22.新たな主人
どこへ向かっているのかもわからないまま半日馬で移動を続け、そして途中の村でまた旅籠に泊まることになった。
少女は困惑していた。
イェルドが自分に何も言いつけてこないからだった。主人がいるのに働かないでいるのはおかしな気分なのだ。
イェルドは部屋に着くなり、「待っていろ」と言って、出ていった。今のところ、命令はそれだけだ。
今までならば、少女の仕事は主に洗濯だった。同じ家で働く他の奴隷には、料理や給仕、あるいは買い物や薪割りなどの肉体労働を任されている者も居た。
しかし、少女は何の仕事を与えられてもてんでだめだった。
料理をすれば食材を焦がして主人に殴られた。テーブルの準備をすれば食器を割って鞭で打たれた。買い物では転んで品物を駄目にすした。何をやってもてんでだめだったのだ。
ふつう、女の家内奴隷は母親から色々な家事のやり方を教わる。しかし少女は、気づいたときにはもうひとりぼっちだった。
洗濯はだけは、なんとかリュミアに教えてもらって覚えることができた。
彼女――リュミアの洗濯はすごかった。
たかが洗濯と侮るなかれ。彼女が引き受けたその出来はどの他の奴隷がやったものにも勝る。汚れが完璧に落ちているのはもちろん、生地は柔らかく手触りが滑らかになり、新品よりも綺麗なのではないかと思うほどであった。
彼女はその術を教えてくれた。
少女の暮らすノクサルナ王国は大陸の北にある。水はいつも冷たく、指がすぐにあかぎれだらけになった。しかし、何度も練習して、なんとかそのやり方を身に着けた。
床を軋ませる足音と扉の開く音がして、イェルドが入ってきた。
「なぜ座らない?」
部屋に入るなり、彼は言った。宿の狭い部屋には、寝台と椅子が二つずつ、それに小さな円い卓がひとつあるだけだった。だが、今思えばおかしなことだった。彼は当然のように二人用の部屋を取ったのだ。
座らなくてはいけなかったのだと思い、少女は慌てて椅子に座った。
「飯だ」
短くそう言うと、イェルドはスープが入った二つの椀と四つのパンを卓に置き、食事を始めた。
まだ湯気が立ち上っている、温かいスープだ。少し白みがかっていて、とろりとしているようだった。ところどころに見えるのは鶏肉だろうか。少しにんにくのような香りもする。芋や人参に加え、野菜がごろごろ入っている。
イェルドは手袋を外すと、両手でパンを二つにちぎり、片方をスープに浸した。パン生地の細かな穴を通り、中にまで温かいスープが染み込んで、持ち上げたパンから湯気が上がっている。イェルドはそれを口元に持っていき、スープに浸したところに齧りついた。
表情には出ないが、さぞ美味いのか、ふっと息をもらす音が聞こえた。
次は匙を持ち、スープから肉を持ち上げて……というところで、少女の方を怪訝そうに見た。
「早くしないと冷める」
またやってしまった。飯だ、というのは食べろ、という意味だったのだと悟り、少女もそそくさと食事に取り掛かった。パンをちぎろうとするが、イェルドのようにうまくは行かない。
右腕が添え木で固定されていて、パンをちぎることすらできない。
少女は両手でパンを持ち、齧りついてちぎるという考えに至った。両手でしっかりと握り、狙いを定めて齧り付く。
「……!」
――石か、と思った。歯が立たないとは文字通りこのことだ。顎の力と手の力で逆方向に引っ張り、パンをちぎるという策は敢え無く破綻してしまった。
どうしたものかと内心頭を抱えていると、ふっ、と息を漏らした音が聞こえたような気がして顔を上げた。イェルドは言った。
「それを寄越せ」
少女は仕方なくパンを渡した。すると、イェルドは丁寧な手つきでパンを二つ、そして四つに割った。そして、黙って少女にその四つを返してきた。
まさかとは思ったが、奴隷である少女のためにイェルドがパンをちぎってくれたのだ。そんなことは今までならあり得なかった。そもそも、こんなことを奴隷にする人間がいるはずがないのだ。
大人の男の力によって少し潰れてしまったが、腹に入れられるのならそのほうが何倍もいい。
「…………」
感謝は相変わらず言葉にならない。喉を動かそうとしても、必ず声を出す手前で何かがつかえたように言葉が飲み込まれてしまう。
