23.研究家の男
翌朝、二人はまた馬に乗って旅を続けた。
少女は彼がどこを目指しているのかさえ知らない。奴隷である彼女はただ同行するだけだ。
しばらく進むと、道は山間に入った。谷底から登る風がびゅうびゅうと音を立てて吹きつける。
少し行くと、道端にいくつもの石柱が建てられていた。その方向に脇道が続いている。
石を積んで作られた橋を渡り、山の奥へ奥へと進んでいくと、そこには崩れた建物があった。
大きな岩を削り出した四角い石を積み上げて造られたそれは、いくつもの弧を組み合わせてある。
足元の水路には、水が溜まったまま静止している。降り注ぐ日差しのせいか、空気中に何か靄のようなものがかかって見える。
日陰になった柱には苔がびっしりと生えており、とうの昔に打ち捨てられたことがわかる。
少女は口を半開きにして、その建物を見つめていた。
まるで、何十年も前に時が止まったような場所。
「神殿だ」
イェルドが呟く。
二人は馬を降り、イェルドは近くの細い石柱に紐を結びつけて馬を停めた。
遠慮がちに後ろを歩こうとする少女に、イェルドは言った。
「俺のすぐ隣を歩け。神殿とは言え、何が居るかわからん」
少女は言葉に従い、イェルドのもとに駆け寄る。
神殿の石造りは山の奥深くまで続いていた。どこからか、ぽつりぽつりと水の滴る音がする。神殿の内部はところどころ採光用の穴が空いていたが、それでもほとんど真っ暗だった。
奥の方から何かごそごそという音がした。イェルドは少し足を止めて耳をすませる。そして、やがてゆっくりと歩き出す。かつかつと石の床を蹴る音が響く。
更に進んでいくと、大きな中央通路の脇に小さめの部屋があった。
そこには蹲って何かをしている人影があった。手元を小さな黒油のランプが照らしている。
背後に立つイェルドと少女に気付いたのか、その人物はうずくまったまま言う。
「やあ。何か用かい?」
なにかしきりに書き留めながら、明るい声で言うのは若い男だった。イェルドは感情を読み取らせない声音で言う。
「そこで何をしている」
男はランプを持って立ち上がり、イェルドを振り返った。
暗闇の中にイェルドの顔が浮かび上がる。壁のように立ちはだかっている巨漢を見て、男はびくりと体を震わせた。
「うわあっ! びっくりした! 驚かさないでくれよ」
男は持っていたランプを落としかけ、空中でそれを捕まえた。
「それで、何を?」
イェルドは悪びれもせずまた尋ねる。
ああ、と一息ついて男は言った。
「この神殿についていろいろ調べていたんだ」
イェルドは何に使うのかわからない道具の数々で溢れかえった彼の荷物をちらりと見た。
男は、細い硝子の管のようなものに植物を入れていた。何のことはない、どこにでも生えている雑草だった。
イェルドは内心首を傾げつつ言う。
「面白い趣味だな」
「趣味、か。そう見えるよね。ははは、これでも一応仕事なんだけどね」
そう言って、男は懐から何かを取り出してイェルドに見せた。
「それは?」
「あ、ご存知ない? ま、知らなくても無理はないか。うちもまだまだだね」
残念そうにそう言う男。イェルドは何故か僅かに苛立ちを覚えて、思考を巡らせた。
ウリベの木が古語の文字を囲んでいる紋章が象嵌された記章。思い当たるものが一つだけある。
「ああ、思い出した。あんたはオリヴィエ学院の学生――いや、教授か?」
ウリベは知恵の象徴で、書かれた古語はウリヴィエ学院を表すものだったはずだ。学院はユヌス大陸で最も名のある学術機関のひとつだ。学問とはほとんど無縁で生きてきたイェルドもそのくらいは知っている。
「ご名答! いかにも。私は、ウリヴィエ学院 地理歴史学部 神獣研究科のハンカー――ハンカー・ゲシュヴィントだ」
