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10.無言の嘘

 ――以前の主人の名は、ザルボフ・ロペテといった。小太りの貴族で、街の領士と仲が良いらしかった。

 奴隷の命をなんとも思わない男だった。

 彼のところに行く奴隷は多くとも、生きて屋敷を出ることができる奴隷はいないとさえ言われていた。

 仕事をしていると、いつも誰かの悲鳴と、謝罪の声がどこからか聞こえてくる。声が聞こえると、少女はいつもびくりと身を震わせて縮こまった。

 大勢の奴隷が働いているのに、屋敷の中は静かだった。全員が主人の機嫌を伺い、目をつけられないように淡々と作業をしていた。

 夜、六人が眠る奴隷部屋で、話しかけてくる女の奴隷がいた。よく笑う女の子だ。少女よりも十は年上に見えた。茶髪で、素朴な顔立ちで、ほかの奴隷たちと同じように痩せていた。

 だいぶ長い間ここで働いているようだった。ろうそくの淡い明かりの中、彼女は自分の冬着を編んでいた。

「私はリュミア。あなたは?」

 少女は首を横に振った。

「そう。やっぱり私みたいなののほうが珍しいんだね」

 生来の奴隷には名前がない。名前があるリュミアは、かつては奴隷の身分ではなかったがどこからか売られてきたということだろう。

「ね、まだここに来て間もないんでしょ?」

 少女は首を縦に振る。

「私はこの家の仕事のことはいろいろ詳しいからさ、何か困ったことがあったら私に聞いてね!」

 彼女はいわゆる債務奴隷、という種類の奴隷らしかった。売られた時の値段と同じだけを、自分で働いて返すというものだ。彼女の給料は働き始めたばかりの少女と変わらないくらいだが、少女とはちがい、いずれは解放されるというわけだ。

 彼女は寒い風の入り込む閉まらない窓の外を見た。つられて少女も外を見ると、満天の星空だった。空を見上げるリュミアの目には、希望が見えた。しかし、その星空は名もなき少女にはこの上なく虚しく映るのだった。

「あなたは、ずっと奴隷のままなのかな」

 わからない。そんなことは、知る由もない。気づいた頃には奴隷だったのだ。

 でも、多分そうなのだろうと思い、少女は頷く。

「…………そっか。残念だね」

 なぜこのひとは、そんなことを言うのだろう。ずっとこのひどい暮らしを続ける自分を嘲りたいのだろうか。

「私ね、妹がいるの。あなたと同じくらいの」

 少女は黙って聞いた。黙るも何も、声の出し方なんてもう忘れてしまったから、話しようがないのだが。

「あの子、病気だったの。薬を買うために私がここに売られてきたってわけ。病気は治ったみたいだけど、いつまでもあの子ひとりにしておくわけにはいかないでしょ? だから、早く帰らなきゃなんだ」

 彼女は大人だ。十五の成人を迎えたかそうでないかくらいの年齢だが、少女にとってはずっと大人に見えた。大人、とはこういう人を言うのだろうと、少女は思った。

「家事を身につけておくのは大事だよ。できることが増えれば、この屋敷じゃない、もっとマシなご主人様のもとで働けるかもしれない」

 今に甘んじること無く、できる限りの努力をして、明日はきっともっと良くなると信じて。彼女は今までそうやってきたのだ。

 だが、喋れない少女は心の中で思っていた。

 リュミアには悪いが、自分はどうせすぐに他の所に行くことになる。何せ、自分は家事奴隷のくせに家事がろくにできないのだ。頭でやり方をわかっているつもりでも、すぐに気が散って、別のことを考えているうちに失敗してしまうのだ。

