26.かりそめの揺り籠
イェルドはくしゃみの音に顔を上げた。
見ると、ハンカーが鼻をすすっている。
「寝ないのか?」
「いや、ちょっとね。君こそ、ずっと起きているつもりかい?」
「たった今までは寝ていた」
ハンカーはイェルドの隣に来て草の上に寝そべった。
彼は隣で消えかかった焚き火を眺める大男をちらりと見て言う。
「寒くないのかい?」
外套を少女に渡してしまったので、イェルドは麻の服の上に革の上着を着ているだけだった。
「寒さには強いほうだ」
「そうかね」
イェルドはハンカーが時折横目で自分の様子を窺っているのに気付いていた。
確かに、寒い夜だ。切り立った崖が風を遮っているものの、ロワルス山脈の北方に位置するこの地の夜気は、肌を刺すように鋭い。
流れる雲がときどき月を隠す。風が谷を駆け下りていく音がする。
しばらくして、やっとハンカーは口を開く。
「あの子のことなんだけどさ」
彼の口から少女の話題が飛び出すとは思っていなかった。イェルドは手元から目を離し、ハンカーを横目で見る。
ハンカーはただ仰向けで星を眺めているようだった。
「彼女は、なんというか、喋れないだけでなく感情の起伏が薄いようだ。それか、実際には色々と思っていても、僕らにはそれを見せてくれないのかも」
「ああ」
「それに、主人である君に言われなければ何もできない」
イェルドは短く、そうだな、と答える。
「なんだい、その返事は。君はなんとも思わないのか?」
ハンカーは上半身を起こし、イェルドに向き直った。
「よそ者のぼくが口を出すべきことじゃないのはわかってる」
そう前置きしつつ、彼は怒ったような呆れたような口調で言う。
「君は何の気なしにあの子と契約したわけじゃないんだろ? 奴隷の主人にも責任というものがある」
イェルドは黙ったままだ。しかし、彼が言いたいことはイェルドにも分かっていた。
「俺はあれの引き取り手を探している」
ハンカーは目を見開き、信じられないといった様子で言う。
「引き取り手って、どういうことだい? あの子を見捨てるのか?」
「見捨てるのではない。引き取り手を探していると言っただろう」
イェルドはそう弁明するが、ハンカーは納得できないようだった。
「僕は君があの子をぞんざいに扱うような奴じゃないと思ってる。だが、奴隷を持つような奴らに君のような優しい人は少ないんだよ」
「もちろん、そんな奴に渡すつもりはない。相応しい者を探す」
「しかし――」
「俺にも旅を続けなければならない理由がある」
「……彼女をいっしょに連れていけばいいじゃないか。君ならできるだろう」
「俺は――」
イェルドは何かを言いかけて口を噤み、それから言い直した。
「……それは無理だ。そこまであいつが心配ならお前が引き取ればいい。助手くらいにはなるだろう」
イェルドは吐き捨てるように言い、手元の木片に鋭く刃を立てた。
「それじゃだめだ。もう彼女には君が必要なんだよ」
「必要? なぜそんなことがわかる?」
「君にはわからないだろうな。でも僕にはわかる。僕には子どもも、生徒もいる。だから分かるのさ」
イェルドはそれでも首を振った。
「このまま旅に連れて歩くのは、俺とあの娘、お互いにとって良くない」
「なぜそう言い切れるんだい?」
「俺がどうやって金を稼ぐのか考えてみれば分かる筈だ。俺は傭兵だ。戦いを生業にする仕事だ」
静かに、しかし確信を持って彼は言う。
「一歩間違えれば死ぬ。そうなったら、誰があれの面倒を見る?」
ハンカーは黙り込む。イェルドの言うことは正しい。
傭兵というのは、簡単に命を落とす仕事だ。手練の傭兵も、一瞬の迷い、過ちで死ぬ。
そういう仕事なのだ。
「君の、その……木細工は? かなり手慣れているようだけど、それで生計を立てられないものか?」
ハンカーは遠慮がちに言う。
傭兵の男の手つきは、どう見ても素人のそれではなかった。迷い無く、木片を削る姿は熟練の職人そのものだった。少なくとも彼にはそう見えた。
しかし、イェルドは首を横に振る。
「ただの手慰みだ。こんなものは」
◆
少女は誰かの話し声で目を覚ました。
薄めを開けて見ると、イェルドとハンカーが何かを言い争っていた。
話の内容までは聞こえないものの、二人が怒っているのが分かると心臓の鼓動が速くなった。
それに、「あの子」や「彼女」のような言葉が聞こえた。イェルドや他の人が少女のことを呼ぶとき、そういう言葉を使う。少女には名前がないからだ。
びゅうっと風が吹く。少女はすぐに毛布にくるまり、頭を隠した。寒いのはもちろんだが、二人の会話をこれ以上聴いていたくなかった。
天幕の中で少女は膝を抱えてうずくまった。なぜだかとても怖くなった。何かが溢れてしまいそうだったが、それがなんなのかわからなかった。
いつからか、泣くのも笑うのもやめた。
――涙を流したところでどうにもならない。慰めてくれる人もいない。こんなことで怖がっていてはいけない。分かっていたことだ。イェルド――あの人も同じだ。これまでと変わらない。どうせまたすぐ捨てられるのだから。
――笑ってはいけない。自分には笑う資格なんてない。
笑顔をくれた人がいた。
……でも、その人を殺したのは自分なのだ。
少女はまた外套に顔をうずめて眠りにつくのだった。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
そして今回もお読み頂きありがとうございます。




