穴がのぞきはじめたのだ。いまはまだ小さいそれがそのうちに大きくなれば、足から私を呑んでいくだろう。
私はこの穴の正体を知っている。私の不安、あせり、心配――不信。そういったものが集まってできた闇。
つかまればきっと、抜け出せない。
早く逃げなきゃと思う私をひきとめる手がある。隣に座っている、あたたかい手。
私には。その手を跳ねのけられない。それを知ってか知らずか、手のぬしは、私に向かってほほえむ。
――いっしょの高校、行こうね?
そうして私が立ち止まっているあいだにも、その迷いを吸い込み、穴はまた広がりを見せるのだ。
×××
ひばりの翔ぶ田畑や狭道をぬけ、川へと進む。ここまでくればもう、ひき返せない。振り返っても、まがりくねった道は枯れた色をしめすばかりで、ひき返させる罪悪感も、まえへと進ませる衝動も、なにも起こさせはしなかった。ぴちち、と遠くで、ひばりが鳴いた。
私が渡ろうとしている橋の名は、通称をながれ橋という。大雨や台風などで増水すると、すぐに流されてしまうところからついた名らしい。去年の十月にも壊れたばかりだ。
この川に架かる橋のなかでは、いちばん幅も狭く、短い橋で、とり壊そうという話もあるらしいが、私はけっこう、ここからの景色が気に入っている。
とりたててきれいでもないが、よく犬の散歩でここに来て、橋の真中あたりで水の流れや、私の通う学校を見てからひき返していた。一キロ以上も離れたさきに、学舎はある。
じつを云うと、まだこの橋の向こう側へは、いちども行ったことがない。
……以前、いちどだけ、理子といっしょにこの橋に来た。
山も田も黄金色に染まる、秋の夕暮れ。私の手からリードを奪って、彼女は犬と追いかけっこをしていた。
紅葉した山々や枯れた河原のススキを見ながら、のんびりとあとを追っていた私は、前方不注意で、いつのまにか走るのをやめていた理子にぶつかってしまった。ごめんと私は謝ったが、彼女は聞いていないようだった。
彼女が一心に見つめるそのさきに、なにがあるのか、私は気づいていた。
現実にひとがいるとは思いがたい、オモチャのような箱。視界をさえぎるものがないせいで、こんなところからでも姿がのぞめる。
遠く山と大橋とを背景に、田の向こうにたたずむそれは、私たちが普段、いる場所。
私たちはしばらくのあいだ、おなじように、暗くなりはじめた背景にとける灰色の校舎を見つめつづけた。
川のせせらぎと、風の音、帰りをせかす犬の鳴き声だけが、奇妙な現実感をもって私に迫っていた。
「あと、半年ね。……嘘みたいだけど」
さばけた口調のなかにも、微かな寂寥をにじませて、理子はつぶやいた。
「そうだね……」
そんなふうに応えながら、あの場所との別離が、そんなにも悲しいとは、私は思わなかった。
彼女とはまるで別のことを考えていた。
オモチャみたいな、紙箱みたいな、そうマッチ箱みたいなあれが、燃えてしまうことを想像していた。
闇のなかで橙色の炎をあげる学校は、どんなに絵になるだろう。みずからのなかにあった火棒から身をむしばまれていくのは、もしあれに心があるのなら、どんな心地だろう。
そして、その火の顔は、私がいつも鏡の向こうに認めるその顔とおなじか、それとも私の知っている、誰かとおなじだろうか。
まちがえても、隣のこの顔ではない。確信をもっていた。
旅立ちを呑んで、前に向かいながら、それでも置いていくものを寂しがる彼女が、そんなことをするわけがない。可能性が高いのは、やはり私だ。
学校がきらいなわけじゃない。けれど、不意に――魔がさしたように、破壊や破滅というものに心が惹かれた。それは暴力的な衝動ではなく、むしろ暗い、虚無的な思いに近いのかもしれなかった。
破壊は他者に、破滅は自己につながるものだ。自暴自棄、という単語が脳裏に浮かんだ。
可能性をいくら考えても無駄だとは、そのときにも思った。けっきょくのところ、自分がそんな行動に踏みきれないのを私は知っている。少しも現実味を帯びない。どうでもいいことだと、私は結論づけた。
けれど、この思考が彼女や先生たちに知られたなら、どんな反応をされるのだろう。
理子には熱を計られるだろうか。
教諭たちは笑うか、怒るか、困惑し、「おまえみたいな生徒に限って」と云うかもしれない。
そして私は思うのだろう。――「私に限って」って、なんだろう、と。
……些細なことだけど。自分を全否定されたカンジがする。
でも、これはあくまで想像のなかの話だ。私が火をつけることも。先生たちの反応も。それによって私が傷つくことも。空想でしかない。まるで意味がなかった。
が、偶然というのは恐い。私がそれを考えた三日後に、ボヤが起きた。
美術室のカーテンが燃えたらしい。美術部員が帰ったあとで起きた事故だ。
私は炎を見たわけではないけれど、騒ぎがあったのは知っている。私は吹奏楽部なので、美術部とは音楽準備室をはさんでの、お隣さんだ。すでに引退していたけど、なんとなく気になって後輩から話を聞いたりした。
一報を耳にしたときには、冷えた手で首筋をなでられたような心地がしていた。私がやったのかもしれないと、ありえぬことを考えたりした。
もちろん、そんなはずはないのだけれど。
美術部に関して私はよく知らないが、やはり油彩で使う油などに引火するとまずいのだろう。なにしろ、あそこは紙だらけだ。作品に火がまわらなかったのが不幸ちゅうの幸いと、翌日になって事情を知った美術部員が泣き笑いしているのを見た。逆に、怒っている生徒もいたが。
事故と表現したが、カーテン自身がいきなり発火するはずがない。当然そこには、ひとの手がある。
どんな作為があるにしても、おだやかでない話だ。
さらにおだやかでないのは、それをしたのが誰なのか。校内に噂が出まわっていることだった。




