13.絶望に沈む日
※注意:このエピソードには一部残酷な描写が含まれます。
傭兵の男は少女を新たな主人のもとへ連れて来た。
前の主人であるザルボフにもう一度会うのは怖かったが、それよりもこの傭兵の男のほうがもっと恐ろしかった。ザルボフが声を荒げて何か言った時、この傭兵はただザルボフを睨みつけた。少女を睨んでいるわけでもなかったのに、確かに睨みつけられているような感じがした。きっとあの部屋にいたみんながそう感じた。
あの感覚は、昔感じたことがあるような気がする。獰猛な獣に睨まれて身動きできない感覚。
ただ、捕食されるのを待つ獲物になったかのような気分だった。身体の芯が冷えるような、恐ろしさ。
結局、少女はディヌーンという新たな金持ちの商人に仕えることになった。
「お前、男の相手をしたことはあるか?」
少女には彼の言う意味がなんとなくわかった。娼館の下働きをしていたことがある。
でも、実際に娼婦たちのような働きをしたことはない。少女は首を横に振った。
「ならお前はディヴァスの娼館に行かせることにしよう。そこで娼婦の仕事の何たるかを学べ」
ディヌーンは少女を商売道具としてしか見ていないようだった。
少女に興味はなく、その先のただ彼女を使って得られる金にしか興味がないのだろう。
「あそこの主人はやり手もやり手……きっとお前のような乳臭いガキでも立派な娼婦に育て上げるだろうよ」
ディヌーンは振り返ってもう一度少女の身体をじろじろと観察する。
「ふん……胸はないが……まだこれからか。それに、肉付きの少ない身体を好む客も少なからずいる」
少女の目は虚ろだった。きっと、これからも大して生活は変わらない。
姉のように優しかったあの奴隷を覚えているのは自分と彼女の妹くらいだろう。彼女を死なせてしまった罪は、自分の中にだけ残っている。そういうものだ。
彼らは、奴隷たちの間で何が起ころうとも気にしない。奴隷は使い潰され、死ぬまで働くだけの道具だ。
「向こうに行ったら娼館の主人と奴隷契約をしろ。くれぐれも、他のやつと契約するんじゃないぞ」
次の日、隊商の馬車に乗り込んだ。狭い荷車に、少女を含め八人が乗っていた。
その次の日、隊商はノクサルナに向けて出発した。
旅は長く感じた。時折、傭兵と思しき巨漢が水や食べ物をくれた。彼ら傭兵が狩ったと思われる野鳥の焼いた肉のかけらを分けてくれることもあった。大した食事ではないが、それでもディヌーンのところで出される食事よりも豪華だった。
ある夜、傭兵たちが話しているのが聞こえた。
一人はいつも食事をくれる巨人族の声で、もうひとりの声もどこかで聞いたことがあるような気がした。もしかしたら、あの時助けてくれた傭兵の男かもしれない。
彼らが何の話をしているのかはよくわからなかった。
その日の夜、荷車は急に出発した。
獣と人の争う声が聞こえ、爆発のような音がして怒声が飛び交う。少女は膝を抱いてぎゅっと身を縮こまらせた。
やがて、まだ日が昇らないうちに荷車が出発した。馬を急がせるものだから、背中を荷車の壁に何度も打ち付けて痛かった。足かせに当たる足首も、皮膚が擦り切れて血が出ていた。
いくら身体が傷んでも、どうすることもできない。荷車の柱にぶつけた肩をさするために手を伸ばす力も残っていない。
やがて、馬車は止まった。ほろが取り去られ、眩しい太陽の光が差し込む。
凄まじく大きい男の姿が見えた。
「こんな小さい子が……元気でな」
姿は怖いけれど彼の声は優しく、身を案じてくれているのがわかった。
ここに来るまでに少しはいいことがあった。この巨漢と、あの、少し――いや、かなり怖い傭兵は少女によくしてくれる数少ない人たちだった。
「さあ、お前とお前、降りるんだ」
背の低い若い男がそう言って少女ともうひとりの、もう少し年上の女性を下ろした。女性は陽の光の下で見ると、やつれてはいるがきれいな人だった。体つきも豊かなほうだ。
「こいつは?」
知らない男が少女を指して尋ねる。
「こいつはディヌーンの旦那からの頼みです。ここで教えてやれとのことで」
男は舌打ちをして不機嫌そうに言う。
「冗談じゃない。ここは孤児院じゃないんだぞ」
男は少女を汚物を見るような目で見下ろした。
「この汚らしいガキに……こんなやつに娼婦が務まると本気で思っているのか?」
「ディヌーン様からのお達しでして……」
「あの金の亡者め。こちらも新人の教育で手一杯だと言うのに……こんな痩せたガキをどうしろと? 誰がこいつのお守りをするんだ? こんな奴にまで飯をくれてやる余裕はない!」