ハンカーは頭巾を取って恭しく礼をする。
長く尖った耳が現れる。なるほど、エルフだ。イェルドは納得した。
エルフ族は長寿を持て余して知的探求にのめり込む者たちも多い。
「神獣研究、と?」
イェルドは怪訝な顔をした。どこか胡散臭い名前に聞こえる。
「そうさ。神獣や竜の研究をしてる」
自信ありげにそう言って、ハンカーは手袋を脱いで右手を差し出した。
「よろしく」
イェルドも右手の手袋を脱ぎ、それに応じる。
ハンカーの手を握ると、彼は力強く握り返して来た。
「イェルドだ。よろしく頼む」
「いい手だね。戦士の手だ」
「そうか」
特段嬉しくもなさそうにあしらうイェルドに、ハンカーはちょっと首を傾げた。
しかし、彼の興味はすぐに別のところに移ったようだった。
「それで、後ろのその子は?」
二人の視線を感じた少女は、イェルドの足元に隠れつつ頭を下げてお辞儀をした。
「おや、可愛らしいね。君の子かい?」
「違う」
「君の子ではない、と? 名前は?」
「……知らん」
ハンカーはイェルドの耳元に顔を近づけ、やけに楽しそうに囁く。
『まさか、吸血鬼じゃあないだろうね! そうだったら嬉しいんだが!』
赤い目を見てそう思ったのだろう。イェルドは小さくため息をつく。
「そんなわけないだろう」
吸血鬼なぞ連れていれば大問題だ。すぐに衛兵が飛んでくるだろう。
「そうかい? それは残念だ」
少女は二人のやりとりをよくわからずにただ眺めていた。
イェルドはこれまでの経緯をかいつまんで説明した。
「だから、一応は主人と奴隷ということになる」
「へえ、そりゃあ奇妙な話だ。つまり、君は彼女の名前を知らないと言ったが、正確には彼女についてはほとんど何も知らない、というのが正しいわけだ」
この男はどうしてこうも鼻につくんだろうか。イェルドは面倒くさい気分になった。
普段なら指摘しないところだが、思わず言ってしまった。
「それはそうだが、そうやって言葉の節々をあげつらうのはやめたほうがいい」
「おっと失礼。僕の悪い癖がまた出てしまった。悪気があったわけじゃないんだ」
「俺はなんとも思わないが、傭兵には気性の荒いやつも多い」
なんとも思わない、という若干の嘘を交えつつイェルドはハンカーに忠告してやった。しかし、ハンカーは楽しそうに言う。
「なら君には良いってことだね」
「…………」
イェルドは呆れてものも言えなかった。
ハンカーはイェルドの反応を見てひとしきり笑った後、急にひどく神妙な面持ちになった。
「しかし、言葉を話せないというのはとても辛いだろうね。僕のよく回る口を半分分けてあげたいくらいだ」
「己が煩いという自覚はあるようだな」
再び注目を受けた少女は萎縮してしまう。イェルドはしばらく黙っていたが、再び口を開く。
「……そうだな。一生このままでは......あまりにも」
「何か考えはあるのかい?」
「俺が聞きたい。俺は治癒師ではない」
「僕もさ。いくら賢い、それはもう賢い学者であるとは言え、僕は歴史学と生態学が専門だからなあ…………」
「エルフにはお前のように陽気で無恥な輩も居るのだな。もっと高潔な種族だと勘違いしていた」
そこで、ハンカーは突然少女の前にしゃがみ込み、彼女の目を見て言った。
「でも、お嬢さん。話せなくても、伝えようとすることは大事だ。分かるね?」
少女はどうしていいか分からない様子だった。彼女はただ小さく頷き、ハンカーもそれに頷き返す。
湿っぽい空気にしてごめんね、とハンカーは明るい声で言い、立ち上がる。
「それで、君たちは宿を借りに来たのかな?」
「ああ、そうだ」
ここは神殿跡。神殿には神獣が祀られているものだ。
打ち捨てられているとはいえ、祀られていた神獣の加護が残っている。
