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17.治療

 少女は薄暗い部屋で目を覚ました。

 薄く目を開ける。瞳だけを動かして、あたりの様子を窺う。

 ろうそくの明かりが僅かに揺れているだけだ。

「うっ……」

 身体を起こそうと上体に力を入れると、腹に激痛が走った。

 意識がはっきりしてくると、身体のあちこちが痛み始めた。頭がずきずきと痛む。左腕にも絶えず鈍痛が走っている。

「起きたか」

 地の底から響くような低い声がした方を見ると、ぬっと熊のように大きな影が現れる。

 実際、男は熊の魔物のように大きかった。少女は思わず息を呑んだ。長い白髪の間に、青い瞳が見える。荒々しい無精髭と、筋骨たくましい肉体。これまで仕えてきたどの主よりも屈強で、恐ろしく見えた。

 彼の視線を受けると、無意識のうちに身体に力が入ってしまう。

 

 ――しかし、彼の声と姿には覚えがあった。


 そう。

 前にいた街で自分を助け、奴隷市に連れて行った男だ。

 そして、今度も炎の中から自分のことを救い出した。

 男は少女が横たわる寝台のすぐそばの椅子に腰を下ろし、小さく頭を下げる。

「すまなかった」

 少女には、男が何について謝っているのかよくわからなかった。

 すると、男が少女に向かって手を伸ばす。少女はほとんど反射的に体をびくりと震わせる。途端、全身に激痛が走った。

 苦痛に顔を歪ませる少女の背に、男はゆっくりと、慎重に手を伸ばす。

 少女は動けない。

 男は水袋を取り出し、少女の背中に手を回して身体を起こさせ、口元に水を持ってきて飲ませた。

 どれほど飲み物を口にしていなかったかわからない。

 少女は冷たい水が口内の渇きを潤し、喉を流れ落ちていくのを感じた。

 喉が潤うと、いくぶんか冷静になれた気がした。

 身体の下にはごわごわとした布団が敷いてあった。身体にかかっているのは布団ではなく、外套らしき布地だった。この男のものだろう。ずいぶん古いものらしく、ごわごわとした頑丈な布に油を引いたような手触りである。煤けたような若干緑がかって見える黒色だが、ところどころ色が抜けている。金属製の留め具には緑青が浮いて見えた。

 男は立ち上がり、扉を開けてどこかへ行ったかと思えば、小さな木の椀を持って戻ってきた。見覚えのある光景だった。男は寝台の近くの椅子に座り、少女の口元に椀の中身を持ってきた。

 食え、ということなのだろう。

 少女は小さな口を開けてそれを食べた。

 椀の中身は白く濁った液体で、とろっとしていた。ほんのり甘く、米の匂いが感じられる。

 男はひたすら少女の口に食べ物を流し込んだ。毎回少女がひと口分を飲み込むまで待ってくれていた。一口ひと口が胃にしみ渡るような感じだった。

 椀の中身がなくなると、男は黙って立ち上がり、またどこかへ行った。

 少女はゆっくりと周りを見た。どうやらまたどこかの宿に連れてこられたようだ。前の時よりも部屋が小さく、必要最低限のものしか置いていない。

 足を動かそうとすると、相変わらず重たい感触が伝わってくる。しかし、少女は何かがいつもと違うことに気づいた。ゆっくりと脚を動かすと、いつもなら止まってしまうはずの脚が思ったよりも大きく開いた。

