20.契約
しばらくして、イェルドと少女はカクルースの関所に到着した。
石を積んで建造された大層立派な関所で、左右に櫓が立てられている。
ロワルス山地からノクサルナ王の領域へと抜ける関門は複数あるが、東西に一つずつひときわ巨大な関が存在する。その西側の一つがこれだ。
そして、その関所の風貌に違わず、カクルースの警備はこれまでのどの街よりも厳しかった。
「全員、馬を降りろ! 一人ずつ通行証を確認する!」
ここからはノクサルナ王が古くから統治してきた領域に入る。
カクルースの関所は密輸や怪しい人物の侵入を防ぎ、通行料を取ることでノクサルナの経済を潤しているのだ。
「そこの二人組、頭巾をとれ」
イェルドは頭巾を脱ぎ、少女に向かって頷き、彼女の頭巾も脱がせた。もはや少女の身分を隠しておくことはできまい。
門番は少女の首元の印に目をやり、また言う。
「この奴隷の契約証は?」
「ない」
「商証はあるか?」
「それもない」
門番の男は溜め息をついて言う。
「……紐無し奴隷は通れない」
紐無し、というのは、奴隷が縛られていない状態。つまり、主を持たない状態のことだ。
イェルドは訝しく思い、門番に尋ねる。
「それはいつからだ? そんな決まりは聞いたことがない」
「半年くらい前かな。最近奴隷の流通が増えててな。わかるだろう? 戦だよ」
――アルリームの陥落。民衆の奴隷化。
イェルドは眉をぴくりと動かした。
「同時に奴隷の密輸も増えてるってわけだ。だから警戒せにゃならんのさ」
「そうか」
「悪いけど、どこかで契約を済ませてもう一度来てくれ。次!」
イェルドと少女は引き返すしか無かった。関所を離れ、道端に座った。
「……ひとまず休む」
少女はイェルドの顔をちらりと見る。二人の間にどこか気まずい沈黙の時間が流れる。
関所の通り道は山肌にあり、吹きさらしだった。
少女はぶるりと身を震わせて頭巾を被った。それに気づいたイェルドは自分の外套を脱いで少女に羽織らせた。少女が頭巾の下からイェルドを見上げる。彼は外套の裾が地面について汚れるのも気にしないようだった。
今さら前の街に戻ることはできない。しかし、前に進むこともできない。進退窮まってしまった。
その時、聞き覚えのある声が聞こえた。
「あれ、旦那!」
道の方から声がして、近づいてくる者がいる。
彼は長い栗毛の山牛に乗っていた。山牛は厚い皮膚に長毛を持っており、山や寒冷地にはとことん強い騎乗動物である。足はそれほど速くないが、山道なら中途半端な馬よりも軽々と進んでいけるだろう。
「こんな所で会うとは偶然ですね」
なんとも奇遇なことに、彼は以前会った奴隷商だった。名前はエルモン。
イェルドがちらりと見ると、少女は頭巾の縁を押さえて顔を隠そうとしていた。彼が何か危害を加えたわけではないとはいえ、いい思い出ではないだろう。無理もない。
「そう言えば、名前を聞いていませんでしたね」
「イェルドだ」
イェルドはさり気なく少女を隠すように立ち、エルモンに尋ねる。
「なぜここに?」
「それがねえ、旦那。あの街にはもう居られなくなってしまいまして。在庫をすべてディヌーン様に売り払って身ひとつ、遥々ここまで来たというわけです」
「随分思い切りがいいな」
イェルドはこの人物が優秀な商人だと知っている。そんな彼がさっさと店を畳んで撤退したのにはそれだけの理由があったのだろう。
「旦那、あの街はもう駄目ですよ。ディヌーン様とザルボフ様の競争のお陰で、街はもう散々です。アリドゥルネの糸はご存知でしょう?」
「ああ」
アリドゥルネの糸とは、その名の通りアリドゥルネという一年生の植物の茎の繊維から作られる糸だ。
少女とイェルドが出会った街の周辺の森にはアリドゥルネが多く生えていて、糸の生産は街の重要な産業だった。植物そのものは多く採取できるが、糸は伝統的で多様な工程を経て作られるものであり、それが他の種類の糸と差別化できる理由でもあった。
「実は少し前からザルボフ様がその生産を独占し始めていたのです。彼は少しずつ市場での価格を下げて他の糸商人を潰していきました。これに怒ったのはディヌーン様です。ディヌーン様は面倒な生産工程を飛ばして品質の低い糸を売り始めました。ザルボフ様はそれに対抗して労働者の賃金を削って価格を落としてしまいました。そこからはもういたちごっこです。結局、品質の低いアリドゥルネの糸はもうどこにも売れなくなり、生活が苦しくなった人々が反逆を起こして、もう街は無法地帯です」
「領士は何をしているんだ?」
「あそこの領士はもうとっくにザルボフ殿の傀儡でしたから」
「しかし、領士の後ろには州士、そしてノクサルナ王がいる。王が黙っているはずがないのではないか?」
「ええ、それがどうも不思議なところです。私は正直、今や夜の王のことも信じることができません。ところで――」
エルモンはイェルドの背後にしきりに目をやっている。彼はイェルドの後ろにいる少女のことが気になっているようだった。
「その子、以前旦那がうちに連れてきた奴隷ですよね?」
「……そうだ」
「てっきり、ディヌーン様のもと居るものと。まさかとは思いますが……」
エルモンが言い終える前にイェルドは一歩前に出てエルモンを見下ろし、睨んだ。