「し、しかし……」
「鉱山奴隷にでも売ってしまえ。どうせどこも人手は足りていないだろうからな。ひとまず奴隷市の倉庫奥にでもぶちこんでおけ」
「畏まりました」
「いや、待て――」
そこで、娼館の主人らしき男は少し考えて言う。
「いい。俺が連れて行こう」
言われた通りにするしかなかった。連れて行かれた場所には、たくさんの奴隷たちがいた。
中には、腐臭がして虫がたかっている檻もあった。少し血のような臭いもする。ぞっとせずにはいられなかった。少女は中を見ないようにした。
その倉庫にはあまりにも多くの奴隷がいるせいでもう檻は足りていないようだった。少女は壁に打ち付けられた金具に足かせの鎖を固定された。粗末な拘束だが、もう僅かな体力しか残っていない少女にとっては十分すぎるものだった。
「ここは見捨てられた奴隷の墓場みたいなもんだ。諦めたほうが良い」
そう言って、男は出ていくかのように思われた。
少女は俯いていた。周りの奴隷など見たくなかった。これからの自分の運命を直視できない。
ただ地面を見る少女の視界に男の履いた黒い靴が映る。
――突然、頭に重い衝撃が走った。鈍い音。視界が一瞬、真っ白になる。
「この野郎ッ!」
怒りに満ちた声だった。考える間もなく、次の蹴りが少女の側頭部を捉える。
また、凄まじい衝撃が頭蓋を揺らした。少し遅れて、痛みが頭に広がる。
「クソっ! あの、性悪親父めッ! なぜッ、こんな! 役に立たない、クソガキなんかをッ! いい加減にしやがれッ!」
怒声が飛ぶごとに、男の靴が少女の頭を強烈に蹴った。靴底を頭蓋に叩きつけ、骨を砕かんばかりの勢いでつま先が少女の顎を蹴り上げる。耳鳴りがして、視界がぼやける。鉄のような血の味が口の中に広がる。一瞬、世界が眼の前から遠ざかっていくような感じがする。
「この、クソ野郎ッ! 死ねッ! –––ッ! ――――」
みぞおちを蹴られると口から息が漏れて、ひゅっ、という変な音がした。
ただ成すすべもなく蹴られるばかりだった。
次第に意識が朦朧とし始める。男が何を言っているのかもわからなくなってきた。
誰がそこにいるのかもわからない。自分はなぜ蹴られているのかも、どこを蹴られているのかもわからない。ただ、ひたすら終わってほしいと願うことしかできない。暴力の時間は永遠のように感じた。
それがどれくらい続いたのかわからない。男は最後に側頭部を靴の踵で押さえつけ、少女の顔をつま先で思いっきり蹴りつけ、顔につばを吐いて去っていった。
すべての感覚が曖昧で、身体のどこにも力が入らない。苦痛という苦痛を感じないのは、痛覚が麻痺してしまったからだろうか。まだ耳鳴りは続いているし、視界は血に染まってよく見えない。自分はまだ息をしているのだろうか。
冷たい土が頬に触れている。血の匂いが鼻腔を満たす。
…………きっと、奴隷なら誰でも良かったのだろう。
しかし、少女にはこの暴力が自身への罰に思えてならなかった。リュミアを死なせて――殺してしまった罰。
少女は地面に横たわったまま動かなかった。
いつの間にか日が沈みだした。もうどれほど地面に横たわっているのだろうか。
やがて、どこかで大きな音が聞こえ、地面が揺れ始めた。
どこからか火のにおいがした。
炎が燃え、木が弾ける音が聞こえる。
火事が起こったらしいということはなんとなくわかった。人々の叫び声、多くの足音が聞こえる。
だんだんと眼の前が明るくなってきた。熱を近くに感じる。
それでも少女は少しも動かなかった。もう、生きる力が僅かほども残っていなかった。
しばらくして、重い、しかし急いたような足音が近づいてくるのが聞こえた。
その人は少女の眼の前まで駆け足で来た。半開きの目に写った靴は、さっきの男のものとは違った。
その誰かは、何も言わなかった。少女の唇にその人の固い指先が当たった。そして、その人が息をつく音が聞こえた。
少女は声を出そうとした。しかし、もうそんな力はない。声にならないはずの言葉を話そうとした。ただ唇がゆっくりと、少し動いただけだった。
しかし、彼は答えた。
「わかった」
金属音がした。どうやら、何かで鎖を断ち切ったらしい。
太い腕が自分をゆっくりと抱き上げたのが分かった。
その人の腕の中は、ただ温かかった。
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