 そして、また、ここよりもひどい家に前よりも安い値段で売られることになるのだ。

「大丈夫だよ! 私が教えるから!」

 不安そうにする少女の頭を、リュミアは水仕事で荒れに荒れた手で優しく撫でた。

 少女はただその優しい温もりを感じた。自分にも、こんな姉がいたような気がする。

 きっと気のせいだろうけれど。きっとただの願望だろうけれど。




 それから、リュミアは本当にいろんなことを教えてくれた。

 洗濯も、料理も、皿洗いも、掃除も。少女が失敗するたびに、リュミアが手助けをしてくれた。

 リュミアは唯一、あの屋敷で少女を守ってくれる存在だった。彼女が少女を見る目はいつも優しかった。

 ――あるいは、少女を通してその向こう側に誰かを見ていたのだろうか。

 いつの間にか、二人はいつも一緒にいるようになっていた。

 寒い冬の日は、少女がリュミアの薄い布団に潜り込んで一緒に寝た。彼女はいつも、自分の妹の話をしてくれた。

「妹はね、絵を描くのが好きだった。私の姿を描いてくれたときは、本当に嬉しかった。でも、妹には私の顔が実際の十倍くらいの美人に見えてるみたいだけどね」

「妹は昔から身体が弱かったの。お父さんとお母さんが死んでからは、絵の具どころか薬も買ってあげられなくて…………もう一度、絵を描かせてあげたいなって、思ってる」

「私ね、夢があるの。いつか自分を買って、うちに帰って元気になった妹とお腹いっぱい羊のシチューを食べるの。その時には、あなたも……来てくれたら、嬉しいな」

 彼女はいつも、決して答えることのない少女に話しかけ続けた。自分も寒さで震えているくせに、にっこりと微笑んで少女に食べ物を分けた。

 ――――少女は自責の念に苛まれる。

 自分は、生きていてはいけない外道なのだと、自身に言い聞かせる。





 ――あんなに優しく、姉のようにしてくれた。姉のように慕っていた彼女を殺したのは、他でもない自分なのだ。





 ある日、主人の書斎を掃除していた時だった。

 少女は雑巾で棚の上を拭いていた時、何か木の箱のようなものを落としてしまった。

 それが床に落ちた時、最悪な音が書斎に響き渡った。中で何かが割れるような音だった。

 少女は自分の顔からさあっと血の気が引いていくのがわかった。

「大丈夫!? 怪我してない?」

 近くで一緒に掃除をしていたリュミアが真っ先に駆け寄って、少女を心配してくれた。

 音を聞きつけた使用人が主人のザルボフを呼んで部屋に入ってきた時には、死を覚悟した。太った男は脂ぎった顔にのった二つの目をぎょろりと動かし、少女を睨んだ。

「…………お前か? お前がやったのか?」

 殺される、と思った少女は、咄嗟に横に居たリュミアを見た。まるで、私ではなくこの女がやったのだとでも言うように。

 ザルボフが尋常でなく怒っているのは明らかだった。以前から噂を聞いていた。彼は小さな失敗を犯した奴隷にも、とても口には出せないような厳しい罰を与えるのだと。

「おい、お前。お前がやったのか。このチビはお前がやったと言いたいらしいが」

 リュミアは驚いた表情をして固まった。

 永遠にも思える沈黙だった。少女はもう何も考えられなかった。ただ、自分がどんな罰を受けるのか、怖くて怖くてたまらなかった。

 ――沈黙を破ったのはリュミアだった。

 彼女は静かに言った。

「仰る通りです」

 少女は違う、と言おうとした。しかし、声が出なかった。いや、声を失っていなかったとしても、異を唱えることはできなかったかもしれない。きっとそうだろう。

 リュミアは続けて言った。

「魔道具を落として壊してしまったのは私です。大変申し訳ありません、御主人様」

「…………貴様。これがどれだけ価値のあるものか分かっているのか? 貴様が一生死にものぐるいで働いても贖えない代物だぞこれはァ!」

 ザルボフは狂ったように声を荒げ、中身が飛び出した箱を指差す。ガラス細工のようなものが、金に装飾された箱の中から飛び出していた。魔道具というものはよくわからないが、とにかく想像もつかないくらい高価なものであるということは知っていた。

 少女は目をぎゅっと瞑った。何も見たくなかった。

「申し訳ありませ――」

 どすっ、と重い音がした。頬を殴られ、リュミアが苦痛に顔を歪める。

 ザルボフは怒りの収まらぬ震えた声で言い放った。

「連れていけ」

 リュミアは少女の方を見て微笑むと、小さな声で何か言った。きっと、「だいじょうぶ」と言ったのだろう。それは彼女の口癖だった。

 けれど、彼女の唇は震えていたように思う。

 彼女は使用人に腕を掴まれて、少しの抵抗もせずにどこかへと歩いていった。

 少女は後になって知ったが、主人――ザルボフは、リュミアに鞭打ち百回の罰を言い渡したそうだ。


 それから少しして、中庭から鋭い悲鳴と、許しを請う声が何度も聞こえた。少女は思わず耳を塞いでその声が止むのを待った。

 しばらくすると、悲鳴と鞭の音は聞こえなくなった。

 悲鳴が止むと、屋敷にはある種の異様な静寂が満ちていた。

 少女は動悸が止まらなかった。

 ――でもきっと大丈夫。リュミアは優しいから、叱られ慣れているから、許してもらえるに違いない。そう自分に言い聞かせる。

 謝ろう。今度こそ、声が出なくても、頭を下げてちゃんと伝えよう。

 

 裏口の掃除を言い渡されていた少女は、奴隷らしき二人が担架を運んでくるのを見た。

 その上に横たわっていたのは、もう動かない、血まみれのリュミアだった。

 

