18.火災の翌朝
翌日、少女が起きると、昨日自分を助けた男はすでに起きていた。
それに、もう一人知らない男が部屋の中で話していた。
「――ええ、シオ殿には説明してあります。道程の半分は越えたので、前金は取っておいていいとのことです」
「感謝する、ティンバー。シオとリドにも感謝を伝えてくれ」
何の話をしているのかはよくわからないが、一つっだけ分かったことがある。鉄の甲冑のような重装備に全身を包んだティンバーという男は、身体の大きい男を”イェルド”と呼んでいた。それがあの男の名前なのだろう。
――イェルド。イェルド……様。
少女は何度も、小さく唇を動かしてその名前を繰り返す。忘れてしまわないように、何度も。またどこかに売られるのかもしれない。そうすれば、今度こそもう二度と会うことはないかもしれない。それでもその人の名前だけは忘れたくない。
「ああ、起きたか」
白髪混じりの黒髪青目の大男――イェルドが少女の目覚めに気づいた。昨日と印象が違う気がするが、気の所為かもしれない。
甲冑の男も少女の方を向いて挨拶をした。
「おはようございます。私は傭兵をやっているティンバーと申します」
奴隷に敬語を使う男を、少女は初めて見た。彼女は寝台の上で上体を起こし、ぺこりとお辞儀をした。
するとイェルドは名乗っていなかったことに気付いたようで、少女に正面から向き合い、言った。
「俺はイェルドだ」
さっき知ったばかりだが、名前に間違いがないことは分かった。少女はまた布団の上でお辞儀をした。
「礼儀正しい子ですね。お名前は?」
「こいつには名がないらしい」
少女が首を横に振る前にイェルドが答える。
「ああ、そうなんですね」
生まれつきの奴隷で、名前がない者も多い。そういう奴隷には、主人が勝手に何か名前や呼び名をつけるのだ。前の呼び名は赤い目を意味するレハナだったが、その前は別の名前だった。
ティンバーと名乗った男は少しの間固まっていたが、やがて言った。
「イェルド殿、もしやこの子は……」
「ああ。話すことができないらしい」
ティンバーの視線を感じ、少女は黙って頷いた。
「そう、ですか……それは大変ですね」
「そうかもな」
「貴殿の口数が少なすぎるからそんなふうに言えるんですよ」
イェルドは答えに窮したのか、押し黙った。
「その子、目の上を……」
「ああ。傷を縫った」
「可愛らしいお顔であるだけに、残念ですね」
ティンバーは可哀想に、と哀れむ声音でそう言った。彼の顔は見えないが、好ましい人物であることは話し方と声でよく分かる。
「痕はそれほど残らんだろう」
「それなら良かったです」
ティンバーは立ち上がり、部屋の隅に置いてあった剣を取った。
「まあいいでしょう。先が思いやられますが、とにかく出発しなければなりません」
「ああ。今、朝餉を持ってくる」
イェルドはティンバーの軽口を無視して階下に向かった。
今朝の食事は昨日と同じ、とろりとしたスープのようなものだった。ティンバーとイェルドはパンと干した肉らしきものを食べていた。
食事が終わると、少女は旅人らしい外套と丈夫な革のズボン、厚手の麻のチュニックを着た。
革の長靴を履こうとして少女は気づく。足枷がついたままでは履くことができない。ティンバーがそれを見てイェルドを呼ぶ。
「イェルド殿。足枷が……」
「ああ」
イェルドは少女の足元に跪いて革袋から何か道具のようなものを取り出し、足枷を弄り始めた。
しかし、一向に枷が外れる様子はない。
「イェルド殿? だめなら他の方法で足を……」
「ちッ」
少女はイェルドの舌打ちにびくりと身体を震わせた。
イェルドは構わず手に力を込める。ばきっ、という音がして、ひしゃげた鉄の塊が少女の足元に四つ、転がった。