 と、そこで男が戻ってきた。

 男は使い古した大きなたらいに水を張ったのを持ってきた。

 彼は少女にかかっていた外套を取った。

 ――すると、足かせの間を繋いでいたはずの鎖が切れているではないか。

 この男がやったのだろうか。

「腕を上げろ」

 男がそう言うので、少女は命令に従った。

「――っ!」

 腕を上げようとして、右腕に激痛が走る。男は少女の右腕を支え、伸ばした。

 こんな大男を怒らせてしまえばどうなることか、わかったものではない。

 男は少女のぼろきれのような服を脱がせた。そして、今度は少女の身体を片手で浮かせ、下袴も下着もすべてさっさと脱がせてしまった。

 少女は思わず外套を胸まで引き上げて自分の身体を隠した。

 奴隷として売りに出される時には裸のままということも珍しくなかった。けれども、それとはわけが違う。今は大男と狭い部屋に二人きり。少女は本能的に恐怖を感じていた。

 少女は恐る恐る男の顔を見る。

 しかし、そこからはどんな感情も読み取れない。悪意も、打算すらもない。

 男は有無を言わさず外套をどけ、一糸まとわぬ姿になった少女の身体を抱き上げる。抵抗しようにも身体が痛むし、そもそも成すすべがない。少女はただされるがままだった。

「落ち着け」

 男は少女をたらいの中へゆっくりと下ろしていく。

 足先がつくと、それはお湯だとわかった。温かい。熱くもなく、微温くもない。

「――っ」

 擦りむいて血が出た膝が浸かると、湯が染みて痛みが走る。少女はわずかに顔を歪ませる。

「少し痛むだろうが、我慢しろ」

 全身が湯に浸かると、あちこちにある切り傷や擦り傷が傷んだ。これは傷口から病に侵されるのを防ぐためだったが、少女はそんなことを知る由もない。

 しかし、湯の中は心地良い。何か少し鼻をつくような草花の奇妙な匂いもするが、嫌な匂いではない。不思議と身体の力が抜けていくのを感じた。湯の中では自然と身体が浮くので、痛くない。

 男は少女の擦り傷や切り傷を、柔らかい布で慎重に拭いた。

 触れられるのは怖い。けれども、抗うこともできない。無理に動けばまた身体に痛みが走るだろうから。

 顔と頭にも湯をかけられ、全身を洗われた。

 ひどく奇妙な気分だった。これは人が奴隷にすることではなく、奴隷が主人にすることだ。そういう仕事をする奴隷も見たことがある。

 湯がぬるくなってくると、男は鍋を持ってきて熱い薬湯を足した。

「しばらく入っていろ。右腕が折れているから、湯につけず、あまり動かさないほうがいい」

 そう言って、男は出ていった。

 

 これは何のなのだろうか。

 少なくとも悪意は感じない。

 自分のためにしてくれていることなのだろうか。だとしたら、なぜ。考えても答えはわからない。

 少女は目を閉じた。あの傭兵は、確かに前に一度会った男だった。彼はまた自分を市場に連れていくつもりなのかもしれない。全身がきれいになったので、今度はもっとちゃんと売れるかもしれない。そうしたら、少しはまともな場所で働けるのかもしれない。

 しばらくして、男は戻ってきた。今度は何やら見慣れない服を持っている。

「立てるか?」

 男が尋ねる。

 少女は頷いて立ち上がろうとするが、よろめいて倒れそうになる。男が左腕を取って少女の身体を支えた。

 彼は少女を支えながらたらいの外へ導いた。そして、持ってきたきれいな手ぬぐいで少女の全身を拭いた。次に男は少女に下着を着せた。

「そこに座れ」

 少女は男の手を借りながら、彼が示した寝台の縁に腰掛ける。

 男は少女の全身の擦り傷や切り傷に塗り薬を塗った。その手つきは優しかった。ときどき彼の手の表面の、ささくれた硬い皮膚が当たると痛かったが、少女は声を上げることなくじっとしていた。

 そして、彼が持ってきた服を着せられた。今まで着ていたものよりも格段に質がいいのは少女にも分かった。温かいし、肌触りもいい。少女はますますわけがわからなくなった。奴隷の自分にこんな服はどう考えても分不相応だ。

 服を着終わると、男は少女の右腕を取り、ぐっと伸ばす。

「――っ」

 少女は思わず苦痛に顔を歪め、腕を引っ込めようとするが男は腕を掴んで離さない。

「動くな」

 男の言葉に、少女は全身を硬直させる。

 その間に彼は腕に添え木をし、包帯をぐるぐる巻いて固定した。あっという間の出来事だった。

「勝手に外すなよ。治りが遅くなる」

 今度はまぶたとその上あたりに薬を塗られ、薬液をつけた眼帯を巻かれた。

「もう寝ろ」

 そう言うと、男は椅子に座ったまま腕を組み、動かなくなった。

 彼の静かな息遣いだけが聞こえる。眠ってしまったようだ。

 少女は呆気にとられていた。この男はなぜこんなことをしたのだろうか。足かせはもうないも同然だ。このまま逃げようと思えば逃げられる。

 ひとまず少女はまた横になって寝ることにした。

 今、少女が掛け布団にしているのは男の外套だ。持ち主の彼は椅子で布団もかけずに寝ている。それに対し、奴隷の少女は寝台で、掛け布団を敷布団に、男の外套を掛け布団にして寝ている。

 なんと奇妙なことだろうか。


 全身が綺麗さっぱり洗われて、気分は良かった。

 少女は久しぶりに、穏やかな眠りに落ちていくのだった。

お読みくださりありがとうございます。

結局一日遅れてしまいすみません...

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