代わりに少女はその場で頭を下げる。
そしていよいよだ。パンをスープに浸し、そこにかぶりついた。
思わず少し頬が緩む。塩気の多いスープだが、馬に揺られて疲れた体にとっては慈雨のようでさえある。続けて、牛乳か山羊乳かわからないが、ほんのりと濃厚な甘みが口の中に広がる。咀嚼して飲み込めば一口でも十分すぎるほどの充足を感じる。
このスープ一杯を飲み干しても、本当にいいのだろうか。
食べ進むと、パンもスープもあっという間になくなってしまった。顔を上げるとイェルドが見ていた。どうやら食べる様子を見られていたらしい。少女はまたしても緊張で身体を固くしながら食べなければならなかった。
少女が食べ終わったのを確認するとイェルドは椀と匙を持って部屋を出ていったかと思えば、すぐにそれらを持って戻ってきた。食器類はすべてきれいになっていた。どこかで洗って来たらしい。
少女はますますわからなくなった。本来ならば、食事の準備も皿洗いも、奴隷に任せるような仕事だ。
彼が自分をどうするつもりなのか、全くわからない。前の主人であるザルボフが言っていた。お前は役立たずだから、引き取ってもらえるとしても一時の嬲りものになるだけだろうと。だが、どうもそんな様子には思えない。
「こっちに来い」
イェルドが二つ横に並んでいる寝台のほうに少女を呼んだ。
少し肩を強張らせ、少女は呼ばれた方へ向かう。
「そこに座れ」
言われた通り、少女はイェルドの向かい側の寝台に腰掛けた。視界が男の身体で覆われた。何をされても抵抗のしようがない。
すると、まるで心中を察したかのように彼は言う。
「案ずるな。俺はお前に危害を加えようなどというつもりは全くない」
危害を――つまりザルボフが言っていたようなことはしないということなのだろうか。
「手を」
言われた通りに両手を差し出すと、少女の小さな手をごつごつした大きな手で包み込むようにして持った。そして、少女の手指を見つめる。
「血は止まっているようだな」
なんのことかと思ったが、思えば契約のときにつけられたあの切り傷のことだ。
このくらいなら気にするまでもないと思っていた。というのも、少女の手にはまだ塞がりきっていないあかぎれの痕が無数にあった。同じような傷がひとつ増えただけだと。
「一応、包帯をしておくから、むやみに触れないように」
そう言って主人は綿紗を鞄から取り出し、右手の親指の先に巻いて固定した。
彼は塗り薬の入った小さな瓶を取り出し、両手の節々に開いたあかぎれに塗った。指が傷口の上を通る時に少し痛んだ。
「傷口を放置すれば毒が入る。お前のように体力のないものは弱い毒でも命に関わることがある。そこに横になれ。仰向けに」
言われた通り横になると、急に脚を掴まれたので少女はとてもびっくりした。
そのまま脚を引っ張られ、脚だけが寝台から出て宙に浮いている状態になった。
「……酷い」
イェルドが小さくつぶやくのが聞こえる。思わず、少女は自分の足の方を見た。
足枷で擦れた足首がところどころ出血して膿んでひどい色になっている。自分でも見たくないくらいの有り様だった。
その後、イェルドはまたあの塗り薬を塗り、乾いたところで綿紗の包帯を巻いてくれた。
傷の手当てをされながら少女は考えていた。この男はなぜ奴隷である自分にここまでするのだろうか。後々何を要求されるのか、わかったものではない。いつ殴りかかってくるかもわからない。
…………けれど、火事から助けてくれた。門番から守ってくれた。二度も傷の手当てをしてくれた。それは紛れもない事実だった。
「終わりだ」
起き上がって見ると、足首にはきれいに包帯が巻かれていた。痛みはあるが、包帯を見ると安心した。あんなにひどかった足首の傷もこれでいずれは治るのだろう。
「もう寝ろ。明日の朝も早い」
そう言って寝台の端から立ち上がると、イェルドは近くにあったろうそくの火を手のひらで扇いで消した。
彼は今までの主人とは何もかもが違った。
そしてきっと、思っていたよりも怖い人ではないのかもしれない。
心の奥がざわついた。
ただ、殴られもせず、お腹いっぱい食べて、寝台で眠ることができる――それだけでも、今までとはくらべものにならないほど……良かった。