 少女の足から、力が抜けた。

 眼の前が真っ暗になった。

 

 リュミアの背中の皮膚は裂け、全身が赤く染まっていた。

 一目見れば分かった。もうとうに事切れていた。半開きの目は虚ろに少女の方を見ていた。口から血を吐いていた。 口元がかすかに、微笑んでいるように見えた。

 その時やっと気が付いた。自分はとんでもない罪を犯してしまったのだと。

 

 自分は嘘をついた。沈黙という嘘を。

 

 そのせいで、優しいリュミアは死んだ。リュミアの妹があの姿を見たら何と言うだろうか。

 少女の嘘のことが分かったら、彼女の妹は――。

 少女はただ呆然としていた。手から箒が滑り落ちる。少女の前を通り過ぎ門を越えて彼女は行ってしまう。

 すべてが重くのしかかり、涙も流れなかった。

 少女の目の前で、門が重い音を立てて閉まった。






 次の日から仕事が手につかなくなった。何もやる気が起きないし、あまりにも愚かしい自分に絶望していた。

 それに、主人がとにかく怖かった。また何かやらかしたら、今度こそ自分が殺されるだろう。もう、かばってくれる人はいないのだ。

 未だに自分は仕事をうまくこなせないのに、リュミアがいなくなってしまったら今度こそは自分の番だ。

 そんな考えばかり浮かぶ自分も許せなかった。もう彼女は帰ってこないのに。結局は自分が一番かわいいのだ。

「働く気がないなら出ていけ。お前なんぞの変わりはいくらでも居るんだ」

 少女を見下ろすのは蔑みの目だった。ゴミを見るような目つきだった。

「まあ、お前のような者の買い手がつくとは思えんがな。思えば、お前を買い取った日からだ。こうも悪いことが続くのはお前のせいだったのだろうな、なんと忌々しい。その汚ッたない髪に痩せこけた身体、吸血鬼のような悍ましい赤目。おまけに気味の悪い痣まである。せいぜい変態貴族の足でも舐めるているといい。でなけりゃ道端で飢え死にだな! ハッハッハッ!」

 ザルボフにそう告げられ、裏口から叩き出された。

 主人は少女には痛めつけたいほどの魅力を感じなかったのかもしれない。少女を追い出した主人たちはみな口々に言う。「お前のせいで不幸になった」「お前は呪われている」と。

 そんなこと、少女は知らない。例えそれが本当だとして、どうすればいい? 少女には分かっていた。皆、少女の赤い目や腕の痣が嫌いだった。ザルボフは気味が悪いと言って、少女の右腕の痣の上から強力な染料を塗りつけた。最初のうちは痒くて堪らなかったのに、いつの間にか慣れてしまった。痣が見えなくなるならそれでいいとも思った。でも、この目はどうしようもない。吸血鬼のようなこの赤い目は。



 やがて雨になった。少女の足はひとりでに貧民街へと向かった。

 しかし、そこは生に執着のない者が生きていける場所ではなかった。残飯を漁ろうとすれば、横から伸びてきた手に先を越された。皆は少女の姿を見ると剣呑な目つきで威嚇し、食料を奪われまいと必死だった。

 少女はそんな彼らとは争う気も起こらなかった。

 逃げ隠れしながら、三日間、飲まず食わずで歩き回った。

 三日経っても雨は止まなかった。雨が降り続いているというのに、喉は乾ききって変に痛む。空腹で腹がちぎれそうな感覚がする。

 痛い、痛い、痛い。全身が痛い。左腕が痛い。腹が、喉が、脚が、左腕が痛い。

 道端に水たまりを見つける。少女は倒れ込むようにして泥水を舐めた。嫌悪を感じる余裕なんてない。きっと砂を飲み込んだし、口の中に細かい石が残った。けれど、喉の渇きはほんの少し和らいだ。その日はなんとか眠りにつくことができそうだった。彼女は厩の軒下に座って眠ることにした。

 五日経って、身体の痛みを感じなくなった。慣れてしまったのかもしれない。ただ、塗料を厚塗された左腕だけが変に熱い。

 遠くから、馬が駆ける音が聞こえる。なにかに躓いたわけでもなく、足がもつれて転んでしまった。

 自分はついに死ぬのだろうと思った。

 生きていてはいけない人間だと、分かっている。

 リュミアにも、彼女の妹にも、どの面を下げて生きていけばいいのか。それでも、自決する勇気も体力もない。

 遠くから聞こえる馬車の音に、少女は思った。

 

 いっそ轢き殺してくれるなら――。


 その時だった。あの大男に拾われたのは。

お読み頂きありがとうございます。

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