足が軽い。椅子の上からぶらぶらと足を振ってみると、まるで嘘のように軽い。もう長い間つけていたからわからなかったが、こんなに重かったのか、と実感した。
少女はちょん、と足先で地面を着いてみた。それだけで弾んでしまいそうに感じる。
「イェルド殿……貴殿は何物なんですか。今、鉄の足枷を素手で……」
「さあな」
革の長靴を履くと、またイェルドが少女の足元に跪いて靴の紐を縛ってくれた。
イェルドも外套で全身を覆い、剣をその内側に隠してその上から荷物を背負った。
宿を出ると、一行は大きな黒い馬のところへ来た。
「つくづく思いますが、本当に良い馬ですね」
イェルドはトントンと馬の首あたりを叩き「待たせたな、メルー」と話しかけている。そして、少女に向かって手招きをした。彼女はおずおずと歩いて近づく。
少女は馬を見上げ、思わず両手をぎゅっと握った。ほとんど魔物だ。
「馬に乗ったことはあるか?」
少女は首を横にふる。イェルドは頷くと、少女をひょいっと持ち上げて馬の背に乗せた。馬の背の上は思ったよりとても高い。
けれども、イェルドがすぐに手綱を握って少女の後ろに飛び乗り、少女を後ろから覆うような格好になった。
「奴隷と一緒に馬に乗るやつなんて、初めて見たぜー。これなら、誰にもバレないだろうさあ」
声のした方を振り向いて、少女は危うく馬から落っこちそうになった。
そこには馬鹿でかい図体をした人間が立っていたのだ。こんなに大きな馬に乗っているのに、それでも見上げるほど背が高い。聞いたことはある。おそらく巨人族と呼ばれる種族だろう。この人を見るまではイェルドが巨人族なのかと思っていたが、間違いない。彼こそが本物の巨人族だろう。
「おっと危ねえ。驚かしちまったなあ。すまんすまん。俺あ、巨人族のリドだ。つっても、すぐにお別れだけどな!」
少女はまたお辞儀で挨拶を返した。
「鐙――そこの持ち手を掴んで、背筋を伸ばせ」
少女はイェルドに言われた通り、折れていない左腕で鐙を掴んで背筋をぴんと伸ばす。
「嬢ちゃん、まだ身体は痛むだろうが……もう少し我慢してくれな」
巨人族らしき男は見かけによらず優しい顔でそう言ってくれた。
「俺たちは目立つからついて行けないが、どうかその子を頼むぜえ。イェルドよー」
「あ、イェルド殿!」
何か思い出したようにティンバーが駆け寄ってくる。
彼はイェルドと少女の乗る馬の近くまで来て、鞄の中から一冊の本を取り出した。
「これを」
「これは……魔術書か。"炎術指南–其の参"……ヴルカーヌの指導書の写本か。よくこんなものを見つけたな」
表紙に染みがあり、ところどころ破れもあるようだが、写本としての完成度は高い。表紙には臙脂色に染められた上質な革が使われている。イェルドは右手の手袋を脱いで頁をめくり、中を見た。
一章:火への問、二章:根源たる火、三章...…なかなか興味深そうな書物だ、とイェルドは思った。
「火事のあった闇市の書店で売られていたんです。どうでしょう。役に立ちそうですか?」
「ああ。魔術書は貴重だ。二人共、本当に助かった。感謝する」
「無論、貴方が高位の魔術師だということは口外しません。約束します。ね、リド」
リドはティンバーの言葉に頷いた。
「二人共、恩に着る」
イェルドは本を鞄にしまって礼を言った。
「じゃあなー、イェルド。またどこかで会おうぜ」
「案外寂しいものですね。次に会った時はぜひ、手合わせをお願いしますね」
イェルドは苦笑し、歩き出した馬の上から手を振って二人に別れを言った。
二人を乗せたメルーはディヴァスの大通りへと歩みを進めた。
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