絶対はないが、魔獣に襲われる危険は少なくなる。故に、夜の神殿跡というのは、日没までに宿場町にたどり着けなかった旅人や隊商で賑わうものなのだ。
「君たち以外にも、そのうち旅人がやってくるだろうね」
「ハンカー、お前も今日はここで?」
「ああ、そのつもりだよ。そのうち旅人や商人たちもやってくるかな」
「どうだろうな。今日は風も強い。旅人は来ても隊商は来ないかもしれない」
イェルドはふと、ハンカーの荷物を見た。いかにも重そうだ。
四、五枚の羊皮の地図に、何かを書き留めるための羊皮紙、黒油の油筒。竹の水筒に、保存食用の皮袋、野営用の寝具。そして、ランプ。
その他にも、イェルドには用途の見当もつかない道具がいくつもある。少女は興味があるのか、まじまじと彼の道具たちを見つめている。
神殿の入口に馬がいるわけでもなかった。つまり彼はこの荷物を背負ってこの急峻な山を自らの足で歩き回っているということだ。
よっこいしょ、と言いながら彼は荷物を持ち上げた。
「いやあ、重い重い。これでも鍛えてるんだがね」
ハンカーは、背は高いが細身だ。しかし、見れば確かに彼の脚の筋肉は旅人らしく引き締まっている。
きっとこれまでにも数々の山々を渡り歩いてきたのだろう。なにしろここは世界の屋根とも言われるロワルス山脈の中心部なのだから。
「それじゃ、そろそろ野営の準備をしようかな」
「おい待て、どこへ行く」
神殿の奥へ歩いて行こうとするハンカーをイェルドは呼び止める。
「うん?」
「やめておけ。奥に行けばいくほど、魔物が現れた時に逃げられなくなる」
「……うん、一理あるね」
彼は少し考えて言った。
「しかし、神殿の奥を確認しておくのは重要なことじゃないか? どう思う、熟練の傭兵さん?」
イェルドは何も見えない暗闇になっている神殿の奥の方を見やって言う。少女もつられて同じ方に目をやった。
神殿の奥からひゅうっ、と風が吹き、少女は体をぶるりと震わせ、左腕を押さえた。
どうやら、神殿の奥は外とつながっているらしい。
「ふむ……」
イェルドはしばし考えた。何を祀った神殿なのか、何に使われた神殿なのか、興味がないと言えば嘘になる。
それはどの程度、どんな神獣の加護があるのかを知ること、つまり今夜の安全の確認にもなるだろう。
「道理だ」
「よし、じゃあ一緒に行こうじゃないか。君がいれば僕も安心だ」
「護衛なら銀貨三枚だ」
イェルドは相変わらずの仏頂面で言う。
「えぇ! 勘弁してくれよお、お金あんまり持ってないんだ」
「冗談だ」
ハンカーは、変な顔をした後、くすりと笑う。わかりにくい冗談だなあ、とこぼしつつイェルドの前に立って歩き出した。
イェルドもそれに続こうとして、振り返る。
「どうした? 怖いのか?」
少女は神殿の奥へ進むのをためらっている様子だった。唇を固く結び、肩を緊張させているのが分かる。
「近くに寄れ――俺が守る」
イェルドの言葉を聞くと、少女はおずおずとイェルドの足元に寄って来た。
そうしてイェルドと少女の二人も神殿の奥の方へと歩き出した。
お読みいただきありがとうございます。
先週および昨日は投稿できず申し訳ないです......
埋め合わせとして、できれば今週平日に次話を投稿しようかと思います。
追記: 近頃、これまでに投稿したエピソードの改稿を行なっています。誤字や更なる推敲のためです。そのため、語彙や表現、記述等が変化している箇所が多数あります。当エピソードまでを各話の投稿後早くに読んでくださっている方にとっては、過去に登場した語彙と差異があったり、多少の齟齬がある場合があります。また、このような改稿は今後も行っていくつもりですのでご了承ください。




