目の奥のひと
高校二年の秋だった。
田舎町にあるその高校では、なぜか毎年、ひとりだけ「突然学校に来なくなる生徒」が出る。
誰かにいじめられていたわけでも、目立っていたわけでもない。
それまで普通に通っていたのに、ある日を境にぱったりと姿を見せなくなる。
そして誰もその子のことを話題にしなくなる。
名前すら思い出せなくなる。
最初にそれを話してくれたのは、美術部の先輩だった。
「ねえ、授業中とかさ、誰かの“目”をじっと見てると、変なものが映ること、ない?」
そう聞かれたとき、僕は「え? 幻覚とかの話ですか」と冗談めかして笑った。
けれど先輩は真剣な顔をしていた。
「目の奥に、もうひとつ“目”があるの。人間の目じゃない。もっと、黒くて、細長くて、穴みたいなやつ」
「目の奥に、目?」
「うん。それが見えたら……もう終わりなんだって」
僕はただの都市伝説だろうと思っていた。
その日までは。
ある放課後、美術室での作業中。
窓の外は夕暮れで、空が真っ赤だった。
僕はなぜか急に、部活の後輩の佐伯さんの顔をまじまじと見てしまった。
彼女は黙々と絵を描いていて、僕の視線には気づいていない。
でも、なぜか彼女の顔を見るのをやめられなかった。
ふと、気づいた。
彼女の目の奥に、「何か」がある。
黒くて、細長い“目”だった。
人の目の奥に、別の目がある。
しかもそれが、こっちを見ている。
じっと、じっと見ている。
息が止まりそうになった。
視線を逸らそうとした瞬間、佐伯さんが僕の方を見た。
佐伯さんはにっこりと笑った。
でも、その笑顔の中に、もう「佐伯さん」はいなかった。
あの“目”だけが、にゅっと顔の裏から張りついて、見ているように思えた。
その日以来、彼女は一言もしゃべらなくなった。
どこか人形のように静かで、誰が話しかけても、ただ微笑むだけになった。
そして次の週、彼女は学校に来なくなった。
先生も、クラスメートも、誰も彼女のことを話さない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
僕だけが、彼女のことを覚えていた。
あの“目”のことも。
怖くなって、先輩に相談しようと美術室に行った。
でも先輩の机には、鍵のかかったスケッチブックと、置き手紙が残されていた。
《“目の奥のひと”は、見た者の記憶に残る。でも二度見てしまえば、自分の中に棲みはじめる。もしも君が最初の“目”を見てしまったなら、まだ間に合う。絶対に誰の目も、深く覗いてはいけない》
あれから二年。
僕は今、東京の大学に通っている。
“あれ”を見てからは、人の目を見られなくなった。
視線を外しながら生活するのは大変だけれど、それでも“あれ”に出会うよりはずっとマシだ。
そう、思っていた。
今日、駅でぶつかったサラリーマンに「すみません」と頭を下げたとき。
ふと目が合った。
その瞬間、僕の中で、なにかが割れた音がした。
視界がぐらつく。
人の顔の奥に、黒い“目”が次々に見える。
誰の目にも、それがある。
ああ、もうだめだ。
二度、見てしまった。
僕の中に、“目の奥のひと”が入ってきた。