「あまり好奇心を持たないほうが良い」
「……いえ。私は何も問い正そうなどというつもりは。ただ、怪我をしているようなので。まさか旦那がやったわけじゃありませんよね?」
「そんなことをして何になる。そも、危害を加えておきながら治療を施したのだとすれば意味がわからんだろう」
「奴隷を痛めつけたことを隠すために治療したように見せる輩もいるんですよ。ま、旦那は違うと思いますがね」
エルモンはちらりと関所の方を見た。今も数人が通行の許しを待って並んでいる。
彼はイェルドと少女に視線を戻し、合点がいったとでも言いたげな表情になった。
「もしやお困りなのでは?」
「……ああ。実は、契約無しの奴隷は通れないと言われ困っていたところだ」
「そうですか。それはお困りでしょう。今から引き返しても、魔物がたくさん出る夜までに前の街には戻れませんからね。でも、ほらここ。眼の前に奴隷商人がいますよ?」
奴隷商がいなければ奴隷契約をすることはできない。
どう考えても、エルモンに頼むべきだろう。妙に勿体ぶった言い方をするのは気になるところだが。
しかし、奴隷契約はどうしても気が進まなかった。
「しかしな……」
契約がなければ通れないのは事実だ。このままエルモンに引き渡してしまうのも手だが、彼はもう荷物を増やしたがらないだろう。そもそも、彼には以前一度断られている。
「お前はそれでいいか?」
イェルドは足元にくっついて様子を窺っていた少女にそう尋ねた。
少女は質問の意味がわからないといった様子で、ただ黙ってイェルドを見つめている。
「旦那、よく言葉が足りないと言われるんじゃありません? それじゃわかりっこありませんよ」
「…………契約を結べば、お前は俺の奴隷ということになる。それでも構わないか、と聞いている」
彼女は少し目を見開いてイェルドの顔を見ると、はっきりと頷いた。この状況では断りにくかっただろう。
イェルドも頷いて少女に答え、もう一度エルモンの顔を見た。
「そういうことだ。この娘と俺の主従契約を手伝ってはくれないだろうか」
「うーん、どうしましょうねえ。もし……もしですが、彼女が盗まれた奴隷だとしたら、ちょっと嫌かもしれません。私は厄介事に首を突っ込みたくはないので……」
このやり手の商人が言葉を濁しつつすぐに断らないのは、何か他に思惑があるからだろう。
イェルドは溜め息をつき、言う。
「幾らだ?」
エルモンは首を横に振った。
「今の私にはお金よりも必要なものがある。貸しひとつということで如何でしょう」
「どういうつもりだ?」
「あなたは傭兵です。これは私の推測ですが……旦那は銀、あるい金級の傭兵なのでは?」
「さあな」
イェルドはそう言ってはぐらかした。
エルモンはザルボフの屋敷での一件で何か悟ったのかもしれない。
「答えていただかずとも結構です。まさかとは思いますが、”黒札”ではないでしょうし。そこでです。一度だけ、何でも私の頼みを依頼料なしで聞くというのはどうでしょう。大方、私達の行先は同じノクサルナでしょうから、また会うこともあるでしょう」
「……何でもは無理だが、可能な限り応えることはできるだろう」
正直なところ、あまり持ち合わせが多くないイェルドにとってエルモンの提案は有り難いものだった。
エルモンはにっこり笑って頷いた。
「決まりですね。今、契約用の紙を用意します」
エルモンは山牛の荷物の中から一枚の紙を取り出し、滑らかな木の板を下敷きにしてさらさらと何か書いた。
さすがは商人である。いつでも紙と羽根ペンはすぐに使えるように持っているらしい。
「では、イェルド様。ここに名前と血液を」
イェルドは手袋をしたまま羽根ペンを受け取り、名前を書いた。
そして、腰に差した小刀を抜き、左手の親指の先端を切って血判を押した。
「次はその子の番ですね」
少女が自ら前に進み出ると、イェルドは少女の手を取って左手の親指の先を切る。すると、少女は自ら血判を押した。
イェルドは自分の心臓に一瞬、魔力の乱れを感じた。拍動を強く感じたのだ。
それに、少女の首元の印が一瞬、光ったような気がした。少女は首元の隷印を左手で撫でていた。
しかし、そのほかに特に変わった様子は見受けられない。
当然、奴隷契約など初めてだったイェルドは、これだけなのか、と少し拍子抜けした。
「さあ、契約完了です。これで関所を通れますね」
「助かった」
にっこり笑い、エルモンは右手を差し出す。イェルドは右手の手袋を脱ぎ、握手に応じた。
エルモンの笑顔にはしかし、どこか翳りがあるように見えた。
【アリドゥルネ】
ユヌス大陸を南北に分けるロワルス大山地の北側寄りに、大陸の中心から西にかけて帯状に生息域を持つ一年生植物。丘陵から山麓部にかけて数多く自生するものの、高級糸として選ばれるのは山の中腹に差し掛かる地帯に生息するものに限られる。アリドゥルネ糸は伝統的な製法を用いて手作業で紡がれる。
収穫したアリドゥルネの茎を水精霊の魔力を含む水に浸して柔らかくし、表皮を剥ぎ、槌で叩いて繊維を取り出し、乾燥させた上で糸に紡がれる。この製法を用いて作られた糸は丈夫で美しい光沢を持つことから昔から高級な衣服や装飾品に用いられてきた。この紡績産業がかつてより商人や領主の対立の火種になってきた。




